「……我、夢に胡蝶となるか。胡蝶、夢に我となるか」
 すり鉢状に陥没した地面、その中に立つ五輪塔の前にたたずむ一人の法師の唇が小さく動き、言葉が空気を震わせた。

風花

 夢に胡蝶となる。
 果てしなく続く、そんな夢を見ていた。
 しかしそれは、荘子に倣い、蝶となってのんびり戯れていたのではなく、見るごとに蝶の翅は毒に蝕まれ、朽ちていく、おぞましい夢。
 どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。
 そんな胡蝶の夢から醒めたあと、あれほど苛烈だった自らのこれまでの軌跡は、もはや漠然とした記憶でしかない。実感は今もあやふやなまま。
 確かなことは、今、自分が生きているという事実。それだけ。
 不可思議な──
 弥勒は風が渡る空を仰いだ。
 けれど夢ではない証拠として、長年右手を封じてきた数珠と手甲がここにある。
 毒の糸を吐く蜘蛛は滅せられた。
 蝶はもう自由だ。
 そして、強く儚く清らかな花を得た。
 あれほど焦がれていた花に触れることへの禁忌は消えた。
「おやじ……」
 法師は五輪塔に語りかける。
「おやじがおれに託した生命を、おれと一緒に次代に継いでくれる娘を、今日、ここに連れてきた」
 最愛の娘──珊瑚。
 どこか物憂げな、茫洋とした表情を浮かべる弥勒は、五輪塔の前に胡坐をかき、傍らに錫杖を置いた。
 珊瑚。
 彼女との日々がよみがえる。
 ずっと人とのかかわりを避けていた自分が初めて行動をともにするようになった面々は、異質な存在の寄せ集めであった。
 誰もが孤独で、異なる属の異邦人。
 そんな個々の存在を繋ぐ糸のような存在が、かごめという一人の異世界の少女だった。
 犬夜叉や七宝とは違い、同じ人間ではあるが、かごめもまた、別種の存在だったといえよう。
 そこに加わったのが、あの退治屋の娘。
 自分と同じ、この世界の人間で、自分と同じく、肉親を殺されて深い傷を負った娘。
 彼女は自分と同種の存在で、だが同時に、自分とは正反対の存在でもあった。
 故に惹かれもしたし、恐れもした。
 仲間という域から出なければ、どれだけ好意を抱こうと問題はなかったはずなのに──
 己の珊瑚に対する気持ちが同志的な信頼か、芽生え始めた恋情なのか、それが判らない弥勒ではない。
 女として惹かれてはならない。
 今は時期ではないと。そう自分に言い聞かせて。
 自分に向けられるひたむきな想いに気づいたのは、おそらく、彼女自身が自覚するよりずっと前であったと思う。
 自らを欺き、彼女に素知らぬ振りを続けることがあれほど苦しいものだとは思わなかった。
 結局、耐え切れなかったのは己のほうで、脆く危ういその花は、可憐さの下に、自分など及びもつかない強固な意志と生命力を秘めていた。
 なりふりかまわず生きることを守るべき花に教えられた。
 ふ、と弥勒は腕に巻いた封印の数珠に眼を落とす。
 風穴の定めとともに与えられた己の生命。
 父と母が生命を繋いでくれたから、今、己はここにいる。
 呪いは子に受け継がれ、それでもなお、希望を託し、生命を与えてくれたからこそ──

