言幸く、君が名を
ほ・う・し・さ・ま
目の前を歩く広い背中に向かって、唇の動きだけで、呼んでみた。
どうして、この人でなければならないんだろう。
出逢った最初の頃は、こんなに好きになるなんて思ってもみなかった。
だって、言動はいい加減だし、女には見境ないし、すぐお尻とか触るし、平気で嘘つくし。
でも──うん、本当は解ってるんだ。
好きになるのに理屈なんかないって。
“法師さまだから”
たぶん、それだけが理由。
「珊瑚、そこ、気をつけて。枝が張り出してます」
「うん」
「珊瑚、地面に窪みがありますから注意して」
「解った」
冬枯れの雑木林の中、焚火用に拾い集めた枯れ枝を抱えて歩きながら、珊瑚はいちいち弥勒に返事を返す。
法師さまの声が好き。
その声で、名を呼ばれるのが好き。
「珊瑚」
そんなふうに呼んでくれるのがとっても。
「好き……」
少しうつむき加減に微笑んだ珊瑚は、次の瞬間、
「あたっ!」
やはり枯れ枝を抱え、こちらを向いて立っていた弥勒の腕にぶつかった。
「なっなに、法師さま。どうしたの?」
「どうしたのって……聞いてなかったんですか。これくらいで充分だろうからもう戻りましょうかと言ったんです」
「あ、そ、そう。うん、そうだね」
やや上擦った声でうなずき、珊瑚は両手に抱えた焚き木に視線を落とした。
そんな珊瑚を弥勒は不思議そうに見遣る。
「何が好きなんですか?」
彼女は驚いて顔を上げた。
「えっ? あたし、何か言ってた?」
「はい。好き、って」
「え゛──」
焦り気味に引きつった表情を浮かべる珊瑚に、弥勒は疑わしげな視線を投げた。
「珍しく思い出し笑いなんかしちゃって。何が好きなんです?」
法師の視線を避け、珊瑚はくるりと踵を返す。
「あの、えっと……何でもない」
「何でもなくありません。何を思い出してたんですか」
「いいじゃないか、何だって」
せかせかと歩を進める珊瑚に追いついた弥勒は彼女の横に並ぶと、その顔を覗き込んだ。
「あんなふうに微笑みながら好きなんて言われてごらんなさい、気になるでしょう。答えないんなら勝手に解釈しちゃいますよ」
「どうぞっ」
「……ひょっとして、私のことを考えていたのか?」
珊瑚の歩みがぴたりと止まる。
その通りですなんて言えやしない。
「図星だな」
さっと朱を帯びた頬を眼に映し、にんまりと笑う法師を、珊瑚は屹と横目で睨んだ。
「ち、違うよ。名前、あたしの名前が好きだなって思ったの」
「名前?」
珊瑚は彼から視線を逸らし、きゅっと枯れ枝の束を抱きしめた。
「そう、名前。ほら、あたしの里はあんなふうになっちゃったから、父上や母上があたしに与えてくれたもので残っているのは、この名前だけだろう?」
「ああ」
法師は少し表情を改め、わずかに睫毛を伏せた整った横顔を探るように見つめた。
「飛来骨もそうだけど、これは商売道具でもあるからさ。それとは別に」
背に負う愛用の武器へちらと視線をやり、珊瑚は傍らに立つ法師を顧みた。
「あたしのために、きっと一生懸命考えてくれた名前。形見ってわけじゃないけど、父上と母上の想いが込められているこの名前、とても好きなんだ」
そして、だからこそ、その大切な名前を法師さまの声で呼んでもらえるのが嬉しい──
蕾のような唇が控えめに弧を描くのを見て、弥勒はふわりと笑みを返した。
「私も、おまえの名が好きですよ」
「ほんと……?」
「美しい響きだと思う。やはり、美しいものはそれを表す名も美しいのだな」
「ああ、宝玉の名前だから?」
「違いますよ。美しいものと言ったのは、おまえのことです」
さらりと言われ、とくんと心臓が鳴るとともに珊瑚は耳まで桜色に染め上げたが、法師は特に気にすることもなく、そのまま仲間たちの待つ方向へと歩き出した。
「何故だろうな。おまえに出逢う前は珊瑚とはただ宝玉を指す言葉に過ぎなかった。それが、今ではこの世で一番美しい言葉に思える」
ゆったり歩く彼の後ろに珊瑚も続く。
歩を進めるたび、足の下で枯れ草がかさこそと微かな音を立てる。
「この世の万物に神霊が宿るように、名にも言霊が宿る。私が“珊瑚”という音を美しいと思うのは、それがおまえの名だからだ」
振り返り、愛しさを込めてやわらかく微笑むと、桜色の頬をした娘は恥ずかしげにうつむいた。
