君、笑まふとき
木陰で参考書を広げて待っていると、向こうから犬夜叉と退治屋装束をまとった珊瑚が一緒に帰ってくる姿が見えた。
かごめは待ちかねたように参考書をぱたんと閉じる。
勉強は見せ掛けだけで、実は女の子と二人きりで出かけた犬夜叉が気になっていたのだ。
相手は相当な美少女だから。
とはいえ、珊瑚は仲間だから心配することはないのだが、出会ってからこれまでの経緯を考えると、珊瑚が犬夜叉に惹かれたとしても不思議ではないと思う。
「ただいま、かごめちゃん」
珊瑚はかごめのそばまでやってきて、足をとめた。犬夜叉もそれに倣う。
「こんなところで何やってんだ、かごめ?」
「何でもいいでしょ」
「先に行くぜ」
犬夜叉は少女二人を置いて、あっさりと今夜の宿を頼んだ屋敷のほうへ行ってしまった。
今回、一行が訪れた屋敷の主人は、村の近くに巣食っている妖怪を退治することを条件に宿を提供してくれた。
一応、形ばかりのお祓いも行うため、法師は屋敷に残り、犬夜叉と珊瑚が二人で妖怪退治へ出向くことになったのだ。
二人が出かけて戻ってくるまで、それほど長くはかかっていない。
珊瑚は飛来骨を傍らの木に立てかけて、ほっと息をついた。
「妖怪、手強かったの?」
かごめが問うと、珊瑚は軽く首を振った。
「妖怪自体はそれほど手強くはなかった。ただ、足を捻っちゃってさ。ここで少し休ませてもらっていい?」
「えっ、すぐに薬箱を持ってくる。犬夜叉ったら、珊瑚ちゃんが怪我してるのに、負ぶってくれなかったの?」
「そんなひどい怪我じゃないんだよ。普通に歩ける。ただ──」
その場に腰を下ろした珊瑚につられ、かごめも彼女の隣に一緒に腰を下ろした。
「ただ?」
「犬夜叉って、どんどん進んでいっちゃうね」
「……?」
「前しか見てないっていうか」
「そうねえ……」
「普段はそれでいいんだろうけど。……かごめちゃん、大変だろう?」
かごめは苦笑した。
他人のペースなどにはお構いなく、自分のペースで突き進んでいく彼の性格を言っているのだろう。
「犬夜叉、珊瑚ちゃんが怪我をしたことにすら気づかなかったんだ?」
「それはいいんだ。あたしの不注意で招いたことだし、普通に歩くことだってできるんだから。でも、あの、犬夜叉が歩くのが速いってことに気がついたことに驚いたっていうか」
珊瑚は注意深く言葉を選んだ。
「法師さまといるときは、こんなこと意識したこともなかったから」
かごめは軽くまばたきをした。
ようやく彼女は、珊瑚が言わんとしていることが、犬夜叉への愚痴ではなく、法師の話題であることに気がついた。
「弥勒さまが、どうしたの?」
珊瑚の口許が微かに綻んだ。
かごめは、あれ?と思う。
「あの、歩きやすくない?」
「歩きやすい?」
「そう。法師さまと一緒だと、少しくらい足を痛めてたって、気にならない。こっちが無理せず歩ける程度に歩調を合わせてくれるから。法師さまはそんなふうに、さりげなく気を配ってくれるんだ」
それはかごめも思い当たる。
しかし、話の内容より、かごめは珊瑚の表情に見惚れていた。
境遇のせいで、普段の珊瑚はどちらかというと雰囲気にも表情にも堅い印象があるが、そんな彼女が、弥勒の話をしながら微かに微笑んでいるのだ。
綺麗だなーとその横顔を眺めながらかごめは思った。
「うん、確かにそうかもね。あたしは歩幅を合わせてもらえなくても向きになって追いかけるほうだから、あんまり気にはならなかったけど」
「あたしだって退治屋なんかしてるし、か弱いわけじゃないよ。でも、法師さまといると、何ていうか居心地がいいっていうか……」
まじまじと珊瑚を見つめるかごめの視線に気づき、珊瑚ははっとして瞳を伏せた。
その純情な様子に、つい、かごめは彼女をからかってみたくなる。
「弥勒さまは女の子に親切だから。女の子みんなにそうしてるんじゃないかな」
「……」
珊瑚がわずかにうつむいた。
「やだ、冗談よ」
「ううん。あたしもそう思う。でも、法師さまって、いつもそうやって他人への気配りを忘れないのがすごいよね」
珊瑚はちらとかごめを見て、ふんわりと笑んだ。
その笑顔の可憐さにかごめはまたしても目を奪われた。
(これって、もしかして)
「あ、ごめん。勉強の邪魔したね」
「ううん、全然!」
かごめは参考書に目を落としながら考えた。
(珊瑚ちゃん、もしかして、弥勒さまのこと……)
ついさっきまで、珊瑚の気持ちが犬夜叉に傾いたらどうしようと考えていたのが、思わぬ展開になりそうだ。
弥勒はセクハラばかりしてしているから、珊瑚にはそういう対象外かと思っていたのだが。
