鏡の秘色
「おや、珊瑚」
その声に、肩に雲母を乗せ、ぶらぶら歩いていた珊瑚の足がぴたりと止まった。
山の麓の静かな里である。
「法師さま」
「一人ですか? かごめさまは?」
法師は無論、一人ではない。
彼の隣にたたずむ可愛らしい娘を意識して、珊瑚はつい仏頂面になる。
「七宝が疲れて寝込んでしまったから。せっかくの二人きりを邪魔しちゃ悪いと思って」
「で、屋敷を出てきたんですか。珊瑚もなかなか気が利きますな」
「そっそれに、近くの川に藻の花が咲いているから、見てくればいいって屋敷の人が」
なるべく娘を見ないように、珊瑚は曖昧にうつむいて言った。
この日、一行は、法師の隣にいるその娘の屋敷に一泊させてもらう予定だ。
「それなら、私もいま見てきたところですよ」
「え?」
「あたしが弥勒さまを案内してあげたんです。藻の花が咲いている場所へ」
嬉しそうに法師を見上げる娘に、弥勒は微笑を返した。
「恋占い、したんですよね。弥勒さまとあたし」
「恋占い?」
いつものことだ。
けれど、意識の外に追いやっていたはずの胸の奥のもやもやしたものが、一気に珊瑚の心を曇らせる。
弥勒はふと珊瑚に視線を向けた。
「では、珊瑚は私が案内してあげましょうか?」
「弥勒さま、だって、これから旅のお話をしてくださるって……」
「それは夕餉のときにでもゆっくりと。あなたが見せてくださった藻の花があまりにも美しかったので、もう一度、目に焼き付けておきたいのです」
すかさず娘の手を握って甘い声でささやく弥勒に見つめられ、娘はぽっと頬を染めた。
珊瑚はなんとなく面白くない。
法師に背を向けて歩き出した。
「あ、違いますよ、珊瑚。こっちの道です」
「……」
錫杖の六輪が清らかに鳴る。
いきなり道を間違えて赤面したが、彼女はおとなしく弥勒の後ろに従った。
「どこまで行くの?」
すたすたと足を進める弥勒の背に、やや不機嫌そうに珊瑚は問うた。
雑草の茂る道なき道は、彼女が屋敷の使用人から聞いた方角とは少し異なるようだ。
ちょっと振り返った弥勒が、目許に笑みを浮かべて言った。
「この先の廃寺に面した川面が、一番綺麗に見えるそうです。実際、見事でしたよ」
「こんな人けのないところまで、あの娘と二人だけで花を見に行ったんだ」
「これから、おまえとも見に行きますが」
そういう問題ではない。
珊瑚はそっと眉をひそめる。
(油断も隙もないんだから)
気を取り直して、弥勒を追いかけ、下から覗き込むように彼を見た。
「で、結果は?」
「はい?」
「恋占い」
「あいにく、占いはできませんでした」
「手相見じゃないの?」
法師は出し抜けに立ち止まり、前方を錫杖で指す。
「ほら、あそこ。あの鐘楼の向こう側です」
廃寺だというそこは、夏草が生い茂る荒れた境内の端に、鐘楼だけが取り残され、ぽつんと建っていた。
その鐘楼の傍らに流れる清流が目的地らしい。
珊瑚の肩から地面に飛び降りた雲母が小走りに川へ駆けた。
古びた石段を登り、二人は鐘楼の中に入る。
荒れ果ててはいるが、朽ちた様が逆に幻想的だ。
鐘楼の背後に面する小川の清らかな水の流れに、おびただしい緑の藻がさらさらと漂い、白い梅のような藻の花が、水面に、水中に、無数に咲き乱れていた。
珊瑚の顔が、自然と綻ぶ。
「……綺麗。こんなにたくさんの藻の花を見たのは初めて」
思わず鐘楼から身を乗り出して珊瑚がつぶやくと、弥勒も一緒に川のほうを覗き込んだ。
「なんでも、この鐘楼から川面を覗くと、将来、結ばれる相手の姿がそこに映るという言い伝えがあるそうですよ」
「うそ」
「嘘かどうか、覗いてごらんなさい」
珊瑚はおそるおそる水面を覗き込んだが、ゆらゆらと揺れる藻の群れや、水面の白い花が邪魔をして、何も映らない。
「見えないよ」
「でしょう? そもそも、自分の顔すらはっきり映らないので、恋占いなど無理なんです」
「……」
ちょっとほっとした。
彼女はもう一度、藻の花の漂う川面を覗き込んでみた。
「法師さまも、何も見えなかった? さっきの娘も?」
「はい。あの娘も何度もここを訪れているそうですが、いつも藻に邪魔をされて、占いはできないそうです。それでも、十何年か前には実際にこの場で伴侶となる人の姿を見た者もいたらしく、想い人がいる里の若者や娘たちは、時々ここまで来ているようですよ」
「ふうん」
「そういうことです」
そのまま、すぐに帰るのが勿体なくて、珊瑚はしばらく白い藻の花を眺めていた。
