姫百合の章
 ──どこ行ったんだろう?
       珊瑚は、姿の見えない法師を捜していた。
       この村に着いたのは昨日の夕方のこと。
       例によって法師の巧みな弁舌を以て名主の家に一晩の宿を頼み、快く了承してもらった一行は、夕餉を終え、それぞれがくつろいだ時間を過ごしていた。
       久しぶりに屋根の下の寝床で眠れるとあって、みなの表情もゆったりとしている。
       そんなときだった。
       障子の向こうから、遠慮がちに掛けられる声は、この家の主人のもの。
      「法師さま、もうお休みになられましたか……?」
      「いえ、起きておりますよ」
       弥勒はすっと立ち上がると、障子を開け、縁に出た。
      「お疲れのところ、大変恐縮ですが──」
       そのあとに続く言葉はぼそぼそと低く、室内にいた者たちには聞こえなかった。
       部屋に戻った法師によると、村に死人が出たのだが、最寄りの山寺の住職は老齢であり、おまけに腰を痛めているとのこと。山を降りるのは無理なので、代わりに弥勒に明日の葬儀を執り行ってはもらえまいか、というのだ。
      「そのようなわけなので、これからその家に行ってきます」
       法師の顔になって座を立つ弥勒を、一同は神妙な面持ちで見送った。
       珊瑚だけが、玄関口まで弥勒についていき、そこで彼を見送る。
      「大変だね、法師さま」
      「なに、これも法師の務めですから」
       疲れているはずであろうに、そのような素振りは露ほども見せない法師は、珊瑚を見て、微かに微笑んだ。
      「なに?」
      「いえ。まるで、新妻に送り出される夫のようだなあと……」
       二、三度まばたきをし、さあっと頬に朱を刷いた珊瑚が屹と法師を睨む。
      「不謹慎なこと言ってんじゃないよ。さっさと行く」
      「はい。あ、今夜は一度戻ると思いますが、明日は葬儀ですから、私は早くとも昼を過ぎなければ帰れないでしょう。犬夜叉にそう言っておいてください」
      「うん、解った」
       それが夕べのこと。
       この日は早朝から、村の者たちが寄り集まり、喪主となる人物を手伝って、葬儀の準備に取り掛かっていた。
       忙しそうな村人たちを見て、何か手伝えることはと申し出たかごめと珊瑚だったが、却って恐縮され、それではとかごめはその空いた時間を勉強に当てることにした。
       犬夜叉はかごめの姿が見える庭の樹の上に陣取って横になり、七宝も大人しくかごめの隣で絵を描いている。
       ふと思いついた珊瑚は、武具の手入れを終えると、かごめに「ちょっと行ってくる」と声をかけ、寺があると聞いた山へ、雲母に乗って向かってみた。
       老いた住職が腰を痛めて独りでいるなら、何かと不自由だろうと気になったのである。
       山の中腹にある寺に着いてみると、寺男が一人と、年のころ十二、三の見習いの小僧が二人いて、彼らが住職の世話や、寺のこまごまとした用事をこなしていると判った。
       珊瑚は村に死者が出たことを老僧に告げ、持参した腰痛に効く薬草を寺男に渡すと、床から起き上がれない住職の話相手を少ししてから、雲母に乗って山を降りた。
       もう、弥勒は帰っているだろうか。
      「ただいま」
       名主の家に戻り、借りている部屋を覗くと、そこには出発前と何ら変わらぬ光景があった。
      「お帰り、珊瑚ちゃん。ご苦労様。和尚さん、大丈夫だった?」
      「うん。一人じゃなかったし、薬草も渡してきた。それより……」
       そわそわと辺りを見廻す珊瑚を見て、かごめはにっこりと微笑んだ。
      「弥勒さまなら、とっくに葬儀を終えて帰ってきてるわよ」
      「え? でも──」
       その姿はどこにもない。
       問うようにかごめに視線を移すと、思わせぶりなかごめの笑みが深くなる。
      「珊瑚ちゃんを迎えに行ったんじゃない? 途中で会わなかった?」
      「えっ? だってあたしは雲母に乗ってたわけだし」
      「じゃあ、村の入り口辺りで珊瑚ちゃんを待ってるのかな」
      「弥勒のことだ。どうせ、村ん中で女の尻でも追っかけてんだろ」
       樹上から聞こえてきた声に珊瑚の眼がすうっと細くなるのを見て、かごめが慌てる。
      「犬夜叉! おすわ──」
      「いいよ、かごめちゃん。あたし、法師さま捜してくる」
       小さく吐息をこぼすと、珊瑚は戸惑った表情のかごめと引きつった表情の犬夜叉と強張った表情の七宝を残し、名主の家をあとにした。
       やれやれ、というように主人を見送った雲母がおっとりと縁に上り、丸くなって眼を閉じた。
       小さな村だった。
       もう、陽も傾いてだいぶ経つというのに、法師はどこへ行ったのだろう。
       隅から隅まで、村を歩いた。
       村に不幸があったばかりでもあるし、村娘を相手に戯れ事をしているとも思えない。
       あとは──
       村の外れまで来た珊瑚は、そこから山裾まで広がる広々とした野を眺めやる。
       向こうに見える山の中腹に、先刻、訪れた寺があるのだ。
       野には夏草が彼女の背丈ほども生い茂り、そろそろ夕刻になろうかという涼しげな風を受けて、ゆるやかに揺らいでいた。
       珊瑚ちゃんを迎えに行ったんじゃない?
