桃花の章
「犬夜叉、ちょっと休んでかない?」
犬夜叉たち五人と一匹の一行は、穏やかな春の陽射しの下、延々と続く道をただ黙々と歩き続けていた。
「なんだぁ? まだ陽は高いだろうが」
「だって、こう歩きづめじゃあ……ねえ、七宝ちゃん」
くたびれきった表情のかごめは同意を求めるように肩の上の仔狐を見た。
「おらも少し疲れた」
「おめーはずっと、かごめの肩に乗っかっていただけだろうが」
「犬夜叉。おまえにあわせていたら、か弱い人間の我々はばててしまいます」
七宝を睨む半妖の少年の前にすっと割って入った法師がなだめるように言った。
「あと少し行けば村があるはずですから、そこでひと休みさせていただきましょう」
「……法師さま、なんで村があるって判るのさ?」
ちらりと横目を向けてくる珊瑚に、弥勒は穏やかに言葉を継いだ。
「この辺りは以前にも来たことがあります。そうですな、一年ほど前でしたか」
そして、ふと彼は全員が足を止めて胡乱な眼で自分を見つめていることに気づいた。
「どうかしましたか?」
「なーんか、嫌な予感がする」
「……あたしも」
珊瑚がぼそっと言うと、ため息をこぼすようにかごめも同調した。
「?」
きょとんとする法師の肩にひょいと飛び乗った七宝が、彼の耳にこそりとささやく。
「かごめたちは、その村でまた弥勒が昔口説いたおなごに出くわすのではないかと心配しておるんじゃ」
「何を言っているんですか、七宝」
「弥勒は前科があるからのう」
法師はにっこりと二人の少女たちを見比べた。
「大丈夫ですよ。その村では誰も口説いてません。あそこでは真面目に妖怪退治をしましたから、私を覚えていれば、きっと歓迎してくださるでしょう」
大きくはないが、のどかな村だった。
「とりあえず、名主さまのところで──」
と、法師がかごめに言いかけたとき、少し離れたところできゃあっと黄色い歓声が湧き上がり、彼はそちらを振り向いた。
「あれは弥勒さまでは?」
「あのときの、旅の法師さまでしょう?」
若い娘が数名固まり、我先にとこちらへやってくる。
「おお、若葉どのに、静どのに、美里どのに、雪野どの!」
娘たちの名前をすらすらと並べ立てる法師に、かごめと珊瑚は唖然として彼を見た。
「……やっぱりじゃ」
呆れたつぶやきを洩らす七宝と犬夜叉は冷ややかな眼差しを送っている。
個々に口説いたわけではなくとも、みなに平等に愛嬌を振りまいていたようだ。
「弥勒さま、また村を訪れてくださると信じてました」
「みな、元気でしたか?」
「弥勒さまもお変わりなく」
華やいだ声の娘たちに囲まれる弥勒を茫然と見つめていた珊瑚がはっと我に返り、ずいっと前に進むと法衣の袖を引っ張った。
「ちょっと法師さま。かごめちゃんや七宝は疲れてるんだから、こんなところで立ち話しないで」
「ああ、そうでしたな」
棘のある声にも弥勒は鷹揚にうなずくが、法師との再会の場を邪魔された娘たちは不満げに珊瑚を睨む。
「では、若葉どの、静どの、美里どの、雪野どの。私たちは名主さまの家に行きますので、のちほど」
錫杖を鳴らして歩を進める弥勒の後ろにかごめ、七宝、雲母、犬夜叉と続き、珊瑚も行こうとしたとき、その場にいた娘の一人が彼女の腕を掴んで引きとめた。
「あんた、弥勒さまの何?」
咎めるようなその娘の言葉と視線を、珊瑚はまっすぐ受け止めた。
「ずいぶん弥勒さまに馴れ馴れしいのね」
「仲間だから」
短く答えた珊瑚を小馬鹿にしたような表情を、娘たちは作る。
「でも、さっきの奇妙ななりをした娘とは違って、あんたはまるで弥勒さまの恋人気取りね」
「そんなつもりじゃ──」
屹となる珊瑚に四人の娘は、そうよね、と思わせぶりにうなずきあった。
「弥勒さまがあんたなんか相手にするはずないわ」
「あの方は、誰のものでもないもの」
「……どういう意味さ?」
別の娘が嘲笑うように珊瑚を見遣る。
「自分は特別だとでも思ってる? 弥勒さまと旅をしていたのなら解るでしょう? あの方は、一人のおなごに縛られることは決してないってこと」
険しい表情できゅっと唇を噛む珊瑚に、また別の娘が背後の山を指差した。
