暗号
今朝方、かごめは実家に戻った。
ほどなく、犬夜叉がそのあとを追った。
七宝は雲母と遊びに出ている。
珊瑚は楓を手伝って家事に忙しい。
「……」
独り、弥勒は床に寝転び、はーっと息をついた。
──暇だ。
暇なら珊瑚を手伝えばよいものを、初秋にしては珍しく涼やかさを感じさせるこの陽気に、のんびりとした贅沢な時間を満喫したかった。
珊瑚の手が空いたら、彼女を誘って散歩にでも行こう。
ふと、わきに目をやると、一冊の書物が落ちているのが見えた。
この時代のものではない。かごめが忘れていったものであろう。
手に取り、ぱらぱらと頁を繰ってみる。
徒然にはちょうどよいかもしれない。
弥勒はその本を手にしたまま、外へ出た。
見晴らしのよい高台までやってきた弥勒は、大きな樹の根元に座り込むと、小さな本を開いてみる。
かごめの書物には、見慣れぬ文字がびっしりと並んでいた。
(はて……?)
職業柄、漢文も梵語も堪能な弥勒ではあったが、このような文字は初めて見る。
(これを読むのか? かごめさまはすごいな)
それは英語の参考書であった。
日本語の解説文がはさまれているため、文字であることは解るのだが、初めて目にするアルファベットは、梵字より難解なものに思われた。
(……暗号みたいだな)
かごめと旅をともにするようになり、彼女の国の“異文化”に触れることにも慣れた。同じ言語を話すくせに、この世界とは微妙に異なる彼女の国の文字や書体を読むことも覚えた。
しかしこれは……
まるで古文書を解読するように、仮名と漢字が交ざった読める文字と、どう見ても記号を連ねたようにしか見えない読めない文字とを照らし合わせながら、弥勒はその言語としての法則を見いだそうと、熱心に参考書と格闘を始めた。
(これならば、忍びの使う暗号のほうがまだ解りやすいのではないか?)
いつの間にか没頭していたが、どうも、馴染めそうにない。
参考書を投げ出した弥勒が、ふと、視線を感じ、そちらへ眼をやれば、いつからそこにいたのか、少し離れた位置に立つ珊瑚と目が合った。
ちらちらと遠慮がちにこちらの様子を窺っている。
(おれとしたことが……いつからいた?)
にっこりと笑んで手招きすると、ばつが悪そうな表情をしたまま、そろそろと彼女が近づいてきた。
「何故、声をかけなかった?」
「……だって、法師さま、ずいぶん夢中になってたからさ」
少し拗ねたような珊瑚の口調に、自然と頬が緩む。
「それ、かごめちゃんのだろ? 面白いの?」
法師の傍らの草の上に置かれた書物を眼で示す。
「読んでみるか?」
珊瑚は苦笑した。
「あたしには読めないんじゃないかな」
法師さまが苦戦してたみたいだから。
そんな彼女に座すように合図すると、珊瑚は彼の隣に腰を下ろそうと身をかがめた。
その身をすかさず捉えると、弥勒は彼女が自分の両足の間に収まるように座らせ、背後から彼女を覆うように抱きすくめた。
あっという間の出来事に、珊瑚はきょとんと固まっている。
弥勒はといえば、それをいいことに、腕の中の珊瑚の額髪を唇で払い、ちゃっかりと頬をすりよせていた。
「な、何すんのさ、突然」
「今、こうしてほしいと思ったでしょう」
「んなっ──!」
村の娘たちと戯れていなかったことに安堵しつつ、それでも彼の興味を根こそぎ攫っていた小さな書物に嫉妬した。
たかが、本、一冊に。
──だって、気配に敏感な法師さまが、なかなかあたしに気づいてくれなかったから──
そんな胸中を見透かされたような気がして、珊瑚は弥勒の腕にからめとられたまま、頬を染め、うつむいた。
観念したのか、おとなしくなった彼女の様子に満足そうに吐息をつくと、抱きすくめた彼女の肩に顎を乗せ、弥勒は午後の陽射しを眺めやる。
──今日はこうして過ごしたかった。
暗号のような異国の文字は解らない。
でも、こうした珊瑚の些細な表情の変化は、たとえかごめさまでも気づかないだろう。
それは何よりも重要な、おれだけに解る暗号。
〔了〕
2007.5.10.