山吹の章
けだるさの中で、ふと、眼が覚めた。
見知らぬ天井。
ここは──どこかの小屋か?
全身に重しをつけられたようにだるい。
力の入らぬ腕で何とか身体を支え、上体を起こしてみる。
窓の外から射し込む月明かりだけが頼りの薄暗い小屋の中、周囲に眠る仲間たちを見廻すと、一人、足りない。
(珊瑚──)
どこへ、行った?
ふらつく頭を押さえ、重い身体を引きずりながら、弥勒はふらりと小屋を出た。
小屋は山中にあるらしかった。
(こんな夜中に、一人で……)
鬱蒼とした木立が、夜の闇をさらに深くしている。
いくら彼女が身を守る術を心得ているとはいえ、うら若い娘が独りで出歩いていい時間帯や場所柄ではない。
どんな妖怪に遭遇するやもしれぬではないか。
だるさが消えない身体を錫杖で支えながら、何気なく額に手をやると、ひどく熱かった。
(おれは……熱があるのか)
何も覚えていない。
思い出そうとするのもわずらわしく、ただ珊瑚の姿だけを求め、弥勒は山中の木々の間を闇雲に歩き続けた。
気づけば、そこには満開の山吹が取り巻く泉があった。
(こんなところに……?)
珊瑚を夢中で捜すうち、知らず、分け入った森の中、法師は眼の前に現れた泉とその周囲に咲く山吹の花に首を傾げた。
その黄色い花を照らし出すように、そこだけに月光が降りそそいでいるようだ。
妖しい美しさを有する夢幻の光景に導かれるまま、弥勒は泉のふちに膝をつくと、その藍色の水面を覗き込んだ。
「……珊瑚!」
水面に映るは、探し求めていた娘の美しい面差し──
思わず泉に手を伸ばし、冷たい水に触れると、波紋が生じた。
珊瑚の姿は掻き消える。
不吉な胸騒ぎと焦燥を覚え、弥勒は幾度も泉の水に手を浸し、珊瑚の面影を掴もうとした。
ここは黄泉。
異様に咲き乱れる黄色い花は、面影草。
死したのは己か、それとも、かの娘なのか──
けだるさの中で、ふと、眼が覚めた。
見知らぬ天井。
ここは──どこかの小屋か?
全身に重しをつけられたようにだるい。
力の入らぬ腕で何とか身体を支え、上体を起こしてみる。
窓の外から射し込む残照が、狭い小屋の中を橙色に染め上げていた。
(そうだ、おれは瘴気に中てられて……)
珊瑚が付きっきりで看病をしていたはずだ。
しかし、かの娘の姿が、今はどこにも見えない。
どこへ、行った?
夢との符合に不安を覚え、重い身体を引きずりながら、弥勒はふらりと小屋を出た。
小屋はやはり山中にあるらしかった。
(こんな山の中を、一人で……)
鬱蒼とした木立が、落日の光を受けて、濃い影を落としている。
だるさが消えない身体を錫杖で支えながら、額に手をやると、やはりひどく熱かった。
(まだ熱は引いていないのか)
犬夜叉やかごめたちはどこへ行ったのか。
思い出そうとするのもわずらわしく、ただ珊瑚の姿だけを求め、弥勒は山中の木々の間を闇雲に歩き続けた。
気づけば、そこには満開の山吹が取り巻く泉があった。
(ここは確か夢で見た場所……)
珊瑚を夢中で捜すうち、知らず、分け入った森の中、法師は眼の前に現れた泉とその周囲に咲く山吹の花に呆然と眼を見張った。
その黄色い花を照らし出すように、そこだけを残照が際立てているようだ。
妖しい美しさを有する夢幻の光景に誘われて、弥勒は泉のふちに膝をつくと、その茜色の水面を覗き込んだ。
「珊瑚……」
これも夢なのか。
水面に、探し求めていた美しい娘の面差しが映った。
それとも現実か──?
引き寄せられるように泉に手を伸ばし、はっとして、その手を止める。
手を伸ばしたところで、水面に映るかの娘の姿をこの手に掴むことなどできはしないのだ。
不吉な胸騒ぎと焦燥を覚え、弥勒は泉の水に映し出された珊瑚の面影を食い入るように凝視する。
ここは黄泉?
