風に誘われ、ふと、珊瑚は振り返った。
遠い記憶。
遠い想い。
遠い何かに心惹かれた気がした。
風の音の…
雨上がりの風は、涼しく、心地好かった。
犬夜叉たちの一行は、山越えの途中で通り雨に見舞われ、困っていたが、運よく辿りついた小さな村で、雨宿りをさせてもらうことができた。
雨が上がったあと、一人で散歩に出た珊瑚は、戻る道を間違え、崖の上に出た。
吹き上げる強い風が珊瑚の髪をなびかせ、彼女は額髪を片手で押さえる。
(すごい見晴らし)
眼下にどこまでも広がる眺めは雄大で、雨のあとのしっとりとした空気に洗われ、すがすがしく気持ちいい。
ふと、彼女の脳裏を遠い何かが掠めた。
どこか懐かしいその感覚は、在りし日の彼女の里も、見晴らしのいいこんな山の中にあったからかもしれない。
景色に目を奪われて、つい、崖の際まで足を運ぶと、雨によって滑りやすくなっていた地面にいきなり足を取られてしまった。
「っ!」
ずざざっ──!
「……ったあ……」
足を滑らせ、崖から転落したが、幸いなことに、すぐ下には月見台のように張り出した平らな岩があり、彼女はそこに落ちた。自分の身長ほどの段差である。
ほっとして、すぐに立ち上がろうとしたが、片方の足に走った痛みに顔をしかめた。
足首を捻ったらしい。
通常なら容易く登れる崖だったが、この足ではとうてい無理だ。
珊瑚は大きなため息をついた。
「あたしってば、馬鹿みたい」
ため息とともにつぶやいて、座り込む。
そもそも、珊瑚が一人で山中を歩き廻っていたのは、弥勒に対して腹を立てていたからだった。
皆で雨宿りをしている間も、法師は村の娘を口説くことに余念がない。
珊瑚が一行に加わってから、突飛な法師の言動にはだいぶ慣れたが、最近、他の娘にちょっかいをかける彼がいちいち気になって仕方なかった。
狭い家の中、同じ室内にいる珊瑚には法師と村娘の会話が嫌でも耳に入ってくる。
苛々と聞き耳を立てている珊瑚のすぐそばで、弥勒は娘に、雨が上がったら村の中を案内してもらう約束を取り付けていた。
居たたまれなくて我慢できなくなり、珊瑚は、雨がやむのと同時に、黙ってその家を出てきてしまったのだ。
(法師さま、今頃、あの娘と……)
雑念を振り払うように首を振って瞳を上げると、鮮やかな山の風景が、絵のように視界いっぱいに広がっている。
(遠くまで見える)
崖の下の林の木立。
細い渓流。
青い空に浮かぶ白い雲。
(里の見張り台もこんなだったな)
風の音しか聴こえない。
気を取り直し、懐から手拭いを取り出すと、珊瑚は地面の窪みにたまった雨水に手拭いを浸して絞り、ひねった足首に巻いて冷やした。
水は冷たく、泥に汚れてもいない。
ここでじっと動かずにいれば、自分がいないことに気づいた雲母が、きっと迎えに来てくれるだろう。
だが、珊瑚はむしゃくしゃして、低い声でつぶやいた。
「……法師さまの馬鹿」
腹が立って仕方がない。
法師にも。自分自身にも。
「女好き。スケベ。節操なしの生臭法師」
眼下の伸び伸びとした景色を睨みながら、脳裏に浮かぶのは、他の娘を口説く法師の姿ばかりであった。
山村の民家の軒先で、弥勒は晴れ上がった空を眺め、辺りを見廻した。
「みう」
「おや、雲母。一人ですか? 珊瑚は?」
雲母は首を横に振る。
「さっきから珊瑚の姿が見えないのだが……少し、やりすぎてしまったかな」
村娘を口説く己を珊瑚が意識していたことは、彼も十二分に感じていた。