(珊瑚ちゃんは、たぶん、あたしと同じくらいの年よね。弥勒さまは……二十歳、二十歳過ぎくらい? もしかしたら、珊瑚ちゃんと十歳くらい年齢差があったりして)
かごめは横目でちらりと珊瑚の様子を窺う。
(珊瑚ちゃんは何でも我慢しちゃうタイプだから、大人の弥勒さまなら上手にフォローしてくれる。気が多いし、問題も多いけど、黙って立っていれば格好いいし)
そこへ、心の中で品定めしていた青年がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「あ、弥勒さま!」
珊瑚がはっと顔を上げる。
「おなご二人で何やってるんです? 犬夜叉はとっくに屋敷に戻っていますよ」
帰ってこない珊瑚とかごめを心配してか、弥勒が二人のところまでやってきた。
「ちょっと珊瑚ちゃんとおしゃべりしてただけよ」
弥勒は木陰に座り込む二人の少女の前まで来て、にっこりと木漏れ日のような笑みを浮かべた。
「妖怪退治ご苦労様です、珊瑚」
「あ、うん」
珊瑚は立ち上がろうとして、少しだけ顔をしかめた。
足を痛めたことを忘れていたらしい。
「そうだ、弥勒さま。珊瑚ちゃん、足を捻ったんだって。お屋敷まで負ぶってってくれない?」
「かっ、かごめちゃん! 何を言い出すんだ」
「珊瑚、怪我をしたのか?」
珊瑚は赫くなって首を横に振る。
「怪我っていうほどの怪我じゃない。自分で歩けるから」
弥勒は問うようにかごめを見た。
「足が痛くて、ここでひと休みしていたのよね? ひどくなったら大変だから、弥勒さまが来てくれて助かったわ」
「かごめちゃん!」
焦る珊瑚に笑いかけ、かごめは自分も腰を上げた。
「いいじゃない。飛来骨と錫杖はあたしが持って帰ってあげるから」
「駄目だって。かごめちゃんには飛来骨を持つのは無理だよ」
「では、飛来骨は犬夜叉を取りによこしましょう。珊瑚。負ぶってあげますから、錫杖は珊瑚が持ってください」
「えっ、あのっ……」
珊瑚が遠慮する暇もなく、弥勒は錫杖を一旦かごめに預け、珊瑚を負ぶうと、かごめから珊瑚に錫杖を渡してもらった。
錫杖を受け取り、珊瑚は困惑したように視線を泳がせる。
「お、重くない?」
「珊瑚がですか? 軽いものですよ」
「あたし、本当に歩ける……」
「怪我してなくても、別に負ぶったっていいじゃないですか。このまま、少し散歩しましょうか」
「やっ、そんなことしないで」
「では、ちょっと回り道して帰りましょう」
楽しげな弥勒を見て、もしかして弥勒さまも……? とかごめは期待を抱く。
(まあ、可愛い女の子と密着できて喜んでるだけかもしれないけど)
弥勒に負ぶわれた珊瑚は、法師と何やら言葉を交わし、ほんのりと笑みを浮かべている。
弥勒のことを話すとき。弥勒のほうを見るとき。
そこには、ほんの小さな珊瑚の“特別”があった。
(知らなかった。珊瑚ちゃんて、弥勒さまに向かうときはこんなに表情がやわらかいんだ)
実際には「こんなに」というほどの差ではないかもしれないが、多感な少女は周囲の恋愛事情にも敏感だ。
「かごめさまも一緒に帰りますか?」
「あたしはここで飛来骨の番をしてるわ」
邪魔しちゃ悪いもの、とかごめは心の中で付け加える。
「では、すぐに犬夜叉を呼んできます」
そう言う弥勒の背で身を固くしている珊瑚が可愛い。
「頑張って、珊瑚ちゃん」
微笑を誘われて思わず手を振ると、珊瑚は恥ずかしそうにかごめを見、困ったように頬を染めた。
「はい、頑張ります」
代わりに弥勒がにこやかに応じ、負ぶった珊瑚とともに屋敷のほうへゆったり歩いていった。
程なくしてやってきた犬夜叉が、かごめを見て怪訝そうな顔をした。
「何にやにやしてんだよ」
「ふふ」
「珊瑚のやつ、足捻ったんだって? 言ってくれりゃあいいものを」
「いいのよ。おかげで、とってもいい感じになったから」
彼女はとても満足そうだ。
「ねえ、あたしもおんぶして帰ってくれない?」
「はあ? おれは飛来骨を取りに来たんだぞ?」
かごめは突然、はっとした。
「あっ、でも、おんぶって、お尻が無防備になっちゃうわよね」
「何言ってんだよ、弥勒じゃあるめえし。おれは尻なんか撫でねえぞ」
ぱーんっ!
遠くで平手打ちの乾いた音が聞こえた……ような気がした。
はあ、とかごめは小さくため息を洩らす。
「気配りも忘れないけど、セクハラも忘れないのね、弥勒さま……」
空を仰ぐと、さっき見た珊瑚の透明な笑顔が脳裏に浮かんだ。
(頑張れ、珊瑚ちゃん!)
いきなり握り拳を振り上げたかごめを見て、飛来骨に手を伸ばそうとしていた犬夜叉が、ぎょっとしたように身をすくませた。
〔了〕
2012.1.5.