暁光

 夜が明ける。
 なんて静かなんだろう。
 ついこの間まで、追い立てられるように闘いの日々を送っていたのが嘘のようだ。

 そこで夜明けを見ようと言ったのは弥勒だった。
 初めて弥勒が珊瑚に想いを告げた場所。──鬼女の集落の跡。

 ──もし、奈落との闘いが終わって……風穴の呪いが解け、私が生きていたら──

 それが今、現実のものとなった。
 少しずつ鮮やかに色を帯びていく東の空を見つめながら、法師の手が、右隣に座る娘の──今は己の妻となった娘の手に重なった。
 呪いを封じていた数珠はもうその手にはない。
 右手に巻きつく数珠玉の代わりに、珊瑚という名の新たな珠を手に入れた。
 娘は、ひと月ほど前に夫となったばかりの青年を見遣り、優婉に微笑む。
 風穴の消えた右手で、彼は彼女によく触れた。
 掌に彼女の存在を確かめるように、髪を撫で、頬を包み、手を握ることを好んだ。
 彼女は彼のそんな仕草に幸福を覚える。

 しばらく、旅でもしましょうか。

 そう提案したのは弥勒だった。
 常に生と死のはざまに立たされていた闘いが終わり、無事に祝言をあげたあと、今後の生活について二人で話し合っていたとき。
 しばらく二人きりでゆっくりしてみるのもいいのではないかと気遣ってくれた。
 珊瑚は琥珀のことが気がかりだったが、彼は楓が預かってくれるというし、雲母を琥珀のもとに残して、法師の言葉に従うことにした。
 仇敵を追う法師と妖怪退治屋としてではなく、ただの夫婦として旅をする。
 行き先も日程も決めないまま、気の向くままにあちこちを巡る。
 こういうのも悪くないでしょう? と弥勒は笑っていたが、それは、あまりにも多くの血を流した闘いのあとの心を癒す旅だった。
 最後に珊瑚の里へ報告を兼ねて墓参りに行き、夢心の寺を訪れてから、楓の村へ戻る予定だ。

 そんな旅の途中、立ち寄ったここは、珊瑚にとって忘れられない場所。
 二人はこの集落に足を止め、将来を約束した思い出の場所でこれまでの闘いの軌跡を辿っていた。
 一晩中、静かに語り合った。
 今だから言えることがたくさんある。
 空が仄白く光を帯び始めたとき、感慨にふけっていた珊瑚がぽつりと言った。
「法師さまがいたから。だから、あたしはここまで生きてこれた」
 白み出した空から法師へと、彼女は流れるように視線を移した。
「法師さまがいなかったら、奈落を倒せても、こんなに幸せじゃなかった」
 娘の左手に重ねられた法師の手が、きゅっとその手を握りしめる。
「復讐と絶望しかなかったあたしに、喜びを与えてくれた。復讐を果たせれば死んでもいいと思っていたのに、生きたいと思ったの。法師さまのそばで」
 ひたむきな黒い瞳を見つめていた弥勒の唇がやさしい弧を描く。
「あの日、ここでおまえに想いを告げてから、立場が逆転したな」
「そう?」
「おまえに追われる側だったのが、おまえを追う側になってしまった」
「なにそれ。ひとを妖怪かなんかみたいに」
 ふくれる珊瑚の愛らしさに法師はやわらかく眼を細める。
「想いの奔流がですよ。私が本心を伝え、たぶん、おまえはある種の安心を得て、私は自分の心を抑える術を失った」
 弥勒は過ぎ去った時間に想いを馳せるような眼差しを黎明の光に向けた。
「ひたすらおまえの心を追い、おまえとともに生きたいと願い続けた。そのためならば、生命さえいらないと思っていた」
「法師さま、それ、矛盾してる。それに法師さまが生命を投げ出したら、そのあとあたしがどうなるか考えてよ」
 法師はふっと笑みを洩らした。

 どれだけ我が身が傷つこうと、愛する娘に守られるだけの存在ではいたくなかった。
 珊瑚を守るという特権は自分だけに与えられたものと自負している。

「おまえだって、よく無茶をしてたでしょう。おまえにもしものことがあれば、風穴が消えたところで、生きることなど私には何の意味もなさなくなっていたのに」
 珊瑚は恥ずかしそうにうつむいた。

 女だからって、守られるだけの存在でいるなんて嫌だった。
 愛したひとが傷つき、苦しんでいるなら、あたしがこの手で守ってあげたいと願っただけ。

 おまえへの、あなたへの、そんな想いは今も変わらない。
 奈落を倒すことは、そのまま、互いと生きるための闘いだったから。
 呪いを解くとか、仇をとるとか、そのようなこととは別の次元で、互いが互いの魂を必要とし、欲していた。
 法師さまは、珊瑚は、己が生きるために不可欠な存在だから。