無関心を装う珊瑚がやきもきしている様子が可愛くて、つい、度が過ぎてしまったようだ。
彼女が仲間に加わってから、からかい甲斐のある可愛らしい娘という認識だったはずなのに、いつの間にか本気になってしまった。
(すでに落とされてしまった感があるな)
かといって、呪いを持つ身では本心を告げるわけにもいかず、曖昧な態度を続けている。
ため息がひとつ、こぼれた。
「雲母、珊瑚を捜しに行きましょう」
愛らしい猫又を抱き上げて肩に乗せ、弥勒は村を出て、山道を歩き始めた。
雨のあとの土はやわらかく、雲母を肩に乗せた弥勒は、珊瑚のものらしい足跡をたどって崖の上まで来た。
見晴らしのいい景色を一望するそこに珊瑚の姿はないが、ここから引き返した形跡はない。
娘の名を呼ぼうとして、口を開きかけると、当の娘の小さな声が不意に耳に飛び込んできた。
「馬鹿……馬鹿……馬鹿……」
「……」
弥勒は雲母と顔を見合わせ、崖の端から腹這いになって、下を覗き込んだ。
崖のすぐ下に座り込む珊瑚の頭が見える。
彼女はなおもつぶやいた。
「法師さまはなんで、いつもああなんだ? 女口説く以外にすることってないの?」
「……」
弥勒は雲母に向かって、人差し指を唇に当ててみせた。
「いい加減で、ふざけてばかり。どうしようもない」
珊瑚は小石を拾い、それを遠くへ投げた。
「今頃きっと、鼻の下伸ばして、でれでれしてるんだ」
もうひとつ、小石を投げる。
「……あたしが、こんなことになってるのに」
消え入りそうな低い声。
落ち込む心をどうにか浮上させようと珊瑚は決然と顔を上げたが、すがすがしい景色に比べ、自分の心がこんなにも曇っていることがやるせなかった。
どうして、こんなところで、独りで動けずに座り込んでいるのか。
そして法師さまは──
「なんで……ここにいないの」
「いたほうがいいですか?」
「!」
突然、頭上から声が聞こえて、上を見上げると、法師と雲母が下を覗き込んでいる。
珊瑚は飛び上がらんばかりに驚いた。
「ちょっと待ってください、すぐそこへ行きますから」
慌てふためく珊瑚がひと言も発することができないうちに、弥勒は変化した雲母に乗って、珊瑚のいる崖下まで移動してきた。
月見台のように張り出した岩の上で、雲母から降りると、彼は座り込んでいる珊瑚の前に膝をつき、大真面目な顔でうそぶいた。
「そういうことは、本人の前で言わないと意味がありませんよ?」
「ちっ、ちがう! 歩けなくて、一人じゃ不便だったから」
どの辺から聞かれていたのだろう。
珊瑚は真っ赤になった。
「それなら犬夜叉でも、それこそ、七宝でも構わないんじゃないですか? でも、私にいてほしかったんでしょう?」
視線を彷徨わせ、珊瑚は顔をうつむかせた。
「ほ、法師さまが、一番ヒマそうだから」
娘の返答に微苦笑を洩らす弥勒は、手拭いを巻いている珊瑚の足首の具合を調べた。
「上から落ちて捻ったのか。まだ、痛みますか?」
足を動かそうとして、珊瑚はわずかに眉をひそめた。
「もう少し、動かさずにいたほうがよさそうだな」
弥勒は手拭いを水たまりの水に浸し、絞りなおして患部に巻いた。
「あの、ありがとう」
どこかほっとした空気が流れる。
「ところで、珊瑚。さっきの独り言、あれは、焼きもちだと思っていいんですか?」
「あ、あたしは別に」
凪ぎかけていた気持ちがまたぞろ騒ぎ出し、珊瑚は瞳を伏せた。