 珊瑚という娘に出逢うことができた。
 人を愛する喜びを知った。

 手甲をつけた右手の掌を見つめる弥勒の表情が、ふと、動いた。
 紫の手甲の上に、白いものが降りてくる。
「風花……?」
 もう雪のちらつく季節ではない。
 空からはらはらと落ちてくる白いものは、雪? ──花?
 白い、小さな花びらのような──これは“散華”──
 思わず弥勒は立ち上がった。
「おやじ……おやじなのか……?」
 空を仰ぐ法師に白い花びらがふわりふわりと降りそそぐ。
 右手の上にも、風に流れた風花がいくつか落ちた。
 弥勒は舞い降りた祝福を乗せた掌を握りしめる。
(おやじ、そこにいるのか? おれを、見てくれているのか……?)
「法師さま」
 はっとして振り返ると、野花を手にした愛しい娘が立っていた。
 幻だったのだろうか。
 開いた掌に花びらはない。
 辺りに風花など降ってはいない。
「瞑想の邪魔してごめん。あたしもここにいていい?」
「ああ。琥珀は?」
「なんか和尚さまに気に入られちゃったみたい」
 珊瑚は白い花びらのような微笑を浮かべた。
「ありがとうね、法師さま。琥珀も一緒に、ここに連れてきてくれて」
「夢心さまは私の家族も同然ですし、おまえとは本当の家族になる。さすれば、当然、琥珀と夢心さまも家族ですから」
「……うん。ありがと」
 それが弥勒のやさしさだということを珊瑚は心得ていた。
「夢心さまがね、しばらくこの寺に留まらんかって」
「夢心さまがそんなことを? 無論、私もおまえさえよければそうしたいと……」
「あ、ううん。琥珀に」
「……」
「誰かさんと違って、素直でおとなしくていい子だから寺にいてくれたら嬉しいって」
「……あのくそ坊主」
 急にふてくされる弥勒の様子に、珊瑚はくす、と小さく笑った。
「ここはあたたかい。退治屋の里の他にも、琥珀とあたしに帰る場所ができた」
「おまえの帰る場所はここじゃないでしょう。祝言は明日だというのに、すぐ出戻りされては困る」
 ふふっと笑い、珊瑚は五輪塔の前に膝をついた。
 手にしていた白い野花を墓に供え、両手をあわせて瞑目する。
 法師が並んで腰を下ろすと、黙祷を終えた娘は彼の右腕に眼をやった。
「それ、まだ着けてるんだね」
 珊瑚が眼で示したのは、弥勒の右手の手甲と数珠。
「ああ。形見に、ここに埋めようかと」
「法師さま、父上と二人きりになりたい? あたし、向こうに行ってようか?」
「いや、おまえも一緒に。数珠はおまえが外してくれ」
 弥勒の右腕からそっと珊瑚が数珠を外すと、弥勒は、手甲は自分で取った。
 固い地面を錫杖を使って掘り起こし、珊瑚と二人で役目を終えた二つの品を丁寧に埋める。
「父上。これが私の選んだおなごです」
 珊瑚ははっとした。
 土をならしている手許から隣の法師へ視線を移すと、彼はまっすぐに五輪塔を見つめていた。
 父の墓前に大切な娘の存在を告げた。
 それこそ、今まで彼が口説いたことのあるどんな女にもなされなかったことだろう。
 嬉しさがじわじわとこみ上げ、珊瑚の心をいっぱいに満たす。
 涙がこぼれそうで、言葉を発したら声が震えてしまいそうな気がしたが、姿勢を正し、珊瑚は再び両手をあわせて五輪塔に向きなおった。
「義父上様」
 凛とした珊瑚の声に、ふと、弥勒が彼女を見遣る。
「珊瑚といいます。あたしは明日、法師さまの……いえ」
 少し躊躇ったように見えたが、彼女はすぐに言葉を続けた。
「弥勒さまの──妻になります」
 珊瑚が発したその名に、弥勒の表情がわずかに驚きを形作る。
「ふつつか者ですが、よき妻になるよう努力します。ですから、いつまでも、あたしたちを見守っていてください」
「珊瑚──
 手をあわせて眼を閉じる珊瑚の横顔を見つめていると、全ての過去を許された気がした。気がついたら珊瑚を抱き寄せていた。
「きゃっ……!」
 突然、腕を掴まれ引き寄せられたかと思うと視界が反転し、珊瑚は驚いて瞳を瞬かせる。
 地に倒された自分に伸しかかる弥勒の瞳が悪戯っぽい笑みを湛えているのを見て、珊瑚は慌てた。
「駄目っ。ちょっとは自重してよ。ここ、父上の墓前だろう」
