空から降り注ぐような野茨の群れ。
それは秘密という名の約束。
花妖 − Under the Rose −
目的の崖の下までやってきた。
法師と退治屋の娘は顔を見合わせ、うなずき、改めて上を見上げた。
「ここをよじ登るんですか?」
「横から廻れる道があるはずだよ。犠牲者はみんな歩いて登ったんだろうから」
娘は退治屋の装束をまとっている。
「ああ、この道ですね。行きましょう、珊瑚」
「……」
歩を踏み出した弥勒は、反応のない珊瑚を振り返った。
「やっぱり、あたし一人で行くよ。法師さまはここで待ってて」
弥勒は一瞬だけ、不服そうな顔になる。相手が珊瑚だからこそ見せる、素の部分だった。
「私たちが恋仲だからですか?」
言い当てられ、珊瑚はぽっと頬を染めた。
「いけません。妖の正体が不明である以上、一人ではないほうがいい」
「だから、犬夜叉についてきてもらうって言ったのに」
「犬夜叉に来てもらったところで、どうやって恋仲でないと妖に説明するんです? 同じだけ危険なら、私が行きます」
錫杖を鳴らし、弥勒はすたすたと崖の脇の坂道を進んでいく。
珊瑚はやむなく法師の背を追った。
付近の村の若者たちが何人も白骨死体で発見された。
被害者は、何組かの恋仲の男女だった。
目撃者はいないが、たった一日かそこらで白骨化していることから妖怪の仕業と見なされ、妖怪退治屋の珊瑚が呼ばれた。
何らかの理由で恋人たちが標的にされたのだろうと考えた珊瑚は、調査に法師が同行することを渋ったが、口八丁な弥勒に言いくるめられて、結局、一緒に行動している。
「着いたようですよ、珊瑚」
「……すごいね、法師さま」
崖の上に到着し、目に飛び込んできた光景に珊瑚は感嘆の声を上げた。
「綺麗。これ、野茨だよね?」
「ええ。見事なものですな」
何故、被害者が恋人同士ばかりだったのか解ったような気がした。
そこは二人きりで恋を語らいたくなるような、美しい場所だったのだ。
太い幹を持つ古木が中央にそびえ、その古木を覆いつくすように、圧倒的な存在感で野茨が茂っている。小さな白い花が歌うように咲き乱れていた。
二人は野茨をまとう木に近づいた。
「微かな妖気を感じますな」
「この花だね。存在を誇示するように不自然な咲き方をしている」
珊瑚がすくいあげるように野茨の枝に触れて言った。
「若者たちの間では、美しい場所があるという噂が口づてに広まっていたらしいよ」
「確かに、逢い引きするにはちょうどいい場所ですな。この崖の上が怪しいという情報はどこから?」
「子供が教えてくれたんだ。犠牲者の中に崖の上に行くと言っていた人がいたって」
白骨死体はいずれも村の近くで見つかっており、まとっていた衣から身許が判明した。
法師はうなずいた。
「では、妖怪のお出ましを待つとしましょうか」
空は青く、辺りは静かだった。
ここが逢い引きの場所として使われていたことを意識して、珊瑚はちらりと傍らの法師を見遣る。
「なんですか?」
「……ううん」
並んで地面に座り込む二人は、半ば枯れた古木を見上げた。異様なほど華やかに、無数の小さな花が頭上から空から降ってくるようだ。
「妖は現れませんな」
「まあ、今日、現れるとは限らないしね」
空振りかもしれない。
そうしたら、ただ二人だけの刻。
「暇ですな」
不意にこぼれた法師の声に、珊瑚はにわかに騒ぎ出す心臓を抑えつけるようにしてうつむいた。
(怪異の原因を調べて、妖怪を退治するために来たのに。あたしは何を意識してるんだ)
「珊瑚」
立てた膝を抱いてうつむく珊瑚の片側に影がかかり、彼女の鼓動が大きく跳ねる。
法師のいる側だ。考えるまでもなく、彼がこちらへ身を乗り出したのだ。
「二人きりになるのは久しぶりだな」
「あ……そ、そうだっけ?」
高鳴る鼓動を抑え、微かに上擦った声で答えたが、そんなことは言われなくても解っている。同じことを考えていたのだから。
法師さまと二人きりになれて嬉しいと。
「って、あのっ」
油断した。
嬉しいなんて思っていたら、あっという間にその場に押し倒されてしまった。
「ふざけないで、法師さま! 遊びに来たんじゃないんだよ」
「私だって遊びに来たわけじゃありませんよ。しかし、恋仲らしいところを見せないと、妖は現れてくれないかもしれません」
「何その理屈」
仰向けに倒された身体に伸し掛かられ、顔を近づけられ、珊瑚はとっさに横を向いた。法師の唇がやわらかく頬に触れる。
「なんで顔を背けるんです」
「法師さまがそんなことしたら、あたし、妖怪に注意を払えないよ」
「珊瑚は眠っていたって殺気には敏感なはずでしょう?」
「それとこれとは状況が全然違う!」
少しでも動いたら唇が触れる。
身をすくませる娘の緊張をよそに、弥勒は鷹揚に彼女のこめかみに唇を落とした。
「大丈夫ですよ。この体勢なら、たとえ妖怪が現れてもまず襲われるのは私ですから」
「ちょっ……駄目だろ、そんなの!」
思わず前を向いたら、すかさず唇を奪われた。
たちまち頭の奥が甘く痺れ、愛しい人のなすままに、珊瑚は陶酔の中で眼を閉じる。やさしい人がときどき見せる意地悪な態度に、いつも翻弄されてしまう。
恋人の唇をしばらく味わってから、法師は名残惜しげに顔を離し、
「つまり、私たちは囮ですよ」
と、彼女の耳にささやいた。
弥勒は珊瑚の上から立ち上がり、振り返る。
珊瑚ははっとした。
──いつからいたのだろう?
