福音
祝言をあげて三月余り。
寝床の中で眼を覚ました珊瑚は、隣に愛しい人の姿がないことに気づいた。
「法師さま……?」
少しだけ身を起こして、室内を見廻す。
まだ朝靄も消えない早朝、部屋の障子を開け放ち、かの人は柱にもたれて外を見ていた。
外から流れ込む澄んだ大気が仄蒼く光を放っているようだ。
片膝を立ててそこに座る法師は、白小袖姿のまま、しどけなく肩に緇衣を羽織り、物憂げなその姿からは艶めかしさが滲み出るようだった。
寝乱れてゆるんでしまった元結いを無造作な手つきでほどき、解放された髪を鬱陶しげにかきあげる様は、彼を見慣れた珊瑚ですら、はっと胸がときめいてしまう。
そんな、ふとした瞬間に見せる法師の艶な様子に、そのたび、女より色っぽいなんてずるいと珊瑚は胸の内で独りごつ。
朝靄を眺めている夫の姿にしばらく見惚れていた珊瑚は、その整った横顔がふとこちらを向いたのを見た。
「おはよう、珊瑚。起きていたのか」
「……おはよう。いま、起きたの」
あなたに見惚れていたなんて言えない。
「気持ちのいい朝ですよ。おまえもこちらへ来ませんか?」
「うん……」
上体を起こそうとして、まとっている肌小袖がひどく乱れていることに気づき、珊瑚は昨夜のことを思い出した。
「どうした?」
身を起こした彼女は、怪訝そうな弥勒をちらりと睨み、肌小袖の乱れを几帳面に直した。
「法師さま、夕べのことを覚えてる?」
「夕べ? 何か特別なことがありましたっけ?」
珊瑚はむっとしたように法師を見遣った。
「昨夜の法師さま、ひどく乱暴だったよね」
「そうですか? 確かに、いささか強引だったかもしれんが、おまえが理由もなく拒むからでしょう?」
「話があったの。なのに、法師さまは聞いてくれずに無理やり……」
「だって、おまえがいつまで待っても一向に話し出さないから」
弥勒はわずかに首を傾げた。
解かれた髪がさらりと揺れ、またもや珊瑚の胸がとくんと高鳴る。
「夕餉のときには何も言わなかったくせに」
「ごはん食べながら話すことじゃない」
毅然と夫をたしなめようとしても、彼のほうは拗ねた妻の様子を楽しんでいるものだから、全く話にならなかった。
珊瑚は気を取り直して、ひと呼吸おいてから弥勒の顔を見た。
そしておもむろに、
「昨日、楓さまのところに行ってきたの」
と、切り出した。
楓を訪ねること自体は珍しいことではない。
改まった珊瑚の口調から、何か異変が起こったのかと弥勒が口を開きかけたとき、静かに珊瑚がそれを遮った。
「楓さまがおっしゃるには、たぶん、確かだろうと」
「確か?」
まっすぐな視線を受け、珊瑚は思わず頬を染め、顔をうつむかせる。
「子供が……」
うつむいてしまったことを少し悔やんだ。
彼の眼を見て言うつもりだったのに――
「子供が……できたの」
弥勒がはっと息を呑む気配が空気を通して伝わってきた。
「……私の子が?」
壊れやすいものに触れるような、慎重な彼の声音を耳にして、珊瑚は顔を上げる。
眼が合い、あまりに真剣な弥勒の様子に、却って珊瑚は少し余裕を覚えてふっと微笑んだ。
「法師さまじゃなければ誰の子だっていうのさ?」
けれど、すぐに彼のペースに戻されてしまう。
「おまえが、私以外の男の子を産むのは認めません」
「だから、法師さまの子だってば。喜んでくれないの?」
ゆっくりと立ち上がった弥勒は、珊瑚のそばまでやってきて、羽織っていた緇衣を手に取った。
それを妻の肩に掛けてやり、そこに膝をついて彼女を抱きしめる。
「ありがとう、珊瑚」
「え……」
「私に血を分けた家族をくれて」
夫に抱きしめられ、珊瑚は仄かに微笑んだ。
「じゃあ、あたしからもありがとう、法師さま。新しい家族をくれて」
「新しい家族は一人で終わりではありませんからね」
「解ってるよ」
抱きしめる力を少し弱め、弥勒は珊瑚に口づけようとしたが、珊瑚のほうから不意を突くように、軽く唇を合わせてきた。
「あの、あたしが身ごもったからって浮気しないでね」
「するわけないでしょう。おまえと一緒になってから、他のおなごとは口も利いてませんよ?」
「そこまで言うと嘘っぽい」
幸せそうにくすくす笑う珊瑚を心の底から愛しいと思う。
ほんの一年前は、このような幸せな未来が待っていようとは、夢にも思っていなかったのに。
「法師さま? なに考えてるの?」
「……いえ。私たちの子が産まれるときは、きっと私は泣くだろうなと」
「え、法師さまが泣くところ、見てみたい」
半ば本気で言ったらしい珊瑚に、一瞬、ばつが悪そうな顔をした弥勒は、それを誤魔化すように、戯れかかるように妻の肢体を褥に押し倒した。
天上の蒼い色が空気にまぎれて降りてきたような、そんな朝の出来事だった。
〔了〕
2010.6.5.