「法師さまとは、そういう仲じゃないし……」
「“そういう仲”になってみますか? そうしたら、堂々と焼きもちを妬けますよ」
傍らに座る弥勒が、ぐっと珊瑚に顔を近づけて、ささやきかけてきた。
迫るような仕草と声音に珊瑚はどぎまぎとなる。
「どうせ、誰にでもそんなこと言ってるんだろう? さっきの娘にだって、村を案内してもらうと約束してたくせに」
「しまった、忘れていた……!」
弥勒がはっとするのを見て、珊瑚の声が少し尖った。
「今から行けば? あたしは雲母がいるから一人で戻れる」
「いえ、構いません。行きずりの娘との約束より、仲間の珊瑚のほうがずっと大事ですから」
珊瑚の長い睫毛が瞬いた。
弥勒はそんな彼女をからかいたい衝動に駆られる。
「ただ、この状況では、約束をすっぽかして珊瑚と逢い引きしていたと思われるかもしれませんな」
「えっ? そんなふうには……」
「見えますよ」
たぶん。
希望を込めて、言ってみる。
彼女が頬を赤らめ、はにかんだ様子を見せたので、弥勒は満足げに微笑した。
「そろそろ行きましょうか」
一旦、錫杖を置いた弥勒が、珊瑚を横抱きにして、変化した雲母の背に乗せようとした。
「ちょっと」
「いいから」
そのとき、強い突風が吹いた。
「きゃっ……」
張り出した狭い岩の上、強風に押された珊瑚は座ろうとしていた雲母の背から滑り落ち、痛む足で身体を支え切れずに、目の前の弥勒の胸に倒れかかった。
弥勒は珊瑚をかばうように、彼女の身体を抱きとめる。
期せずして想いを寄せる娘の身体が腕の中に飛び込んできて、一瞬、弥勒は動揺した。が、すぐに、受けとめた彼女の華奢な肢体を、気づかれないように抱きしめた。
(──風穴さえ、なければ)
ふとした気まぐれのように、弥勒は珊瑚のこめかみ辺りに口づけた。
「……」
何かに気づいたのか、不意に珊瑚が弥勒の胸から身を起こし、法師を見上げた。
「今、何かした?」
「珊瑚が抱きついてきたので、受けとめてあげました」
「……抱きついたんじゃない」
いつもは秘めている愛しさがあふれる──珊瑚に気づかれぬよう、弥勒は愛おしげに微笑した。
彼女を雲母の背に座らせ、弥勒も錫杖を持って彼女の後ろに跨った。
ふわりと雲母が舞い上がる。
「ねえ。法師さまは、どうしてここにいるの?」
「どうして、とは?」
「あたしは助かったよ。でも、あの娘との約束をすっぽかして、どうしてこんなところまで来たの?」
雲母が崖の上に降り立ち、弥勒は雲母の背から地面へ降りた。
歩けない珊瑚はそのまま雲母に乗って村へ戻る。
「珊瑚の姿が見えないので、気になったからですよ」
「うそ」
「雲母がおまえを捜していたからと言えば、納得しますか? 珊瑚のほうこそ、どうして崖から落ちたんです?」
珊瑚は頬を赤らめた。
「何か深刻な考え事でも?」
「……」
この男には、いつも、のらりくらりとかわされる。
でも、行き先も告げずに出かけた自分を、彼が心配して追いかけてきてくれたことを考えると、それでもいいと思ってしまう。
「何でもない。不注意だっただけ」
崖の上を風が駆け抜け、二人の髪や衣をそよがせた。
額髪を押さえ、そっと珊瑚が弥勒を窺うと、彼は髪をなびかせて、大空を仰ぎ見ていた。
珊瑚の胸を何かが掠めた。
胸の奥が、澄んだ大気に満たされていくような心地。
(なんだろう、この感じ)
心惹かれた“何か”は、過去ではなく、未来にあるような気がした。
〔了〕
2014.8.26.