忘れ草の章

 少女が一人、歩いている。
 橙色の、百合に似た花を両手に束と抱えながら。
 ともすれば、花束が歩いてくるようだ。
「おっと」
 大きな花束で前がちゃんと見えていなかった少女は、その声に、はじめて前方に人が歩いていたことに気がついた。
「落ちましたよ? そんなに大きな花束を作って、どうするのですか?」
 耳に心地好い、穏やかな若い男の声。
 少女──八重は、ひょい、と橙色の花束の陰から顔を覗かせた。
 そこに立っていたのは、錫杖を手にした法衣姿の青年だった。
 端整な顔ににこやかな笑みを浮かべ、地に落ちたものを拾ってくれたのだろう、花を一本、こちらに差し出している。
「ありがとう」
 礼を言って、八重は花を受け取った。
「いえいえ。それは忘れ草ですね。そんなに摘んでも、どうせすぐに萎れてしまうでしょう? 何か忘れてしまいたいことでもあるのですか?」
 躍るような黒い瞳に見つめられ、少女は微かに頬を染めた。
「法師さま……は、旅の人?」
「はい。弥勒といいます。あなたは?」
「……八重」
 はにかむようにうつむいた八重は、上目遣いで法師を見遣る。
 ともに旅をする少女たちより、ほんの少し幼い印象を受ける。歳は十四くらいだろうか。
 弥勒と名乗った法師は、人懐っこい笑みを浮かべて手を伸ばし、少女がいささか持て余し気味だった花束を半分持ってやった。
「あなたのような可愛らしい娘さんにも、憂いがあるのですか?」
 忘れ草は忘憂草とも書く。
 憂いを拭い去りたいとき、人はこの花に願を掛ける。
 幽艶な若い法師に見惚れていた八重は、はっと我に返ると、悔しげに腕に残った忘れ草の束をぎゅっと抱きしめた。
「あんな奴のことなんて、もう、きれいさっぱり忘れてやるんだ」
「おやおや」
 村へ帰るのだから、彼も同じ方向へ行くのだろう。
 弥勒と八重は、忘れ草の花束を抱え、肩を並べてゆっくりと歩を進めた。
「ねえ、法師さま。男の人って、やっぱりみんな、あたしみたいな土臭い小娘より、たおやかな美人のほうがいいんだね。どこの誰だか判らなくても、そっちへ引き寄せられていっちゃうんだから」
「それは八重どののいい人のことですか?」
 何やらいつも誰かに言われているようなことを初対面の少女に指摘され、弥勒は苦笑まじりに問いかけてみる。
「いい人なんかじゃないよ!」
 八重は屹と法師を睨み、むきになって反論した。
「ただの……幼なじみ」
「それだけですか?」
──庄太郎は……子供の頃、あたしを嫁にもらうって言ったけど……」
 刹那、寂しげな瞳を見せた八重は、だが、すぐに口を尖らせた。
「でも、そんなことてんで忘れちゃってるんだよ? 悔しくてさ、あたしもあんな奴のことなんか忘れてやろうって、毎年、この時季には忘れ草を摘んで帯につけたりしてるけど、なんでだろう、どうしても忘れられない」
「忘れようと思えば思うほど、気になって仕方がないというわけですな」
 どうして判るの? というように、八重は大きな眼を見張って法師を見た。
「だからあたし、いつかいい女になって見返してやるつもりだったんだけど、でも、あいつってば、さっき、知らない女に色目使ってたんだ」
「はあ、それで……」
 持てるだけ摘んだ、両手いっぱいの忘れ草。
「女のあたしの目から見ても、とても綺麗な人だった。……だから、もうあんな奴のことなんて、忘れてやるの」
 花がしぼむように小さくなる語尾とともに、八重の足は止まってしまった。
「八重どの」
 少女に合わせて足を止めた弥勒は、身体ごと少女に向き直り、穏やかにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それは、八重どのの幼なじみに見る目がないだけの話ですよ」
「え……?」
 驚いて、八重は顔を上げて法師を見た。
「私だったら、こんな可愛い幼なじみを放っておきません。八重どのに必要なのは、もっと自分に自信を持つことです」
「法師さま──
「私が八重どのの幼なじみならよかった。そしたら、八重どのを悲しませることもなかったでしょうに」
 思いもかけないことをやさしく言われ、胸が高鳴るのが解る。
 再びゆったりと歩き出した弥勒を追いかけ、頬を紅潮させて、八重は紫の袈裟をまとった後ろ姿を憧れるように見つめた。
 あたしもそう思うよ、法師さま。法師さまがあたしの幼なじみだったらよかったのに──
「おなごの魅力は比べられるものじゃありませんよ。八重どのには八重どのにしかない魅力がある。そんなことも解らない男などこっちから願い下げてやりなさい」
 振り返り、やわらかく微笑む法師の言葉に心が羽のように舞い上がるのを覚え、八重は元気よく笑顔を返した。
「うん!」
「そう、その笑顔です」
 うなずき、八重に向かって笑んだとき、
「弥勒ー!」
 名を呼ばれ、弥勒は声のしたほうを振り向いた。
 仔狐妖怪の七宝が、雲母を伴ってこちらへ向かって駆けてくる。
「おや、七宝」
 弥勒のもとまで走ってきた七宝は、軽く息を弾ませながら、肩を大きく上下させた。
「今日は珊瑚と一緒だったんじゃなかったんですか?」
「そのことなんじゃが」
