あのときはまだ互いに気づいていなかった。
己の心が、すでに目の前のひとに奪われていたことに──
花盗人
「全く!」
飛来骨を背に負った退治屋の娘は、視界の隅に、悠然と歩を進める墨染めを認め、不機嫌そうにひとりごちた。
大きなこの町で、四魂のかけらの手がかりを探し、犬夜叉たちはそれぞれがばらばらに行動している。
雲母は七宝と行動をともにしているはずだ。
そんな中、雑踏で仲間の法師の姿を見つけた珊瑚だったが、彼が向かっている先にあるのは確か郭――
「法師さまってば、ちょっと目を離すとこれなんだから」
いったいあんたはやる気があるのかと、ひとこと言ってやろうと珊瑚は彼を追い、踵を返した。
そして娘は花街に迷い込む。
昼間のことであるし、それほど人通りがあるわけではないが、完全に弥勒を見失い、珊瑚は途方に暮れて周囲を見廻した。
どこを見ても娼家らしき建物が並んでいる中で、自分が思いきり場違いな存在であることに珊瑚の頬が熱くなる。
それもこれも法師さまが悪い、と珊瑚は苛々の矛先をかの青年法師に向け、心の中で毒づいた。
そんなふうに仏頂面で歩いていると、
「なあ、あんた」
いきなり声をかけられ、珊瑚は驚いて振り向く。
通りすがりの知らない男がにっと彼女に笑いかけた。一度すれ違ってこちらへ戻ってきたらしい。
「見ない顔だな。どこの妓だ?」
「は?」
怪訝な珊瑚の視線の先にいるのは、いかにも遊び慣れたような、洒落者を気取った風体の若い男だった。
捜している法師とそれほど変わらぬ年齢だろう。
どちらにしても、真っ昼間からこんなところをぶらついているようではろくな男ではない。
珊瑚はふいっと若者を無視して歩き出した。
「おい、待てよ。そうつれなくするなって」
「あたしに用ってわけでもないんだろ。急いでるんだ。じゃあね」
そのまま歩み去ろうとした珊瑚を素早く追いかけ、男は彼女の腕をぐいと掴んで引きとめた。
「何をする」
清げな切れ長の眼で屹と睨む珊瑚を値踏みするように眺め廻した男は、へえ、と口許に高慢な笑みを乗せた。
「気に入った。その様子じゃ、ここへ来たばかりのようだな。初見世はいつだ? おれが買ってやるよ」
「なっ……! あたしはここの者じゃ――」
かっとなった珊瑚は掴まれた男の手を振り払い、怒鳴る。
遊女に間違えられたというよりも、目の前の男に、そういう対象として見られたことが、腹が立ってしょうがなかった。
「あんたほどの上玉はここいらにはいねえ。贔屓にするぜ」
「あたしは堅気だって言ってるだろ!」
このような優男ひとり倒すのはわけはないと思った。
だが、若者の鳩尾に一撃を喰らわそうと身構えたとき、不意にしゃらりと涼やかな音が聞こえ、す、と下ろされた錫杖が珊瑚の動きをとめた。
「な、なんだ、こいつ」
「法師さま」
若者の胡乱な視線と珊瑚の純粋な驚きの視線を受けとめて、どこから現れたのか、弥勒はにっこりと雅な笑顔を見せる。
「こんなところで乱闘を始めるんじゃありませんよ、珊瑚」
「なっ、法師さま、見てたの?」
気をそがれた形の珊瑚はしぶしぶ引き下がろうとしたが、若者のほうが黙ってはいなかった。
「何しやがる。この女に先に目をつけたのはおれだぞ」
「この娘は私の連れです」
穏やかに言って、法師はさりげなく珊瑚の前に立ち、彼女を背後に隠した。
「むしろ感謝してもらいたいくらいですな。私がとめねば、この娘にひどい目に遭わされるところだったんですから」
「ちょっと、法師さま。どういう意味?」
「そのつもりだったんでしょう?」
図星を指されて言葉につまった珊瑚を促し、その場を離れようとした弥勒の背後から若者が罵声を浴びせかけた。
「おい、坊主。その女を置いていけ!」
「……やれやれ」
後ろから殴りかかってきた若者をすっと身をかわしてよけると、弥勒は、流れるように左手の拳を男の鳩尾にめり込ませた。
「ぐうっ」
往来にどさっと倒れる若者にはもう一瞥もくれず、法師は珊瑚に微笑みかける。
「さあ、行きましょうか」
「結局、あたしがやろうとしたこと、法師さまがやっちゃったじゃないか」
「そういう巡り合わせだったんでしょうなぁ。こいつも己の無礼さが身に沁みたでしょう」
しれっと何事もなかったようにそのまま歩み始める法師の様子に呆れ、珊瑚は毒気を抜かれたように、彼のあとを追いかけた。
一応、助けてもらったことに礼を述べると、弥勒は諭すような口調で言う。
「珊瑚。あのような場所にはもっとたちの悪い無頼がいることもある。おなごの身で、一人で立ち入るのは感心しませんな」
並んで歩きながら、珊瑚はむっとして横目で法師を見た。
「法師さまだって、女遊びするためにあそこに行ったんだろ?」
「ははは、まあ。今日は遊んでいませんが、極上のおなごがついてきてくれました」
「いっ、いつの間にっ?」
珊瑚は唖然とした。
この町に入ってそれほど時間は経っていないというのに、この男はもうどこかで女をひっかけてきたのか。それも犬夜叉やかごめや自分たちが必死に情報収集をしている間に。
けれど、弥勒は涼しい顔で、立ち止まった珊瑚を振り返り、彼女を指で指し示した。
