椿の章
道端にぽつんと建っている寂れた御堂を見つけた。
飛来骨を持った退治屋装束の珊瑚は、隣を歩いている法師をちらりと見遣る。
二人だけで奈落側の動向の偵察に来ている彼らには疲労の色が濃い。不意の襲撃を受け、昨夜は一睡もしていないのだ。
犬夜叉は怪我を負い、かごめや七宝の護衛のためにも雲母は残してきた。
そして法師は本調子ではない。瘴気を吸った風穴がまだかなり痛む。
「法師さま、少し休んでいこう」
「私なら大丈夫だ」
「ううん。あたしが疲れたんだ。少しだけ、いい?」
二人は探り合うように視線を交わす。
それが彼を気遣っての言葉であることは明白で、そんなふうに言われては断れない。
「では、少しだけ休んでいきましょう」
入ってみると、御堂の内部は外から想像したほど傷んではいなかった。
飛来骨を床へ下ろす珊瑚を振り返り、弥勒は彼女に声をかけた。
「珊瑚、少し仮眠するといい。この辺りに妖怪の気配はないし、私が見張っていますから」
弥勒を休ませたかった珊瑚は、困ったように彼を見つめる。
それを悟って弥勒はちょっと微笑んだ。
「あとで交代しましょう。私も少し仮眠を取ります」
「じゃあ、少しだけ休ませてもらうね」
法師が折れたので、少しほっとしたような表情を見せて、珊瑚はその場に無造作に身を横たえた。
やはり、相当疲れていたのだろう。
すぐに小さな寝息が聞こえた。
退治屋装束をまとったしなやかな肢体がすぐそばに投げ出され、弥勒は思いがけず胸がざわめき出すのを覚えた。
手枕をして眼を閉じている彼女の傍らに膝をつき、そちらをそっと覗き込む。
横たわる娘の瑞々しい身体の線が浮き彫りになって、そういうものだと普段は気にも留めていなかった退治屋の装束が、ひどく艶めかしいものに感じられた。
(何を考えているんだ、おれは)
目を逸らしても残像が残り、眠る珊瑚に、弥勒は心の中で文句を並べる。
(だいたい、なんでこんなに無防備なんだ。男がすぐそばにいるっていうのに、そんな恰好で簡単に身を横たえて。座ったままでだって眠れるだろう)
気を許されているのだと思う。
だが、男として、全く危機感を持たれていないというのは複雑な気分だった。
小さくため息をつき、弥勒は御堂の周囲を見廻ろうと外に出た。
冷たい風が吹く中、未だ痛む右の掌に視線を落とす。
この呪いで生命を落としたとしても、それは天命だと、ずっと自分に言い聞かせてきた。
でも、珊瑚と出逢い、彼女を愛した。
今は死というものが恐ろしい。
珊瑚を守って死ねるなら本望だが、それは、もう珊瑚に逢えなくなるということだ。
けだるげに歩を進めていた弥勒は、寒空の下に、そこだけ色鮮やかに、一輪の深紅の椿が咲いているのを目に留めた。
(珊瑚──)
枯れた世界に浮かび上がる、愛しい娘の面影。
己が死したら、彼女は誰のものになるのだろう。
女が一人で生きていける世の中ではないから、美しい彼女には、誰かが手を差し伸べるだろう。
彼にとってさらに残酷なのは、その人物に彼女も愛情を感じるかもしれないということだ。
(そんなのは嫌だ)
反射的に椿の木に近寄って手を伸ばし、紅い花を手折った弥勒は、その花をそっと抱きしめるように胸に当てた。
御堂の中に戻った弥勒は、眠る珊瑚の傍らに膝をつき、床の上に流水のように流れている美しい黒髪の上に椿の花を置いた。
紅い彩りを髪に添えた珊瑚は哀しいほどに美しく、息がつまり、泣きたくなる。
たまらなくなって、弥勒は珊瑚の華奢な身体にすがりついた。