      「まさか、ね」
       ふっと息をついて、珊瑚は踵を返そうとした。
       と、その視界の端に、夏草の濃い緑の隙間からちらりと垣間見えた紅い色に意識を引かれ、彼女の足がふと止まる。
       あの紅い色は何だろう──?
       丈高い夏草を掻き分けるようにして、ちらちらと眼に映るその色彩を目指して進むと、そこには鮮やかな姫百合が一塊になって群生していた。
       そして。
      「法師さま!?」
       ようやく、見つけた。
       探し人は、夏草の茂る野の中で、その背の高い草叢に囲われた姫百合の群生地で、紅い花に埋もれるようにして眠っていたのだ。
      「ん……珊、瑚……?」
       無防備この上ない法師を目の当たりにして、そのあまりにも意外な姿に珊瑚は唖然とする。
       眼を覚ました弥勒はそんな彼女を認めたようで、仰臥したまま、ふわりと微笑んだ。
      「ね……寝てたの?」
      「ああ」
      「ずっとここで?」
      「おまえを待っていた」
       そう言うと、弥勒は手近にあった百合の花を無造作に引き寄せ、その紅い花弁に唇を寄せる。
      「この姫百合が、珊瑚を思わせたので」
       紅い色彩に埋もれる濃い紫のコントラスト。
       仰臥のまま花に口づける法師の妖艶さに、珊瑚は、我知らず速くなっていく鼓動と、紅潮する頬の火照りをどうすることもできずにいた。
       妖しく胸がざわめく。気が遠くなるほどに。
       そんな珊瑚の艶めいた高揚を知ってか知らずか、弥勒はそのままの姿勢でのんびりとを空を仰ぐ。
      「ここで空を見上げていたら、雲母に乗ったおまえを見つけられると思ったんですよ」
       いつの間にか、眠っていたんですなあ。
      「ごめん、下、注意して見てなかったから……法師さまに気づかなかったみたい」
       強張った珊瑚の声を耳にし、ふと、弥勒は彼女へ視線を向けた。
      「ところで珊瑚、ずいぶん私を捜してくれたようだな」
       事実、その通りなのだが、珊瑚は熱を持つ頬を押さえ、あたふたと言いわけの言葉を探した。
      「ぐっ、偶然! だよ! 偶然この辺りを散歩してたら、法師さまの袈裟の色が見えたんだ」
       くす、と弥勒が笑みを洩らす。
       ──嘘ばっかり。
       たかが散歩で、こんな村から離れた草ばかりの野まで来るだろうか。
       夏の草は高く茂る。
       ただでさえ、それらの草に隠れるように咲いている姫百合を見つけることは困難なのだ。ましてや、その姫百合の群れにさらに埋もれて眠っていた自分を捜し出すのは容易ではなかったはず。
       愛しい娘の不器用な嘘に、弥勒の口許は自然と綻んだ。
       けだるげに、珊瑚に手を伸ばす。
      「起こしてください」
      「何言ってんの、甘えるんじゃ……」
       ない、と言おうとして、珊瑚はふと口をつぐんだ。
       その姿を捜し求めて、やっと見つけた。
       彼の手に触れ、そのぬくもりを感じたい。
       差し出された弥勒の手を取った珊瑚は、彼の身を起こすべく力を入れて引き上げようとしたが、その前に、逆に彼女のほうが強く手を引かれ、彼の上に倒れ込んでしまった。
      「ほっ、法師さま! ちょっ……何してんの!」
       真っ赤になって訴える珊瑚の言葉など軽く無視し、弥勒は落ちてきたその身体を抱きすくめた。
       珊瑚は慌てて身を起こそうとするが、仰向けに横たわったまま彼女を捕らえた弥勒には、その身を放す気などありはしない。
       珊瑚は必死にもがく。
       はたから見れば、まるで自分が弥勒を押し倒しているような格好ではないか。
       ますます焦った珊瑚はばたばたと手足を暴れさせるが、弥勒の腕の力はそれに比例して強まるばかり。
      「こら、珊瑚! 暴れるな」
      「やだっ、放せ!」
       羞恥のあまり、弥勒の束縛から逃れようと必死に身をよじる珊瑚を、弥勒のほうも力ずくで抱きしめ、押さえつける。これはもう、根比べのようなものだった。
       だが、二人の力の差は歴然としている。
       疲れたのか、観念したのか、ややあって珊瑚が少し力を抜いたとき、すかさず弥勒はその頭を抱え込むと、耳元に唇を寄せてささやいた。
      「……ようやく二人きりになれたんだ。少しでも長く、このままでいたい」
       珊瑚が身を強張らせるのが、衣を通して肌で感じられた。
      「おまえの香りは百合より甘い──」
       先ほど百合に口づけた弥勒の様子が思い出され、珊瑚の鼓動がさらに速まる。
       しかし、もう放してほしいとは思わなかった。
       弥勒もまた、自分と同じ気持ちだったと解ったのだから。
       捜して、探して、ようやく触れ合えた。
       抵抗がやんだ珊瑚に、満足げに吐息を洩らすと、弥勒はやわらかなその身体を抱きなおす。
       顔は見えないが、互いの鼓動が伝わってくる。
       眼を閉じた。
       満たされてゆく──
       いま、愛しい娘が確かに自分の腕の中にいることに。
       いま、愛しい人の腕の中に確かに自分がいることに。
       ── この想いの深さを、おまえはしらない
       ── この想いの強さを、あなたはしらない
〔了〕
2007.6.25.
(大伴坂上郎女)