白い着物に黄蘗色の帯を締めた、七宝よりも幼い童女がそこにいる。
(この子が妖? 何人もの人間を白骨にした?)
身を起こした珊瑚の背後で、古木にまとわりつく野茨の群れが風もないのにざわざわと揺れた。
「退治屋ではなく法師の仕事だな、珊瑚」
その言葉にふと珊瑚は法師を見た。
「あの子は死霊だ」
弥勒は錫杖を置いたまま、古木に近寄り、野茨の花をひとつ、折り取った。そして珊瑚が見守る中、童女の前まで進み、その場に膝をついた。
「いま見たことは、秘密ですよ」
振り分け髪の愛らしい童女に、小さな花をそっと差し出す。
「その代わり、おまえの望みを聞き届けましょう」
つぶらな瞳で見上げてくる童女を安心させるように弥勒が微笑むと、童女は無言で手を伸ばし、法師の手から花を受け取った。
無表情だった童女が、ふうわりと、それこそ花が綻ぶような笑みを浮かべたとき、その姿は霞むように消えていった。
「消えた……」
「さて、珊瑚。手伝ってください」
錫杖を持ち、白い花に覆われた古木に歩み寄る弥勒を見て、珊瑚は慌てて立ち上がった。
「野茨の根の辺りに、あの子の骸が埋まっているはずです」
「どうして判るの?」
「こういった霊の要求することはだいたい決まっているんです。つまり、誰かに自分の骸を見つけてほしいんですよ」
弥勒は野茨の蔓をかき分け、根元の土を錫杖でつつきながら言った。
「それほど固くはない。これなら掘れそうだな」
「それは、供養してほしいってこと?」
「少し違うな。ただ淋しいんです。不慮の死を遂げたり、自分が死んだことが信じられなかったり、そういう者たちが、ただ自分の存在に気づいてほしくて悪さをするんですよ」
珊瑚は刀で邪魔な野茨の蔓を切り、苦無を取り出して土を掘った。
四半刻ほど二人で土を掘り返していると、白い、小さな骨が出てきた。
それは何の骨だったのか。
人間でないことは確かだったが、妖怪退治屋の珊瑚にも、それが何の妖怪なのか判らなかった。
「屍に残った妖力で野茨を咲かせ、人間をここへ誘った。彼らを白骨化させたのは、白骨化した自分を発見してほしいという合図だったのでしょうな」
「……子供だったんだろうけど」
痛ましげに表情を曇らせる珊瑚を、弥勒はちらと見遣った。
「ああ、短慮でむごいやり方だ。だが今は、私たちにできることをしましょう」
法師は袈裟を解き、そこに骨を集めた。
「別の場所へ埋め直すの?」
「そうです。子供のようですし、森なんかどうでしょう。動物たちが遊びに来てくれる」
「うん」
法師の表情に癒される想いで、珊瑚はうなずいた。
二人は無言で作業を続けていたが、ふと思い出したように珊瑚が言った。
「で、あの、法師さま。あの子に現れてもらうために、あれは本当に必要だったわけ?」
「あれとは?」
不思議そうに聞き返した弥勒は、上目遣いにこちらを睨む娘の表情を見て、「ああ」と破顔した。
「いや、別にいらなかったかもしれませんが、退屈だったので」
娘の顔が朱に染まった。
「退屈って! そんな理由であんなことして、あ、あの子に見られちゃったじゃないか」
「だから、あの子には口止め料を渡したでしょう?」
「口止め料?」
法師は魅惑的に微笑んだ。
「野茨の花を」
ざざっ──
踵を返そうとした二人は湧き立つ音に振り向いた。
「花が」
古木に覆いかぶさるように咲き乱れていた野茨が、端々から白い花や緑の葉を散らし、はらはらと空間に融けていく。
おびただしい可憐な白い花は塵となり、根の下に秘密を隠していたそれは、役目を終えて、真昼の幻のように消え去った。
あとには枯れた古木だけが残された。
「……行きましょうか」
「うん」
袈裟に包んだ妖の骨を抱え、歩み出す弥勒の背後に、飛来骨を手にした珊瑚が続く。
崖の上には枯れた古木が、何も知らぬげに、沈黙を守るように静かにたたずんでいた。
〔了〕
2011.3.5.