淡い淡い恋のつもり

 雲行きが怪しい。
 珊瑚は濡れ縁から空を仰ぎ、ゆっくりと流れる灰色の雲を見上げる。
「珊瑚ちゃん、雨、降ってきた?」
 部屋の奥にいるかごめが顔を上げて空を仰ぐ娘に声をかけた。
「ううん、まだ。あたし、ちょっと井戸に水を汲みに行ってくるね」
「うん」
 朝から雨が降りそうだった。
 この先、山を越えねばならない犬夜叉たちの一行は、雨に備え、大事を取って麓の村に一泊することにした。
 名主の屋敷に一部屋を借り、皆は思い思いに過ごしている。かごめは教科書と睨めっこ。七宝はお絵描き。犬夜叉と雲母は昼寝を決め込み、法師の姿はここにはない。
 珊瑚は竹筒を手に、屋敷の外へ出た。
 まだ正午を過ぎたばかりだが、空は暗い。
 ふと視線を上げると、向こうに村娘たち数人に囲まれている法師の姿が見えた。
「またやってるんだ……」
 何故か胸がもやもやしたが、犬夜叉たちの仲間になってこのかた、もう見慣れた光景なので、呆れたようにため息をついただけで、珊瑚はそのまま村の共同井戸へと向かった。
 井戸には先客がいた。
 桶に水を汲んでいた若い男が珊瑚に気づき、にこっと笑った。
 珊瑚もあやふやな表情を作り、会釈する。
「あんた、旅の人?」
「ああ。名主様のところで一晩厄介になる」
「水、汲んでやるよ」
 男はつるべを井戸の中に下ろし、水を汲み上げると、珊瑚の持つ竹筒に注いでくれた。
「ありがとう。じゃあ」
 身を翻そうとする娘を男が呼びとめた。
「なあ、よかったら、旅の話とか聞かせてよ。村の外れに空き家があるんだ。二人きりになれる」
「……はあ?」
 珊瑚は眉根を寄せて振り返る。
「すぐ雨になりそうだし、一緒に時間潰そうぜ。きっと楽しいよ?」
 男は意味ありげな眼で珊瑚を見遣るが、彼女のほうは怪訝そうに小首を傾げるばかりだった。
「楽しいって……え? あたし、そんな楽しい旅の話なんてないけど」
「いいから行こうぜ」
「私も交ぜてください」
 突然、気配もなく現れた第三者の声に、男ばかりか珊瑚までがぎょっとなった。
「楽しそうですな。だが、この娘を一人で行かせるわけにはまいりませんので」
 まるで最初からそこにいたようにたたずむ法師が、男に向かって、無邪気そうににっこりと笑みを作ってみせる。
「ぼ、坊主の出る幕じゃねえよ」
 村の男は気まずそうにぼそぼそとつぶやくと、桶を持ってそそくさと去っていった。
 弥勒は笑顔を消し、竹筒を持って呆然としている珊瑚を見遣る。
「珊瑚は今の男が何を言わんとしていたか、解って話してましたか?」
「え? なんか、旅の話を聞きたいって」
 きょとんとする珊瑚に法師はため息をついた。
「やっぱり解ってない。口説かれてたんですよ、おまえ」
「え? まさか。法師さまこそ、女の子口説いてたんじゃないの? 何でこっちにいるの?」
──珊瑚! それが、聞いてください」
 突如、真剣な面持ちになった弥勒は、勢い込んで両手で珊瑚の手を握りしめた。
「この村には壊滅的に若い娘が少ないんです。おまけに私の好みのおなごが一人もいない。泊まる村を間違えました」
「……はあ」
「だから珊瑚。今、この村で一番私の好みのおなごはおまえなんです」
 法師は大袈裟に嘆く。
 真面目な口調でそんなことを言われ、不意に頬に熱さを覚えて、珊瑚は慌てた。