横向けに身を横たえていた彼女を仰向けにさせ、退治屋装束の衿を緩め、白い喉を露出させる。
「ん……」
珊瑚の唇から悩ましげな吐息がこぼれ、弥勒はその首筋にじかに唇を押しつけた。
「ほ、法師、さま……?」
驚いた珊瑚が眼を覚まし、赫くなって、目の前の弥勒を見つめた。
「男と二人きりでいて、何も感じないんですか」
弥勒は唐突に、責めるような口調で言った。
「な、なに?」
「少しは警戒しなさい。どうしてそんなに無防備に眠れるんだ」
「法師さまが眠っていいって言ったんだろ? どうしたの? なんか変だよ」
法師に伸し掛かられて、珊瑚の心臓は早鐘を打つ。
だが、冷静になろうと小さく息を吸って、彼女は弥勒の背に両手を廻した。その刹那、首筋を強く吸われ、珊瑚は甘い戦慄に身を強張らせて、彼を抱く腕に力を込めた。
「本当にどうしたの? 法師さまは信頼できる仲間で、あたしの一番大切な人だから、警戒なんてするわけないよ」
「おまえは危険の意味が解っていないようだな」
娘の喉元から顔を上げた弥勒が、彼女に覆いかぶさったまま、その瞳を覗き込む。
彼の瞳は途方もない艶を含んでいて、珊瑚は眩暈がしそうだった。
「今ここで、もし、私がおまえを欲しいと言ったら?」
珊瑚は大きく眼を見張って、弥勒の瞳を見つめ返した。けれど、
「法師さまが望むなら、あたしは構わないよ」
躊躇うことなく答える珊瑚に、逆に弥勒のほうが屹となった。
「そんな簡単に言うことじゃないだろう」
「今さら何言ってるのさ。あたしは、いつか法師さまの子を産むんだから。そう約束しただろう?」
「それとこれとは……」
くす、と小さく笑って、珊瑚はそっと弥勒の身体を抱き寄せた。
「法師さまこそ、信頼の意味を解ってない。男として意識していないんじゃなくて、相手が法師さまだからこそ、気を許せるんだよ」
諭すようにささやく珊瑚の頬は恥ずかしそうに紅潮し、少しだけ睫毛が震えている。
純情可憐なその様に愛しさが込み上げた。
彼女の想いに応えるために、弥勒はゆっくり彼女の唇に唇を合わせた。
「……では、こういうこともしていいんですか?」
「えっ?」
太腿に指を這わせられ、珊瑚の身体が一瞬跳ねた。
「どこ触ってんの、スケベ!」
間髪いれず、彼の手をつねり上げたが、さっき言ったことと矛盾することに気がついて、珊瑚は慌てて訂正した。
「ご、ごめん。法師さまの好きにしていいよ」
精一杯背伸びをしようとする珊瑚に弥勒は微笑し、安堵する。
彼は彼女の身体を抱えて、体勢を反転させた。
床に寝転ぶ弥勒に珊瑚が覆いかぶさる形になる。
「安心しなさい。これ以上のことはしませんから」
「……本当?」
普段の彼女なら恥ずかしがる体勢だったが、今はじっと弥勒に寄り添っている。
速すぎる珊瑚の鼓動が伝わってきそうだ。
弥勒は両腕で彼女の身体を抱きしめ、片手で細い背中から腰までを撫でた。そしてささやく。
「だってこれ、脱がせ方が解りません」
「馬鹿ーっ!」
珊瑚は真っ赤になって、彼にしがみつき、彼の首筋に顔を埋めてしまった。
ふっと弥勒の口許に笑みが揺蕩う。
おもむろに顔の上に右手をかざし、彼はじっと掌を見つめた。
そして、その手を握りしめると、横に落ちていた椿の花を取り上げ、まだ彼に抱きついている珊瑚の、結い上げられた髪に挿した。
殺伐とした日常に咲く珊瑚という名の紅い花。
やはり、今のままでいい。
ともに闘い、時が来たとき、そのとき初めて、珊瑚に触れよう。
〔了〕
2012.1.19.
(物部広足)