異様に咲き乱れる黄色い花は、面影草?
「法師さま?」
不意に、求めていた声で呼びかけられ、弥勒ははっと身を固くした。
泉を見遣ると、そこに心配そうな珊瑚の顔が映っている。
「珊……瑚……」
「駄目じゃないか、こんなところまで出歩いちゃ。まだ熱あるんだろう?」
確かに珊瑚だ。
彼女は、いま、己の背後にいる。
「どうしてここに……?」
押し殺したような声で低くつぶやく弥勒に、珊瑚は困ったようにため息をついた。
「それはこっちが言いたいよ。ちょっと熱さましの薬草を探してただけ。ほら、早く小屋へ戻ろう? 法師さまは、まだ横になっていなきゃ」
「触れても……いいか?」
声が震えてはいないだろうか。
珊瑚に背を向けたまま、水面に映る彼女を瞳に映して彼は問う。
「どうしたの、法師さま? いつもはいきなり触ってくるくせに」
怪訝そうな珊瑚の声。
誘われるように水面に手を伸ばしかけた弥勒は、その手を止め、そっと背後を振り向いた。
確かにそこにたたずむ珊瑚の姿を確認して、ようやく安堵の吐息を洩らす。
そして、錫杖の支えを借り、だるさの残る身体を無理に立ち上がらせると、彼女の頬を、すい、と指先で撫でた。
「吉祥天女がおわしたのかと思いました」
「なに言ってんのさ」
困ったように、恥ずかしそうに、彼女が笑う。──幻じゃない。
「おまえが消えてしまったのかと思い……おまえを探していた」
珊瑚は心配げに眉をひそめる。
様子のおかしい弥勒に違和感を覚えたのか、頬に添えられた手に、そっと自分の指を重ねた。
「大丈夫? まだ起き上がっちゃ駄目だよ。随分つらそうだ」
「おまえに触れていれば……治る」
頬に触れていた弥勒の指が、その輪郭をなぞり、紅い唇に触れた。そのまま、やわらかな唇の感触を確かめるように、ゆっくりと指先をそこに彷徨わせている。
「ほ、法師さま……?」
熱を持った法師の瞳に妖しさが加わる。
手を放れた錫杖が地面に落ちた。
身を支える代わりのものとして珊瑚の肩を掴んだ弥勒は、そのまま彼女にもたれかかり、くずおれるようにして、華奢な肢体を地に押し倒した。
密やかに甘い香りがする。
これは山吹の香りか、それとも、珊瑚、おまえの──?
そして、法師は意識を失った。
息苦しさの中で、ふと、眼が覚めた。
「法師さま」
呼ばれて、ようやく、夢から醒めた。
汗びっしょりで褥に横たわる自分。そして、己を覗き込んでいる愛しい娘の顔。
「珊瑚……」
曖昧に名を呼ぶと、珊瑚は少しほっとしたような表情を見せた。
「うなされてたよ」
ずっと付き添ってくれていたのであろう娘は、不安げに小さく言った。ぱしゃんという音が聞こえ、彼女が手拭いを水に浸したのだと解った。
固く絞った手拭いで顔や首筋の汗を拭われる。
ひんやりとした感触が心地良い。
弥勒はぼんやりとそちらへと顔を向けた。
「……珊瑚……」
おまえはここにいる。
これは、夢か、現か──
「なに?」
「おまえに、触れたい……」
そろ、と彼女へ左手を差し出すと、わずかな戸惑いを見せつつも、差し出された手を珊瑚は素直に受け取った。
彼の不安な想いが伝わるのか、熱を帯びたその手を両手で包み込むようにして、やわらかく握り締めている。
夢に落ちるのが怖い。
だが、意識は次第に朦朧となりつつある。
確かなものは、呪いのないほうの手を包み込む、ひやりとしたやわらかな感触のみ。
その小さな手に己の指を絡め、未だ熱に浮かされる弥勒は、そっと眼を閉じた。
この身を蝕む瘴気より、
生命を削る恐怖より、
そこに、おまえがいないことが恐ろしかった──
そんな、夢を見た。
〔了〕
2007.6.25.
(高市皇子)
山吹の花の色=黄と、清水=泉が、「黄泉」を表す言葉となっています。
古代、山吹の咲く水辺では、亡き人の面影を見ることができると信じられていたのだとか。