「かっ、かか、かごめちゃんだっているだろう」
「犬夜叉がいます。私は人のものには手を出しません」
「でっ、でも、あたしだって……!」
「あ、降ってきましたよ」
 ぽつりぽつりと降ってきた雨粒に気づいた弥勒が、珊瑚の手首を掴む。
「雨宿りできるところへ行きましょう」
「ちょっと、法師さま……!」
 手を引かれ、どんどん進んでいく法師の後ろ姿を見て、珊瑚はどぎまぎする。
 何か──何というのか、こういった行動は、特別な関係にある二人がするもののようで──
「ここが空き家か。まだそれほど傷んでないな」
「法師さま、名主様の家はあっちだよ?」
「ああ、すまん。つい……」
 若い娘と二人きりだったので、条件反射で連れてきてしまった。
「しばらく、やまないんじゃない?」
「そうですな」
 雨雲の様子を見ながら、二人は空き家の中へ入った。
 所々破れた障子を閉め、錫杖を置いて、適当な場所に弥勒が腰を下ろすと、珊瑚も室内を見廻しながら、両膝を立てて座った。
(密室におなごと二人きり……となれば、することはひとつだが……)
 弥勒はやや複雑な表情で珊瑚を見遣る。
(相手が珊瑚ではな)
「なに?」
 彼の視線に気づいた珊瑚に、弥勒は微苦笑を返した。
「珊瑚って、恋したことないでしょう」
「は?」
「先程の男とのやりとりも、どこか危なっかしさを感じました」
 珊瑚はむっとしたような表情を作った。
「そりゃ、法師さまほど経験豊富じゃないけど、あたしだって、恋のひとつや二つ……」
「ほう」
「……誰かと恋仲になったことはないけどさ」
 うつむく珊瑚を眺めていた法師は、悪戯を思いついたように、勿体ぶった様子でゆっくりと言った。
「では、私と恋をしてみませんか?」
「は?」
 顔を上げた珊瑚は思い切り訝しげに眉をひそめる。
 この男は時々、突拍子もない。
「そんな簡単にできるわけないだろう」
「そういう設定でいきましょう」
「何それ」
 弥勒の瞳が思わせぶりに珊瑚の瞳をじっと見つめた。
「珊瑚は私に、私は珊瑚に、心の奥底で淡い恋をしている」
「……はあ」
「今からそういう前提ですよ?」
 珊瑚は疑わしそうに、にこにこしている弥勒の顔を眺めた。
「……つまり、暇なんだ」
「まあ、そういうことです」
 ほっと吐息をついて、彼は素直に認めた。
「でも、楽しそうでしょう?」
 珊瑚は答えずにそっとうつむく。
 何故か、鼓動が速い。
 そのまま自分の膝を見つめていると、弥勒が言った。
「珊瑚、竹筒をください」
「あ、うん」
 だが、持っていた竹筒を手渡そうと視線を上げたとき、まともに弥勒の顔を見てしまい、思わず狼狽して彼女は眼を逸らしてしまった。
「ほら」
 と、弥勒は満足そうだ。
「恋している設定だと、いつもと違って新鮮でしょう?」
 珊瑚はどきりとする。
 今、自分はそんな設定を意識していただろうか。
「竹筒の水を渡すだけでも、何か嬉しいんですよね」
 そんなものだろうか、と珊瑚は考えた。
 恋する相手がすることであれば、弥勒でもそんなことでどぎまぎするのか。
(っていうか、あたしは何でどきどきしてるんだ)
 竹筒を受け取って、床に置く弥勒を横目で見遣り、再び珊瑚がうつむこうとすると、
「あ」
 小さなつぶやきとともに身を乗り出した彼に、いきなり肩を抱き寄せられた。
「……っ!」
