暗香

 ──昼間の場所で、待っていますから。

 皆で夕餉を食べたあと、武具の手入れを始めた珊瑚の耳に、そっとそれだけを告げ、法師は錫杖を手に仲間たちがくつろぐ小屋の外に出ていった。
 珊瑚の鼓動が跳ね、一気に落ち着かなくなる。
 ときめきを抑えながら、大急ぎで武具の手入れを済ませようと彼女の手に力が入る。
 季節は早春──
 穏やかな風にも花の香りが漂っていると感じるのは気のせいだろうか。

 静かな、明るい夜だった。
 約束しているわけではないが、想いを伝えあって、二人きりでいる時間が増えたような気がする。彼がそんな時間を作ってくれている気がする。
 今宵の宿である小屋を出た珊瑚は、影のように密やかに闇を縫い、愛しい人の姿を探した。
 星明かりに照らされた闇はひっそりとしている。
 しかし、昼間、二人で過ごした辺りを見廻すと、すぐに彼の姿は見つかった。
 大樹の根元に座って寄りかかり、そのままの姿勢で器用に眠っている。
 くすりと珊瑚は笑みを洩らした。
(疲れてるのかな)
 すぐに起こすのも悪い気がして、彼女はしばらく眠る法師の顔を見つめていた。
(大好き)
 ふと、そんな言葉を心の中でつぶやいてみたりした。
 しんとした夜気の中。
 満天の星の下で眠る彼は、今、どのような世界にいるのだろう。
 空も大気も深い藍色のこの世界で。
 夜空を仰ぎ、星を見て、珊瑚は彼の隣にそっと腰を下ろした。
 眼を閉じて、弥勒と二人きりの空気を吸い込み、とん、と彼の肩に頭をもたせかける。
 大気がひんやりと冷たい。
 透明な水の中にいるような、ゆらゆらと水底を漂うような、そんな心地がした。
(水に花びらが舞い落ちる感じ……)
 そんな香りがする。
 これは何の花だろう?
 甘い香りが、密やかに寄り添う二人を包み込む。
 珊瑚は瞳を上げた。
 彼女の瞳に眠る法師が映る。

 彼の裏側には何がある?
 うたかたの楼閣。
 夢の世界。
 夜風が運ぶ花の香り。

 ひんやりとした夜風が頬をなぶるのと同時に、触れている彼の体温が心地好かった。
「大好き」
 そっと身を乗り出し、珊瑚は微かに寝息を立てる弥勒の頬に唇を寄せた。
「……」
 唇を離し、法師の様子を窺うも、返ってくるのはただ静かな寝息ばかり。
「ふふ」
 彼の寝顔を見つめ、珊瑚はふっと頬を緩ませると、再び彼の肩に頭を置いた。
「大好き、法師さま」
「ん……」
 不意に法師が身じろぎし、その瞼がゆっくりと開かれた。
「珊、瑚……?」
 珊瑚の唇がやわらかな弧を描く。
 自分に寄り添う娘の肩を、おもむろに、ごく自然に彼の腕が抱いた。
「……眠っていたか。起こしてくれればよかったのに」
「法師さまが眠っていても、そばにいられるだけで嬉しいから」
 弥勒は満足げに吐息を洩らし、抱き寄せた娘の額に口づける。
「法師さま、疲れてるなら小屋の中で寝たら? 外でうたた寝してると風邪ひくよ?」
「大丈夫。おまえと、逢い引きの真似事をしてみたかったんですよ」
 珊瑚は少し頬を赤らめ、うつむいた。そして、そっとその視線を天上へと移す。
 深い藍色の空にきらめく星々が見える。
「ときどき、こんなふうにおまえを誘っていいか?」
「……うん」
 言葉はなくていい。
 法師の気配を肌で感じ、穏やかで、深い藍色に包まれて、静寂に浸るのが心地好い。
「花の香りがするな」
「うん」
「この香りを、夢の中でも嗅いだ気がする」
「法師さまの夢……?」
「おまえの香りだと思った」
 夜風に揺れる彼女の髪に目を落として、弥勒は薄く微笑した。
「法師さま」
「なんです?」
「……好き」
「ああ、解っている」
 法師に寄り添い、眼を閉じ、珊瑚ははにかむように微笑んだ。

 夢を見せて。
 あなたと同じ夢。

 暗香に揺蕩い、わたしはうたかたの夢を見る。

〔了〕

2023.3.5.