「ほら、見える? あの山の桃色。あれは決して実のならない桃の木よ。弥勒さまもあの桃と一緒。本気で恋などする方ではないのよ」
「綺麗でしょ、あの桃。実はならなくても花で楽しませてくれる。弥勒さまもそんな方。所詮、片恋でしかお慕いできないのよ」
くすくすと笑いあい、娘たちは珊瑚を残して、名主の家のほうへと駆けていった。
取り残された珊瑚は、亡羊の嘆で村外れの野まで進み、その斜面に座り込んだ。
傍らに飛来骨を置いて、正面の山を、その山の一部を華やかに彩る桃の木を見つめた。
そのままぼんやりと、色彩としてしか捉えることのできない桃の花を眺めていると、不意に現れた緋色の影が、彼女の隣に無造作に腰を下ろした。
「おい、あんなの気にすんな」
「……聞いてたんだ」
「聞こえたんだよ」
けだるげに隣を見ると、前を向いたままぞんざいに言葉を投げてくる半妖の少年の銀の髪が風になびく様が眼に映った。
「弥勒も弥勒だが、いい加減、おめえも慣れただろ。いちいち気にしてたら切りがないぜ」
「そうなんだけどね」
犬夜叉はため息をつく。
「おまえ、充分いい女だぞ。もっと自信持て」
「ほんとにそんなこと思ってんの? じゃあ、あんたに乗りかえようかな」
「えっ……?」
艶めいた流し目で自分を見る珊瑚と目が合い、微かに頬を赤らめて、犬夜叉はにわかにそわそわし出した。
「いや、おれは、ほら、あれだし。おまえは確かにいい女だけど、おれには、その、あいつがいるし」
「冗談だよ。三股男の三番目の女なんて、あたしだって嫌だ」
「……」
ほ、とため息をついて淡々と言う珊瑚に、犬夜叉はむっとなる。
「おめえなあ……一応なぐさめてやろうとしてんだから、他に言い方があるだろ」
珊瑚は、くす、と小さく笑った。
「解ってるよ。ありがとう。あんたはやさしいね」
ふっと犬夜叉が表情を緩めたとき、脳天をしたたかに殴打された。細長い物──錫杖で。
「痛てっ!」
「なーに珊瑚を誘惑してんですか。かごめさまという存在がありながら、生意気な」
「ばッ……!」
「違うよ、法師さま。あたしが犬夜叉を誘惑してたの」
しれっと答える珊瑚の言葉に、法師よりも犬夜叉のほうが慌てた。
「ななな何言ってんでいっ! おれは誘惑なんかされてねえぞ。おまえがあんまり落ち込んでるから」
「ほーお」
法師の持つ錫杖が小気味いいリズムで犬夜叉の頭を連打する。
手加減はしているのだろうが、かなり痛い。
「珊瑚に口説かれるとはいい御身分ですなあ」
そこで弥勒はついっと犬夜叉に顔を近づけた。
「手ぇ出してねえだろうな」
「出すか、アホッ!」
理不尽に殴られた腹いせもあって、犬夜叉は苛々と法師を怒鳴りつけた。
「もとはといえばてめえのせいだろっ。村の女どもにあんなこと言わせて、珊瑚を泣かせるから!」
弥勒はふと真顔になり、傍らの娘に眼を向けた。
彼女はうつむいたまま、足許の草を弄んでいる。
「すまんな、犬夜叉。珊瑚と二人きりにしてくれ」
「おう。もう、こいつを泣かせんなよ」
顔を伏せた珊瑚にちらと気遣うような視線を投げ、犬夜叉は立ち上がると村へと踵を返した。
その姿を見送ってから、弥勒はさっきまで犬夜叉が座っていた場所にゆっくりと腰を下ろす。
「珊瑚」
「あたし、泣いてないよ」
「何を言われた?」
珊瑚は淡々と正面に見える山の峰に視線を向けた。
「あの山の桃の木に実がなったら、あたしの願いは叶うかな」
「何故そう思う?」
少し躊躇い、彼女は注意深く言葉を選んだ。
「さっきの娘たちが言ってた。あそこの桃の木には実がならないんだって」
「だから?」
再び珊瑚はうつむく。
「法師さまが誰か一人のものになることなんてあり得ないって。法師さまが本気で誰かを好きになるなんて、あの桃の木に実がなることと同じくらいあり得ないことだって」
──そういうことか。
法師は深くため息をついた。
「なあ、珊瑚。あの桃の木に実がならないと、誰が決めたんだ?」
傍らの娘へというより、遠くに見える桃の花に語りかけるようなその声音に、珊瑚はふと彼を顧みた。
「今しがた、私は雲母とあの峰へ行って、桃の枝を折り取ってきた。あそこは麓の者が簡単に登ることのできない険しい場所だ。実がなっていたところで、誰が気づく?」
