黄楊の章

 眼を開けても、頭の芯がぼうっとしている。
 宿を借りた民家の一室で眼を覚ました珊瑚は、明け方近くまで眠れなかったことを思い出した。
「おはよう、珊瑚ちゃん」
「……おはよう、かごめちゃん」
 珊瑚が使っている以外の夜具はすでにたたまれ、衝立の向こうに男性陣の姿はない。珍しく寝過ごしてしまったようだ。
 珊瑚は慌てて身を起こした。
「大丈夫よ。もうすぐ朝ご飯だけど、少しくらい遅れたって、誰も何とも思わないわ」
 身の回りのものをリュックに詰めていたかごめが手をとめて言った。
「それより、目が赤いわよ? あんまり寝てないんでしょう」
「やだ、本当?」
 みんなに心配をかけたくない。
 そんな心情が、表情に出てしまったようだ。
 珊瑚を安心させるように笑顔を作って、かごめは立ち上がった。
「待ってて、ハンカチ濡らしてくる。冷やせば少しは目立たなくなるかもしれないわ」
「……ごめんね」
「何言ってるの。仲間じゃない」
 部屋を出ていくかごめを見送って、珊瑚は独り、吐息を洩らした。
(琥珀)
 数日前に琥珀に会った。そのことを引きずって、ここ数日、ちゃんと寝ていない。
 立ち上がった珊瑚はけだるげに夜具をたたみ、まとっている衣の乱れを直す。
 そして、荷の中から櫛を取り出した。
 珊瑚は特に身支度に時間をかけるほうではないが、何故か、ここのところ、身だしなみが気になって、以前より念入りに髪を梳くようになった。
 元結いを解き、部屋の隅に座って、丁寧に髪に櫛を通す。
 少しでも綺麗に見えますように。
 ──誰に対して?
 自分でもよく解らない感情に後押しされて、珊瑚は、少しでも女らしくありたいと気を配った。
 女らしさとは無縁の生業でやっていこうと決めたのは自分自身だし、そもそも、里にいた頃はこんなふうに考えたこともなかったのに。
 そのとき、部屋の板戸が不意に開かれた。
「珊瑚、いますか? これを渡してくれとかごめさまが」
「……!」
 突然、室内に入ってきた法師を見て、珊瑚は櫛を持ったまま固まってしまった。
 こんなところを、よりにもよって彼に見られてしまうなんて──
 硬直している珊瑚を見て、一瞬、弥勒は怪訝な顔をしたが、すぐに察したようで、いつもの穏やかな表情に戻って珊瑚に詫びた。
「すみません。うら若きおなごの身支度を覗いたりして」
「すっ、すぐすむから!」
 珊瑚はあたふたと櫛を動かす。
 だが、弥勒のほうは部屋を去るどころか珊瑚の傍らに腰を下ろしてしまった。
「これだけ見事な髪の手入れは大変でしょうな」
 何気なく言ったのであろう法師の言葉に、珊瑚の胸は早鐘を打ち、頬が熱くなった。
「もう終わる。……あれ? 元結い……」
「ここですよ」
 いつの間にか珊瑚の元結いを手にしていた弥勒が、彼女の背後に移動して、楽しそうに言った。
「結んであげましょう。はい、これ、かごめさまから」
「えっ……あの」
 いいとも嫌とも言えず、珊瑚は濡らしたかごめのハンカチを受け取って、身を固くする。髪に触れる彼の手を感じた。
「美しい髪ですな。癖がなくて、艶があって、手触りもよくて」
 刹那、珊瑚は小さく息を呑んだ。
 ──美しいと言ってくれた。
 ──法師さまが。
 誰にでも言っているのかもしれないが、女として法師の目に適ったような気がして、珊瑚は胸がときめくのを覚えた。
 さら、と一度手の中で珊瑚の髪を遊ばせてから、弥勒はそれを束ね、形よく結ぶ。
「こんなものかな」
「ありがとう……」
 鼓動を抑え、何気ないふうに目許を濡れたハンカチで押さえてから、珊瑚は法師を振り返った。
「かごめちゃんは?」
「犬夜叉と七宝が何やら揉めていて、その仲裁に。で、私がおしぼりを渡すよう頼まれまして」
 ハンカチで目許を隠すようにしている珊瑚を見て、弥勒はふと表情を改めた。
「寝不足だと聞きましたが……珊瑚、もしかして、夜中に泣いていたんですか?」
 珊瑚ははっとなった。
 顔を上げて弥勒を見遣る。
「すみません。気を悪くさせるつもりではないのですが」
「……どうして、法師さま」
 ──かごめちゃんにも気づかれなかったのに。
「判りますよ、それくらい」
 珊瑚を気遣うように、弥勒はなだめるような微笑を浮かべた。
「みなに心配をかけたくないのなら黙っています。だが、珊瑚。あまり自分を追いつめないようにしてください」
「……」
 じわりと涙腺が緩みそうな気がして、こらえるように、珊瑚は冷たいハンカチで両目を押さえた。
「泣けるのはいいことです。私たちと行動をともにするようになった最初の頃は、おまえは泣くことすら、できなかったでしょう?」
 その通りだと気づいて、珊瑚は小さくうなずいた。
「ただ、一人で泣かせるわけにはいきませんので、そういうときは、私に声をかけてください」
「法師さまに?」
「いくらでも胸を貸しますよ」
 そう言って弥勒は娘ににっこりと微笑みかけたが、うんともすんとも返さずに彼を凝視する珊瑚の様子に訝しげに眉をひそめた。
「何ですか?」
「……なんかスケベなことされそう」
 ふっと弥勒はため息をつく。
「いくら私でも弱ったおなごにそんなことはしません」
 そこにひょいとかごめが顔を出した。
「珊瑚ちゃん、……あ、弥勒さまも。朝ご飯だって。行きましょ」
「かごめー!」
「はーい、七宝ちゃん、いま行く!」
 かごめを呼ぶ仔狐の声に答え、少女は再び駆けていった。
「珊瑚。私たちも行きましょう」
 弥勒に促され、珊瑚も立ち上がる。
 部屋を出ようとすると、後ろに続く法師がぽつりと言った。
「……本当に美しいな」
 背後から聞こえてきたつぶやきに珊瑚が驚いて振り向くと、眼が合った弥勒は照れくさそうな顔をした。
「あ、いえ、珊瑚の髪が。そのままの意味で、別に他意はありませんよ」
 それでも彼女が足をとめたままじっと法師を見つめていると、
「下心もないです」
 と苦笑した。
「ただ、頼ってほしいんです。私を」
「えっ?」
 驚いて眼を見張る娘に、弥勒は包み込むような魅惑的な笑みを向けた。
「簡単でしょう?」
「……ありがと」
「どういたしまして」
 高揚する気持ちを持て余し、珊瑚はうつむき加減に歩を進めた。
 男勝りな自分でも、せめて髪くらいは美しいと思われたい。──そんな想いを拾ってくれた弥勒は、だが、そんなことよりもっと大切な何かを見てくれているような気がした。
 彼女は背後の弥勒をちらと窺う。
 つらく苦しいことだらけの日々も、何か小さな光を与えてくれる人だと、そう感じた。

〔了〕

2011.8.12.

君なくは なぞ身装はむ 櫛笥【くしげ】なる 黄楊の小櫛も取らむとも思はず
(播磨娘子)