「私の目の前にいるでしょう? 極上のおなごが」
刹那、きょとんとした珊瑚だったが、からかわれたと知り、すぐに憮然となる。
そんな彼女の反応にも、弥勒は鷹揚に笑むだけだ。
「珊瑚、少し茶屋で休みませんか。嫌な思いをしたようだし、気分転換に」
嫌な思いをしたのはあんたのせいだと言いたかったが、彼の気遣いを感じ取り、とりあえず珊瑚は黙って法師に従った。
「って、なんで郭の中の茶屋に入る!」
弥勒が珊瑚を連れていったのは、茶屋は茶屋でも、引き手茶屋というものに分類される茶屋であろう。
「先ほど、この茶屋で小妖怪の気配を感じまして」
と、弥勒は何でもないように出された茶を優雅にすすっている。
「私が退治したので、ここならただで茶が飲めます」
「……ああ、そう」
気分転換も何も、居心地悪いことこの上ない。
こんなところに二人でいたら、茶屋の人間に、法師とそういう仲だと誤解されてしまう。
小ぢんまりとした庭が見渡せる床几に腰掛けた珊瑚は、依然、仏頂面で、茶とともに出された串にさした団子を手に取り、頬張った。
「たぶん、頼めば今宵の宿も提供してくれるでしょうが……」
「やめたほうがいいよ。犬夜叉もかごめちゃんも戸惑うと思う」
どこか他人事のように眉をひそめながら珊瑚が言うと、でしょうなあと、邪気のない笑顔でのんびりと法師は応じた。
「それにしても、こういうところに入って、法師さまが遊ばずに出てくるなんて」
「あいにく、この店には好みのおなごがいなくて」
「……いたらどうしてたの?」
ちらと自分を一瞥する珊瑚の視線を受け、心なしか、弥勒は楽しげに破顔した。
「やはり、珊瑚にはこういう場所は刺激が強すぎますか」
何気なく言ったのであろうその言葉に、珊瑚は子供扱いをされたようでかちんときた。
「あっあたしだってね、これでも、言い寄ってくる男の四人や五人……」
「ほう。それはそれは」
面白そうに軽く眼を見開く弥勒に、珊瑚は少しどぎまぎと、彼から庭に視線を移した。
「えっと、三人や四人は」
「ほお」
「一人か二人……」
語尾が小さくなり、うつむいてしまった初心な娘を微笑ましそうに眺め、弥勒は珊瑚の手から食べ終わった団子の串を取り、はい、と、新たな団子を手渡した。
「では、どこにも貰い手がなかったら、私がもらってあげましょう」
「ふん、冗談じゃない!」
珊瑚はつんとそっぽを向く。
「誰ももらってくれなくったって、法師さまみたいな浮気な男はこっちから願い下げだよ」
そして、茶を飲みながら、隣に座る優美な青年法師を見遣った。
「ねえ。法師さまは、どうして法師なんてやってるのさ?」
「はい?」
「堂々と戒律を破る僧職の人って、あたし、初めて見た」
弥勒は淡く魅惑的な微笑を浮かべた。
「還俗して、普通の格好したほうが楽なんじゃない? 女を口説いても誰も文句は言わないよ。まあ、度を越さなければだけど」
「普通の格好といいますと。……犬夜叉みたいな?」
「あれ、“普通”?」
顔を見合わせた二人は同時に小さく噴き出した。
「いいんですよ。私は法衣が似合いますから」
「変な理由」
「珊瑚が知らないだけで、法師でも風雅を旨とし、遊里に出入りする者は結構いますよ」
「でもさ、僧侶だか優婆塞だか判んないような詐欺まがいの格好してるより……あ、法衣を着てると人を騙すのに都合がいいわけ?」
「随分な言われようですな。これでも一応、得度して修業を積んでるんですよ? ですから、法力もあるでしょう?」
「そうなんだよね。不思議だな」
「あのねえ」
心底不思議そうな珊瑚に苦笑を洩らし、おっとりと弥勒も団子を口に運ぶ。
「私の祖父も父も法師でしたが、妻を迎え、子を儲けました。私が法師になったのも、そういう定めだったのでしょう」
「じゃあ、法師さまもいずれは妻を娶るつもりなんだ」
「さあ……それはどうでしょうな」
弥勒は言葉を濁した。
彼の視線がふと右手に落ちたことに珊瑚は気づかない。
「ねえ、法師さま」
「はい?」
「来年の今頃、あたしたちはどうしてるだろうね」
ほんの一瞬、弥勒の目許が微かに曇った。
傾き始めた午後の陽射し。
郭の茶屋の小さな庭には、数種の季節の花が匂やかに咲いていた。
(来年、私は、あの花々を見ることができるのだろうか)
不安や恐怖は常に己と在り続ける。
けれど、いつの間にか表情を和らげている珊瑚の清楚な美貌を見つめていると、すさんだ心が穏やかに凪いでいくような気がした。
もし、自分に風穴の限界が訪れたとしても、この娘には幸せの中で来年の花を見てほしいと。そんなふうに思う自分がいた。
「きっと、希望を見つけ出し、おまえはそれを手にしていますよ」
琥珀のことを言っているのだと、すぐに珊瑚は理解した。
「うん。ありがとう、法師さま」
彼の言葉だけで、ふっと気が軽くなる。
(きっと掴む。法師さまの希望もね)
そのときは再びこの青年とこんなふうに茶を飲みながらゆっくり語りたいと、思うでもなく珊瑚は思った。
気づいたのはいつだっただろう。
あのとき、きっともう盗まれていた。
──わたしの、こころ。
〔了〕
2009.4.16.