 視線を絡めたまま、彼の顔が近づいてくる。
「いつでも見守っていてくださるのだから、どこにいようが同じです」
「祝言だってまだなんだよ」
「構わん」
「あたしが構うの!」
 ほんの戯れのつもりだったが、頬を染めて睨んでくる娘の表情に欲をかきたてられ、唇だけでも奪ってやろうと悪戯心が湧きあがったのだが。
「姉上ー!」
 とんだ伏兵に慌てて彼女の身体の上から身を退けた。
 あたふたと珊瑚も身を起こし、斜面になっている地面の高い位置からひょいと顔を出した弟に「何?」と取り繕った笑顔を向ける。
「ちょっと早いけど、夕餉ができたよ。法師さまも、あの、和尚さまに言われて酒の用意もしましたから」
「ありがとう、琥珀。すぐ戻る」
 少しはにかんだ笑みを残して少年が去ると、珊瑚はばつの悪そうな法師をしげしげと見つめた。
「法師さま、もしかして、琥珀が苦手?」
「そんなふうに見えるか?」
「うん。だって、あたしに対するのと全然態度が違う。なんか遠慮があるみたい」
 複雑な表情を浮かべる法師は、泰然自若のいつもの彼とは一線を画していて、珊瑚には何だか可笑しかった。
「まあ、琥珀に嫌われたら、おまえは私と一緒になってはくれないだろうからな」
「どうして? あたしはあたしの意思で法師さまと一緒にいたいって──
「いーえ。もし、琥珀が私のような男と一緒になるのは反対だと言えば、おまえはきっと二の足を踏む。賭けてもいい」
「法師さま、あたしのこと信じてない」
「信じている。だからこそ」
 何物にも覆われていない右手の指先で珊瑚の前髪を軽く梳き、弥勒はその手を彼女の頬に滑らせた。
「あれほどの思いをして取り戻した弟に哀しい顔をさせまいとおまえは悩むだろう。だから、私は琥珀にはいい義兄だと認めてもらわねばならん」
「法師さま」
 珊瑚は頬に添えられた弥勒の手に自らの手を重ねた。
 咲き初めの花のような娘の瞳に宿る意志の色は強い。
「あたしが取り戻したかったのは琥珀だけじゃない。法師さまの生命とあたしの未来。だから、今さら約束を反故になんかさせない」
 そして、もう片方の手で弥勒の頬に触れた。
「もし──もしもだよ? 琥珀が法師さまとのこと反対しても、時間をかけて、ゆっくり法師さまのこと理解してもらう。一見、胡散臭くていい加減そうに見えるけど、本当はそうじゃないんだよって」
「……珊瑚。おまえ、さらりと棘のあること言ってないか?」
「大丈夫。琥珀もきっと解ってくれる」
「いや、それは単なる例え話で。私だって本当に琥珀に嫌われているとは思ってな……」
 弥勒は最後まで言葉を続けることができなかった。
 そろそろと唇を寄せてきた珊瑚に、とくりと心臓が鳴る。
「あたしが……大好きになった人だもの」
 眼を閉じて、珊瑚から与えられる瞬間を待つ。
 が。
「弥勒の旦那ぁ! 夢心さまが待ちくたびれてます……よ……」
 あっという間に突き飛ばされた。
「……」
 眼が合った狸はそそくさと逃げていく。
「ったく。どいつもこいつも邪魔しやがって」
 乱暴に前髪をかきあげ、大きなため息をついた弥勒が傍らの娘の様子を窺うと、すでに立ち上がった珊瑚は彼から眼を逸らし、真っ赤な顔で着物についた草や土埃をわざとらしく払っていた。
「えっと。も……戻ろうか、法師さま」
「そうしましょうか」
 錫杖を持ち、まだ恥ずかしげに下を向いている珊瑚に続いて斜面を登りきると、ふっと風に誘われるように弥勒は父の墓標を振り返った。
(風花が……)
 風に巻き込まれたのか、珊瑚が供えた花が花びらを散らせ、まるで風花が踊っているように、蝶が舞っているように見えた。
 花びらが散るほどの強い風が吹いた形跡はない。
(ありがとう、おやじ)
 風に呑まれた父もまた、未だ醒めない夢を見ているのかもしれない。
 夢は無限に変化する。風花に、胡蝶に、舞い散る花びらに、変幻自在に姿を変えて。
(だが、おやじが見ている夢はきっと……)

 ── 我、夢に風となる ──

 流れるように微笑した弥勒が踵を返すと、揺れた錫杖の清浄な音が、ゆっくり空へと昇っていった。

〔了〕

2008.8.13.