 法師の右掌が珊瑚の頬に触れた。珊瑚が法師の顔を見上げる。
「この場所で、もう一度、私の気持ちを聞いてくれるか?」
「法師さまの気持ち、ちゃんと伝わってるよ。何があったって、あたしはどこまでも法師さまと生きていくもの」
 法師は穏やかにうなずいた。
「それとも、今度こそ、もう浮気はしないって約束してくれるの?」
「あのねえ……」
 はっと思い出したように真剣な顔つきになる珊瑚に、弥勒は苦笑を洩らす。
「やっと添うことができた新妻を裏切るような真似はしませんよ。ただ、今の気持ちを伝えたいだけだ」
 法師の両手が珊瑚の頬を包み込んだ。
 黒曜石のような瞳にじっと視線を捉えられ、珊瑚の頬が薄紅色に染まる。
「何年経っても、いくつになっても、私は、おまえに恋し続ける」
 どくん、と心臓が鳴った。
「いつでも、いつまでも、おまえに恋してる。私の子を産んでくれるとおまえが約束してくれたここでなら、この一瞬を永遠に変えられる気がする」
「法師さま」
 互いにそれは、人生で最初で最後の恋。
 はじめて恋心を抱いたのがいつなのか、それはもう、曖昧な記憶だけど。
 一生をかけて恋していける相手が眼の前のひとであることは間違いなく真実だから。
 早春の花が綻ぶように、ふわりと珊瑚は微笑んだ。
「法師さま、手を出して? こんなふうに小指を立てて」
 右手を出した弥勒の小指に、珊瑚は自らの小指を絡めてみせた。
「約束のおまじない。いつだったか、かごめちゃんに教えてもらったの」
「小指だけ? 全ての指を絡めて約束してもよいが」
「小指だけってのに意味があるんじゃない? それに、全部の指を絡めちゃったら、あんまり御利益なさそう」
 二人は顔を見合わせてくすりと笑った。
「これで、法師さまはもう浮気しないって約束だからね」
「え? 違うでしょう。おまえだけを見つめて、一生おまえに恋していくという約束です」
「あたしだけ見つめて、それでも浮気はするつもりなの?」
 珊瑚の眼がすっと細められたのを見て、弥勒は、はは、と乾いた笑いで誤魔化した。
「……なあ、珊瑚。おまえからも言葉が欲しい」
「言わなくたって──解ってるでしょ?」
 不意に眼を逸らし、そわそわする娘の様子が可憐だった。
「ひと言だけ。私の願いを聞いてくれるか?」
 なに? と問うように瞬いた珊瑚の瞳を見て、弥勒はその耳元に唇をよせた。
「名を。私の名を、呼んでください」
 ひそめられた低い声音は媚薬のような甘さを孕んでいた。
 目の前の青年へのこみ上げる愛しさをこらえ、珊瑚はきゅっと袈裟を握りしめる。
「珊瑚」
 促すような声が聞こえる。
「み……み、みろ、く、さま──
 消え入りそうにささやかれた言葉は、すぐに空気に融けてしまった。
 耳まで朱に染め上げた珊瑚を弥勒はふんわりと抱きしめた。
「もう一度。今少し大きな声で」
 早鐘を打つ鼓動を抑え、大きく息を吸い込み、珊瑚は自分を抱きしめる法師の背中に両手を廻した。
「大好き。弥勒さまが、大好きです……」
 ゆっくり、ひとつひとつの語句を噛み締めるように告げると、微かに弥勒が息を呑む気配がした。
 欲しかった言葉。珊瑚の声で呼んでもらいたかった言葉を耳にして、抱きしめる力が強くなる。
「珊瑚」
「はい」
「私も愛している。おまえを。心から」
「……はい」
 あふれ出しそうな幸福感に包まれながら、珊瑚は泣きそうにうなずいた。
「……珊、瑚……」
 珊瑚を抱きしめたままの弥勒の身体がぐらりと傾く。
「もう、限界だ──
「えっ、ええっ?」
 ぱたっと地面に押し倒された珊瑚の耳元で、覆いかぶさる法師の唇からすうすうと規則正しい寝息が洩れ聞こえた。
「……」
 ──寝て、る?
「もう、法師さまったら」
 自分の上で眠ってしまった法師のあどけなさにくすくす笑い、珊瑚は彼の背に手を添えて、彼の髪をそっと撫でた。
「あたしも……少し眠いかな」
 昨夜ゆうべは、一睡もせずに語り明かした。
 この暁光を見るために。
 小さく欠伸を洩らした珊瑚は、弥勒の寝息を子守唄に、そっと瞼を閉じた。

 これから長い刻をともに生きる。
 いろいろなことがこれからも起こる。
 わたしたちにとっての生はこれからも続くから。

 この夜明けのひかりに、永遠を誓おう──

〔了〕

2008.3.10.
加筆訂正/サイト収録 2012.4.3.

弥勒×珊瑚・願掛企画『徒祈輪』投稿作品。
二人きりで旅する弥勒と珊瑚が書きたくて、新婚旅行のイメージで。