先程より、気持ちはずいぶん凪いでいる。と、不意に雲母が注意を促すように、みう、と鳴いた。
弥勒と珊瑚は顔を見合わせ、空を仰ぐ。
「遠雷だ。一雨きそうだな」
「どうする、法師さま。もう戻る?」
「いや、ここで雨宿りしたほうがいい」
空は瞬く間に暗くなり、雲が走った。
雷光。雷鳴。
暗雲に覆われた空から激しい雨が降り注ぐ。
幸い、鐘楼の屋根はしっかりしていた。
雲母は悠然と釣り鐘の上に陣取っている。
ほとんど風はなく、二人は鐘楼の中央──釣り鐘の下に立ち、ただ黙って夕立を眺めていた。
激しい雨は短時間でやんだ。
空は再び晴れ渡り、雲の切れ間から光が斜めに射し込む。
「やんだね」
「ああ」
鐘楼の屋根の下から空を見上げる珊瑚の隣に立ち、何気なく清流に視線をやった弥勒は眼を見張った。
雨で流れが速くなり、藻の群れが大きくたなびき、揺らいでいる。
澄み切った水面が現れ、そこに己の顔が映るほどに。
秘色──
その水の色は、まさに秘められし色のように思えた。
「法師さま、なに見てるの?」
弥勒が凝視しているものが何なのか、怪訝そうに、珊瑚がひょいと彼の傍らから川面を覗き込んだ。
急な流れに翻弄される藻が大きく揺らめいていて、珊瑚の瞳にも、藻の花の間に水面が見えた。
「あ。顔が映ったね、法師さま。こんなに澄んでる。雨のおかげかな」
無邪気に言う娘の言葉に、弥勒ははっとした。
「珊瑚。今、何が見える?」
「川面に? 自分の顔」
「それ以外は?」
「法師さまの顔。当然だろ?」
一緒に覗き込んでいるのだから。
この場所に伝わる恋占いを思い出した珊瑚は、眉をひそめ、不安げに弥勒を振り向いた。
「法師さまには、違うものが見えてるの?」
「いえ。私の顔と、珊瑚の顔が映っているのが見えます」
「……なんだ」
娘はほっとしたように吐息を洩らす。
だが、弥勒はその偶然に驚いていた。
将来の伴侶を映し出す水鏡の中に、心に秘めた愛しい娘の姿を見たことに。
夕立に見舞われ、群生している藻が割れたのは、それこそ偶然の出来事だ。
普段は、その川の水面はたくさんの藻に覆われている。
そして、それを偶然、珊瑚と見た。
互いの顔を。
(将来の伴侶の顔を?)
偶然に偶然を重ね、やっと見ることができる水鏡を見るためには、何度も何度もここへ通わなければならないだろう。
それを見るため、幾度もこの場所を訪れるのは、よほど深く愛し合っている恋人たちだけではないのか。
将来、結ばれる──それは占いではなく、必然なのだ。
胸の奥にこみ上げるものがあり、弥勒は片手で口許を押さえ、一歩下がった。
珊瑚は未だ川面を覗き込んでいる。
「珊瑚。お願いがあるのですが」
「なに?」
「少しだけ……少しの間でいい。じっとしていてくれるか?」
「えっ?」
雨のあとの清涼な大気の中、突然、ふわりと抹香の香りが彼女を包んだ。
慕わしい人の香りに包み込まれ、背後から抱きしめられたことを知った珊瑚は、驚きに眼を見張り、息を呑む。
「ほ、法師さま……? あの──」
「少し、このままで」
弥勒の声は掠れていて、それ以上、珊瑚に言葉を発することを禁じているようだ。
硬直する珊瑚は、ただ、頬が火照るのを感じながら、鼓動を抑え、そこにじっと立っていた。
彼女を抱きしめる弥勒の腕は、どこか切なげで、すがるようで、彼女を少し不安にさせた。
法師は水鏡に何かを見たのだ。
(例えば、もう会えない昔の女の面影とか……?)
じっと、ひたむきに娘を抱きしめていた弥勒は、しばらくして、その腕から力を抜いた。
「……すまなかった。いきなり」
「どうしたの?」
抱擁から解放され、ほんの少し、名残惜しさを覚えたけれど、気丈な様子で彼女は問うた。
「何でもありません。ちょっと珊瑚に触れたかっただけです」
悪戯っぽい口調で法師は言ったが、珊瑚は思いつめたように、真面目な顔で弥勒を見つめた。
「あたしは……誰かの代わり?」
「いいえ? おまえはおまえです」
珊瑚の想いに気づかぬように、弥勒は飄々と言う。
そして、にっこり微笑んだ。
「誰の代わりでもない。だが、それ以上は教えてあげません」
今はまだ。
珊瑚はもう一度、急いで川面を覗いたが、すでに急な流れは元に戻り、藻の群れが水面を覆いつくしており、もう、自分の顔も映らなかった。
白い藻の花が揺れている。
彼と同じものを見たかったと珊瑚は思う。
法師の心に秘められているものは、どんな色を、姿をしているのだろう。
それが彼女自身の姿であることを、今はまだ、珊瑚は知らない。
〔了〕
2016.8.30.