 弥勒の胸に倒れ込み、真っ赤になった珊瑚は言葉もない。
「なっ、何すんのさ、いきなり!」
 精一杯の抗議の声を上げると、彼女の肩を抱いたまま、弥勒は悪びれることもなく言った。
「珊瑚の後ろ、雨漏りし始めたんですよ。珊瑚にかかりそうだったので」
 娘はあたふたと法師の腕から逃れた。
 室内を確認すると、確かにあちらこちらで雨漏りしている。
 やや人の悪い笑みを浮かべた弥勒が、わざとらしく付け加えた。
「今は珊瑚に片想い中なので、このままおまえを抱きしめるというのもありでしたか?」
「そ、そうだとしても、心の奥で片想いしている人は相手にそんなことしないと思う」
「なるほど。最近は健全な恋をしてませんからなぁ。珊瑚が言うくらいの線引きがちょうどいいのかもしれません」
 不健全な恋はしてるんだ、と、珊瑚は心の中で突っ込みを入れた。
 破れた障子の向こうに雨が降っているのが見える。
 雨は二人のいる空き家を覆うように、しとしとと降っていた。
「では、どんなところを好きになったのかお互い告白しましょうか」
「なんで告白するの? 片想いだろ?」
「そういう設定ですよ。でも、珊瑚が私のどこを好きになったのか、知りたいじゃないですか」
「好きになった理由も設定がいるの?」
 面倒そうに珊瑚は言ったが、一応、考えてみる。──法師さまのいいところ。
「過酷な境遇にあるのに、前向きなところ。あたしだったら負けてしまいそうなことにも、いつも笑顔で立ち向かってる。そういう、心の強いところが好き」
 言葉はゆっくりと、だが、よどみなく出てきた。
 彼のそういうところは、本当に尊敬している。
「っていう設定」
 と、珊瑚は慌てて付け加えた。これでは、本当に弥勒が好きみたいだ。
「なんだか照れますな」
 やわらかな表情で、満更でもなさそうに、嬉しそうに弥勒は微笑んだ。
「珊瑚は……そうですな、まず、容姿は完璧に好みです」
「へ?」
 思わぬ言葉に珊瑚の頬が染まる。
「弟思いでやさしいし、闘いのときに背中を預けられる実力も持っている。困難に立ち向かう強さもある。勝気なくせに純情なのはたまらなく可愛いです」
「そっ、そういう設定ってだけだろ?」
 法師に褒められるのが居たたまれなくなって珊瑚が素っ気ない口調で言うと、弥勒は心外そうに瞳を瞬かせた。
「言ってる内容は本当のことですよ? おまえだって、恋云々はともかく、本心で言ってくれたんでしょう?」
 頬が熱くてたまらない。
 だんだん居づらい気持ちになってくるのは何故だろう。
(恋するのって、こんなに恥ずかしいもの?)
 弥勒は結構楽しそうだが、珊瑚は落ち着かなくて、どうしようもない。
「あっ、雨! 雨、上がってるみたい」
「ああ、本当だ」
 二人は立ち上がり、障子戸を開けて、空を見上げた。
 西の空に陽が射している。
「明日は晴れそうだな」
 そう言った弥勒が、隣に立つ珊瑚の手を握ったので、珊瑚は飛び上がった。
「法師さま!」
「尻を撫でるよりいいでしょう。ここからは、仲間には秘密の恋仲という設定です」
「まだ続けるの……?」
 握られた手をどうすればいいのか、珊瑚はそわそわと視線を泳がせる。
 だが、この胸の高鳴りは、本当に、恋しているふりをしていることだけが原因なのだろうか。混乱する珊瑚はだんだん解らなくなってきた。
 でも、不思議と嫌ではない。

