壺菫の章

 そろそろ夕風が吹き始める頃。

 旅のさなか、広い野原で足を休めた犬夜叉たちの一行は、思い思いに休息の時間を過ごしていた。
 涼やかな風の中を、珊瑚は弥勒とともになんとなく野を散策する。
 ほっとできる二人だけの束の間の刻。
 交わす言葉は少なかったが、そばにいるだけでほんのりと色めくような気分に包まれた。
 幸せって、法師さまがくれるこんな心地をいうのかな、と思うでもなく珊瑚は思う。
 彼の顔をちらと見遣ると、何も言わずに微笑み返してくれた。
 野原には白い茅花と競い合うように淡い紫色の壺菫が咲いていた。
 その紫がどんどん領域を増し、白茅を覆いつくすほどになってくると、珊瑚の足がとまった。
「菫……」
 ぽつりとつぶやく。
「菫色。ずっと先まで」
「ちょうど、今が盛りですな」
 珊瑚に合わせて足をとめた弥勒が言った。
「菫を見ると、思い出しますか?」
 ふと彼女を顧みた弥勒の言葉が胸をついたが、その思い出は、ただ苦しいだけのものではない。
「うん。思い出す」
「忘れられんか?」
 念を押されるまでもない。
 薄紫の花が目に入っただけで、頬が火照ってくるのを自覚したのだから。
「うん。だって──
「私がおまえのそばにいても?」
 珊瑚にしか解らないくらい微妙に彼の声音が変わったので、不審に思って顔を上げると、法師の顔から笑みが消えていた。
「法師さま?」
 不安げな珊瑚の様子に気づき、ふと霞むように微笑んだ弥勒は、腰をかがめて菫の花を手折った。
「珊瑚。嫉妬するのはおなごだけではないと知っていたか?」
「知ってるよ。犬夜叉を見てたら嫌でも解る」
 そのままその場にしゃがみ、弥勒は可憐な花を見つめて苦い微笑をくゆらせた。
「私には嫉妬など無縁だと思っているか?」
 珊瑚は大きく眼を見開いた。
「法師さまは……だって、想像できないよ」
「いま、嫉妬してるのに?」
 自分を見上げた黒い瞳があまりにも静かなので、珊瑚は驚いて彼のそばにしゃがみ込み、彼の顔を覗き込んだ。
「嘘。って誰に?」
「おまえの思い出に」
 弥勒は手にした菫の花に流れるように口づけた。
「……忘れられんのだろう?」
 珊瑚ははっとした。
 故意に表情を作らない彼の表情ほど雄弁なものはなかった。
「法師さま。あたしが言った思い出って、あの……扶桑を死なせてしまったことだと思ってる?」
「菫はおまえの初恋の思い出だろう?」
 弥勒は珊瑚に壺菫の花を差し出しながら言った。
「確かに、男の人に対して特別な気持ちを持ったのは扶桑が最初だったけど」
 差し出された花を受け取り、珊瑚はその淡い紫の花弁を見つめ、法師を見つめた。
 紫の袈裟の色は野を埋めつくす菫と同化してしまいそうだ。
 思い出したのは別のこと。
 そうしたら、頬が熱くなり、心音が高く、速くなった。
「あれは恋じゃないかもしれないって、気づいたの。だって、法師さまへの気持ちとは少し違うから」
 努力して手にした花をじっと見つめたが、弥勒がこちらを見ているのが全身で感じられた。
 鼓動が速い。
 身体が熱い。
 こんなに近くに彼を感じる。
「扶桑のことを法師さまに話したあの日の夜、その……初めて、法師さまがしてくれた……」
 頬を紅に染め、受け取った菫にじっと見入りながら、消え入りそうな声で珊瑚は続けた。
「あの、だから……思い出したっていうのはつまり……」
 法師さまが初めて口づけをくれた。
 あの夜のこと。
「やだっ! こんなこと言わせないでよ」
 自分を凝視する弥勒の視線に耐えきれず、立ち上がろうとした珊瑚の腕を素早く法師が押さえた。
「で?」
「……え?」
 恥ずかしさにいたたまれなくなった珊瑚をからかうでもなく、煽るでもなく、弥勒は真摯な瞳で彼女を見つめている。
「扶桑のことは?」
「好きだったよ。とても大切な人の一人。でも、うまく言えないけど、好きなんだけど、法師さまを好きなのとも、かごめちゃんたちを好きなのとも、なんか違う感じの“好き”なんだ」
「私のことは?」
 ぴくりと肩が震えた。
 腕に触れている彼の指にも微かな震えが伝わっているのではないか。
 ひと思いに走って逃げてしまいたかったが、このような様子の彼から逃げられるとは思えない。
 絡みつく法師の視線からなんとか視線をそらすと、想いを誓う儀式のように、珊瑚は手にした菫にそっと唇を当てた。
 彼の唇が触れた花弁に口づけた。

 これが答えだよ、法師さま──

 恥ずかしすぎて、もう弥勒の顔を見ることはできなかったけれど。
 予想だにしていなかった珊瑚の振る舞いに、一瞬、驚いた色を浮かべた弥勒だったが、すぐに自然な動作で菫の花を持つ彼女の指に己の指を添えた。
「では、二度目を」
「え?」
 まだ微かに震えを帯びる珊瑚の動揺を鎮めるように、彼の指が彼女の手を強く握り、もう片方の手が彼女の肩を抱き寄せた。
 珊瑚はそのまま弥勒にもたれかかり、ぺたんと地面に腰を下ろす体勢になる。
 いつしか錫杖は草の上に捨て置かれていた。
 秀麗な彼の顔にやや人の悪い微笑が揺れている。
「二度目?」
 満足げなその微笑はもういつもの彼の表情だった。
「そう、二度目。一度目の唇の感触を思い出していたんでしょう? すぐに味わわせてあげますから、ほら、眼を閉じて」
「そんな露骨に言わなくたって……!」
 珊瑚は泣きそうに表情をゆがめたが、己の身体はすでに弥勒の腕の中にあった。
「珊瑚。眼を閉じるだけでいい」
 甘くささやかれると、まるで催眠術をかけられたように従ってしまうのは何故だろう。
 潤んだ瞳を隠すようにゆっくり瞼を閉じると、近づいてくる彼の息吹がひどく鮮明に意識に刻まれた。

 ねえ、法師さま。
 あたし、思うの。
 きっと何人もの女の人と恋をしてきただろう法師さまが、初恋はあたしだと言ってくれた。
 でも、あたしは法師さまへのこの気持ちしか知らないから。
 たぶん、この気持ちが恋なんだと思う。
 扶桑に抱いた気持ちよりもっとずっと大きくて、強くて、あたしをまるごと支配してしまうこの気持ち。
 心の中が法師さまで埋めつくされてしまう、これが恋なんだよね?
 だったら、あたしも、法師さまが初恋。

 たぶん。──ううん。きっと、そう。

〔了〕

2008.6.12.

茅花抜く 浅茅が原のつぼすみれ いま盛りなりわが恋ふらくは
(大伴田村大嬢)