弥勒は自分を見つめる娘に視線を合わせた。そっと伸ばした手を娘の肩に置いて、引き寄せる。
彼女は簡単に腕の中に収まった。
「私が恋をしていないと誰に言える? 一年前の私と今の私は違う。おまえにそのようなことを言った者たちは、私の心の中を覗いてみたとでもいうのか?」
「法師さま……」
「私の心に実がなっているかどうか、おまえだけが知っていればいい。おまえは、会ったばかりの娘たちの言葉と私の言葉、どちらを信じる?」
珊瑚は法師から視線を逸らし、顔を伏せた。
「……怖かったんだ」
「うん?」
「法師さまを信じてはいるけど、あたしなんかやっぱり法師さまに相応しくないって。周りからもそう見えるんだと思ったら、急に怖くなって」
「珊瑚」
つ、と娘の頬を流れた雫を親指で拭い、法師はその額に口づけた。
「怖いのはおまえだけではない。私こそ、おまえには相応しくない男だと」
「そんなこと──」
「実を結ばなければ安心できんか?」
「そんなことない。それに、桃に実がなる時季には、あたしたちはこの村にいないよ」
「あの山の桃ではなく、おまえと私との仲が、です」
きょとんとこちらを見上げてくる娘の額に、法師はこつんと自らの額を合わせた。
「おまえがそうしたいと言うのなら、今宵にでも契りを交わしましょうか」
「へっ?」
桃の花びらのような色の頬をした娘の、朱を刷いた眼がまんまるになる。
「いっ、いいっ! そこまでしなくてもいい! 解ったから! 法師さまを信じてるからっ」
己の肩を抱く法師の手をそろっと外し、じりじりと彼から距離を取る珊瑚に、弥勒は噴き出した。
「全くおまえは。気づいていないだけで、あふれるほどの魅力を持っているくせに。もっと自覚しなさい」
ぽっと頬を染めて大きく眼を見張る珊瑚の顔を見つめ、弥勒はふと眉をひそめた。
「いや、自覚するな」
「どっちなのさ」
「自覚されて、別の男に乗りかえられては困る。気づいてないでしょう。それでなくとも、おまえは容姿だけで男どもの目を惹きすぎる」
「なっなに言ってんの! あたしは法師さまと違って浮気なんかしないよ」
「ほう、それほど私に夢中ですか」
にんまりと笑む弥勒から珊瑚はぷいっと顔を逸らした。
「知らないっ!」
珊瑚の表情から憂いが消えたのを見て、おもむろに弥勒は立ち上がった。
「とにかく名主さまの家に戻りましょう。私はおまえを迎えに来たんです」
「え、でも……」
珊瑚が躊躇するのは、先ほどの娘たちと再び顔を合わせたくないからだろう。
「大丈夫。私にとっておまえがどのような存在なのか、はっきりさせますから」
「法師さま」
「みなの前で言ってあげます。海よりも谷よりも深ーく結ばれた仲だと」
「……やっぱり何も言わなくていい」
拗ねた子供のような口調になる珊瑚に、くすくすと笑いながら弥勒は手を差し出した。
「酒の用意がしてある。縁起物だから、私のために飲んでくれるな?」
「酒?」
「桃の枝を取ってきたと言ったでしょう?」
「あ……」
桃の花びらを酒に浮かべて飲むと生命が延びるという言い伝えを、珊瑚も聞いたことがあった。
大陸の仙女・西王母の園の、三千年に一度、実をつけるといわれる桃にちなむ伝説で、邪気払いの意味も持つ。
「私のために」などと言われては、断れるはずもない。
珊瑚は差しのべられた手を取った。
立ち上がると、そのまま手を引かれ、抱きよせられた。
「おまえへの気持ちを言葉にしたのは、私の迷いを捨てたからだ。おまえも、もう迷うな」
「うん。もう、迷わない」
「では今宵、契りを」
「もう迷わないから、しなくていい」
法師の腕からすり抜けた珊瑚は、飛来骨を持つと、花びらが舞うように弥勒を振り返った。
「行こう。法師さま」
微笑む娘に微笑を投げかけ、今一度、弥勒は向こうの山の桃の木々を目に映した。
あの桃に実がなろうがなるまいが、揺らぎはしない。
自分の心にも、珊瑚の心にも、確かな実がなっているのだから。
あとは、想いを形にして残したいから。
そのためにも闘う。
そのためならば──闘いぬける。
〔了〕
2008.3.5.
(作者未詳)