 呼吸を整えた七宝は、弥勒の隣に立つまだあどけなさを残す少女の姿を認め、胡乱な視線を法師に向けた。
「なんじゃ、弥勒。また“なんぱ”をしておったのか?」
「いーえ。恋の相談に乗ってさしあげていたんですよ」
 弥勒は八重のほうを向き、にっこりと笑顔を見せた。
「まあよい。それより、あっちで珊瑚がなんぱされとるぞ」
「ええ?」
「それが、相当しつこい男でのう。珊瑚が困っておるのでおらが割って入ったんじゃが、子供じゃ相手にしてくれん」
「で、珊瑚はどこに?」
「あそこじゃ」
 七宝が指差す先は三叉路になっている。
 そこを右へ曲がれば八重の住む村。
 やや左側へそれたほうの道に眼をやると、十間ほど先に、こちらへ向かって歩いてくる一組の男女の姿があった。女のほうは大きな武器を背に負っている。
「庄太郎!」
 思わず男の名を叫ぶ八重に、七宝が少女を振り仰いだ。
「知り合いか?」
「……」
 知ってるも何も、今の今まで話題にしていた人物──幼い頃、八重を嫁にもらうと約束した幼なじみだ。
 先刻、庄太郎があの娘と話をしているのを見かけた。
 あてつけがましくすぐそばを通ってみたが、庄太郎は八重の存在に気づきもしなかった。
 娘は旅の途中らしく、道を尋ねていただけのようだったが、娘の美しさに惚けたようになった庄太郎は熱心に娘を口説こうとしていた。
 そんな幼なじみの様子が思い出された。
 ──あいつ、まだあの人と一緒にいたんだ……!
 娘のほうは付きまとわれてうんざりしている様子がありありと見える。
 八重は、ああ情けない、と思うと同時に怒りがふつふつと湧いてきた。
 そのときである。
「あんの野郎、人の女に手ぇ出しやがって……!」
 耳に飛び込んできた声に驚いた。
 それまでの物柔らかな態度はどこへやら、一瞬、空耳かと疑うような法師の科白に、八重は呆気にとられて眼をぱちくりさせた。
 弥勒は腕に抱えていた忘れ草の花束を七宝に渡すと、そのまま振り向きもせず、珊瑚と彼女にまとわりついている男に向かって早足に歩いていく。
「……なんなの、いったい──?」
 呆然と見守っていると、二人の位置までたどり着いた法師が、いきなり娘の身体を引き寄せ、己の背後に押しやると、男の胸倉を掴むのが見えた。
「あーあ、始まってしもうた」
 呆れたような仔狐の独り言に、同意を示すように、み、と猫又が小さく鳴く。
 さらに男に対して手をあげようとする法師を、驚いた様子の娘が慌てて制止する様が見て取れた。
 それでも法師の怒りは治まらないらしく、男の胸倉を掴んだまま、何やら言い立てている。
 法師が何と言ったのかは知らないが、突然、娘は踵を返すと、法師も男もその場に置き去りにし、すたすたと歩き始めた。……その歩き方からして、どうやら娘を怒らせてしまったらしい。
 娘は三叉路まで来ると、七宝や八重たちがいるほうへは足を向けず、村へ続く道を曲がった。
「珊瑚ー! 待ってくださいよー!」
 一方の法師はと見れば、庄太郎を一発殴って鬱憤を晴らし、自分からどんどん離れていく娘のあとを追いかけていた。
 三叉路まで来ると、やはり七宝も八重も眼中にないらしく、道を曲がって娘に駆け寄り、身振り手振りを交えて必死にご機嫌取りをしているようだ。
 八重はむかっ腹が立つままに吐き捨てた。
「なにさっ!」
 やっぱり、やっぱり、法師さまだって、あのひとがいいんじゃないの。
 あんなに調子のいい嬉しがらせを散々あたしに言っておいて!
「もう、男の言うことなんか、絶対に信用しない!」
 八重は傍らにちょこんと立っている七宝と目が合うと、自分が手にしていた忘れ草の花束をぐいと押し付けた。
「タヌキさん、これあげる!」
「狐じゃ!」
 弥勒から押し付けられた分と合わせて、橙色の花束に押しつぶされそうになりながら、七宝の抗議の声が上がる。
 しかし、八重はそれに答えることなく、ぷいっと顔を持ち上げ、肩をそびやかすと、ずんずんと大股に村とは反対の方向へ歩き出した。
 男のほうを見遣れば、法師に殴られた際に脳震盪でも起こしたものか、道の真ん中で目を回して倒れている。
 幼い妖狐はため息をついた。
「ああいう見苦しい大人にはなりたくないもんじゃ」
 取り残された七宝は、呆れた様子で八重を見送ったが、ふと、押し付けられた花束がまだ充分に瑞々しく美しいことに気づくと、その場で均等に分け、二つの花束を作った。
「ちょうどよい。かごめと珊瑚への土産ができた」
 得意げににっこり笑うと、一人で運ぶのは無理なので、小さな猫又に声をかける。
「雲母、頼む」
 変化した雲母の背に乗った七宝は、自分の頭より大きな花束を二つ抱え、かごめとの待ち合わせ場所へ向かう妖猫から振り落とされないよう、しっかりとその背にしがみついた。
 すぐに法師と珊瑚に追いつくだろう。
 目の前でこの花束を珊瑚に渡してやれば、弥勒はどんな顔をするだろう。
 想像すると楽しくなり、仔狐は思いきり破顔すると、胸いっぱいに忘れ草の香りを吸い込んだ。

〔了〕

2007.8.15.

忘れ草 我が紐に付く時となく 思ひわたれば生けりともなし
(作者未詳)