* * *

 名主の屋敷に戻った弥勒は、終始、機嫌がよかった。
「弥勒さま、何かいいことあったの?」
 夕餉の席でかごめが問うと、法師はにっこりと笑みを返す。
「今日はとびきりのおなごと、二人きりで過ごすことができたんです」
「っ!」
 思わず珊瑚は口に含んだ味噌汁を噴き出しそうになったが、そんな珊瑚にはお構いなしに、弥勒は続けた。
「ただ、もっと向こうから積極的にきてくれてもよかったんですがねえ」
「おい、それはおれらが聞いていい話なのか?」
 こちらもむせそうになった犬夜叉が、居心地悪そうに眉をひそめて法師を見遣る。
 “仲間には秘密の恋仲”という設定は今もなお続行中なのだろうか。
 珊瑚が恐る恐る弥勒を見ると、その視線に気づいた彼は、またしても邪気のない表情で思わせぶりににっこりとしてみせた。
「午後は珊瑚もいなかったのう。どこ行ってたんじゃ?」
「あ、あたしは──雨宿り……」
 余計なことを言えば、ぼろが出そうだ。
 七宝と雲母が不思議そうな顔をしていたが、珊瑚はひたすら食べることに集中した。

 そのまま、何事もなく夜は更け、一行は枕を並べて就寝した。
 夜具に横たわる珊瑚は、並んで眠るかごめの向こうの衝立をじっと見つめていた。
 衝立をはさみ、その向こう側に弥勒が寝ている。
 そう思うだけで、珊瑚の心は簡単にざわざわしてしまう。
(恋してるふり、無意識にしちゃってるのかな)
 だから、弥勒が気になるのだろうか。
(早く寝よう)
 想いを振り切るように寝返りを打って眼を閉じたとき、そっと彼女の肩を揺する手があった。
(……?)
 眼を開けると、暗闇に弥勒の姿がある。
「法師さま──?」
「しっ、静かに。皆を起こしてしまいます」
 唇に人差し指を当て、口許で微笑む弥勒を見上げ、珊瑚は横たえていた身を起こした。
「どうしたの?」
「夜は恋人たちの時間ですよ」
「はっ?」
「皆を起こさないように、ちょっと外へ出ましょう」

 眠りに就いた村は深閑としている。
 錫杖を手にした弥勒がいざなうままに、珊瑚は村外れまで彼についていった。
「こ、恋人たちの時間って……」
「決まってるでしょう。逢い引きですよ」
「あっ、逢い……!」
 目を白黒させる珊瑚を面白そうに眺め遣り、弥勒はくすくす笑って言った。
「ただ二人で星を見るだけです。こういうの、秘密の恋人っぽくないですか?」
 不意に頬が熱くなり、それを悟られないよう、珊瑚は彼に背を向けて空を仰いだ。
 午後の雨が嘘のように、夜空は藍色に澄んでいる。
「……星、綺麗だね」
「ああ。珊瑚、あそこ、ひしゃく星が出ている」
「本当だ。あの柄の先頭のが、破軍星だね」
「珊瑚は言うことが勇ましいな。では、こちらのこの先……あれが北辰妙見ですな」
 満天の星の下を散歩しながら、手を伸ばして星を指し、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
 星明かりで互いの顔がよく見える。
「ふりとはいえ、珊瑚との恋は楽しかったですよ。このまま終わるのが惜しいです」
「いつもそんなこと言って、女をおだてて、口説いてるんだ」
「恋仲のつもりなんて、こんなことは珊瑚だからですよ。珊瑚は初恋体験はどうでしたか?」
 微笑を含んだ彼の声が心地好くて、珊瑚は気恥ずかしそうに、けれど素直に答えた。
「最初は何を言い出すんだろうって思ったけど、嫌じゃなかったよ。でも、いつも以上にどきどきしっぱなしで、落ち着かないから、もう限界」
 ふと法師の足が止まった。
「いつも以上、って……」
 立ち止まった弥勒は、星を見上げる娘の横顔を、探るように凝視する。
「それは、いつもどきどきしてる、ってことですか?」
 ──“私”に?
「こんなの心臓に悪いよ。もうお終い!」
 珊瑚は淡い想いを振り払うように大きく首を振った。
 法師の言った言葉の意味には、珊瑚は気づかないようだ。
「……そうだな。こんな遊びは悪趣味かもな」
「それに、そういう気持ちは、本当の恋のときこそ、味わいたいかなって」
 法師は珊瑚を見て微笑んだ。
「おまえの気持ちを尊重しましょう」
 指針となる北辰を仰ぐ。
 そして錫杖を鳴らし、法師は娘を振り返った。
「そろそろ戻りましょうか」
「そうだね」
 二人は名主の屋敷へと足を向ける。
 前を向いたまま、弥勒は何気ない調子で口を開いた。
「次は本物の逢い引きができることを期待していますよ」
「あたしと? それはない」
 はっきりと言い切る珊瑚に、弥勒は軽く眼を見張って彼女を顧み、まばたきをする。
「え……だって、私の好きなところを挙げてくれたではないですか」
「それはそれ。これはこれ。あたし、いい加減な人は好みじゃないし」
──はああ」
 法師は片手を額に当てて、わざとらしく嘆いてみせた。
「私は珊瑚がかなり好みなんですがねえ」
「どうだかねー」
 珊瑚は微笑して星空を仰いだ。
 弥勒と恋仲という設定が、実は意外に楽しく感じられたことは、彼には言わない。
(だって、どうしてかって訊かれたら、解らないし)
 ただ、いま法師と一緒に星を眺めているのが、行きずりの村娘ではなく、自分であることが何となく嬉しかった。
 彼だから楽しかったのだ。たぶん。
 けれど、満天の星に似たその気持ちの正体に、珊瑚はまだ無自覚だった。

〔了〕

2022.3.5.