「……嬉しい」
「ん?」
「法師さまがそんなふうに想って、あたしの名を呼んでくれるのが嬉しい」
消え入りそうなつぶやきに、弥勒はただ深みのあるやさしい瞳でうなずく。
そして、焚き木の束を抱えた二人は仲間のもとへと歩みを進めた。
珊瑚はしばらく、静かな幸福感に揺蕩いながら黙って法師の後ろを歩いていたが、やがて、決心したように顔を上げた。
「ねえ、法師さま」
「なんだ?」
その先を言うのは、彼女にはかなり勇気が要った。
「あたし……あの、法師さまの名前も好きだよ?」
「私の?」
今度は弥勒が足を止めて珊瑚を振り返る。
「うん。とても好き」
言ってみて、恐る恐る下からちらりと彼の反応を窺うと、法師は納得のいかない表情で彼女を見下ろしていた。
「……法師さま?」
「じゃあ、何故おまえは私を名で呼ばん?」
珊瑚は軽くまばたきをした。
「え……何故って言われても。最初からそう呼んでたし、そう呼ぶ癖がついちゃったし」
「では今、言ってごらんなさい。みろく、って」
珊瑚は大きく眼を見張り、ものすごい勢いで首を横に振った。
「どうして」
「は──恥ずかしい……から」
「おまえ、もしかして一生“法師さま”で通すつもりか?」
呆れ顔になった弥勒がため息をつくと、珊瑚は恥ずかしげにうつむいた。
「そういうつもりじゃ──でも、法師さまの名前は特別だから」
「特別?」
「菩薩様の名前でしょ?」
弥勒は首を傾ける。
「菩薩様の名前だと畏れ多いですか? 犬夜叉も七宝も平気で呼び捨てているが」
「ううん、そういう意味じゃなくて」
珊瑚は小さく首を振った。
「法師さまの名前を想うとき、時々、法師さまの父上や母上のことを考えるんだ」
いきなり話が飛躍し、怪訝そうに弥勒が眉を上げたとき、不意に珊瑚は顔を上げて法師の眼をまっすぐ見つめた。
「弥勒菩薩様って、五十六億年後だっけ? 地上に現れて、人々を救済してくれるんだよね」
「ええ。五十六億七千万年後の末法の世に衆生を救うんです」
珊瑚は紫の手甲に覆われた法師の右手に瞳を向けた。
「さっき、法師さま言ったでしょ? 名前には言霊が宿るって。法師さまの父上と母上も、そんなふうに菩薩様の名前に祈りを込めたんじゃないかなって思うんだ」
驚いたように自分を見つめる弥勒の眼を見返し、珊瑚は熱を込めて言葉を続けた。
「弥勒菩薩様が人々を救うように、菩薩様の名前が風穴の宿命からこの子を救ってくれますようにって、そんな願いが託されて名付けられた名前のような気がするの」
弥勒という名に人々は希望を見いだし、そこに一条の光を見る。
「……そのように考えたことはなかったな」
「法師さまの名前は、祈りにも似た響きだから」
そして、珊瑚ははにかむように笑みを浮かべる。
「その祈りが届いて法師さまが真に解放されたら。そのときこそ、法師さまの本当の名前を呼んで、言祝ぎたいの」
「珊瑚──」
彼は衝動的に一歩珊瑚に近づいた。
思いきり抱きしめたかったが、自分も彼女も、両手に枝木を抱えている。
「言祝ぐと言うのなら、それは本懐を遂げたときか? それとも、祝言で固めの杯を交わすときか?」
ささやくように低くなった声は、震えていないだろうか。
珊瑚が自分のことを想うことが──祈りにも似たその想いがこんなにも嬉しい。沁み入るように、素直にそう感じた。
「そんなの判んないけど……」
「では、それを聞くまでは絶対に死ねんな」
「当たり前だろ? 絶対一緒に生き抜くんだからね」
「全く。おまえには敵わん」
困ったように、慈しむように、法師はどこまでもやさしげな微笑を美しい名を持つ娘に向けた。
この愛しさを全身で伝えたい。
両手がふさがっているので、口づけだけでも、と珊瑚に顔を寄せようとしたが、彼女が抱えている枝木が邪魔で、額にすら唇が届かない。
「……邪魔ですね」
「何が?」
「この枝の束」
「別に邪魔じゃないけど」
「これではおまえに口づけることも抱きしめることもできん」
「なっ、なに言って……!」
せっかく集めた焚き木を、弥勒がその場に投げ捨てようかと逡巡しているのを察知し、それより早く、珊瑚は出し抜けにすたすたと歩き出した。
「あっ、こら。待て、珊瑚。ちょっと立ち止まって顔だけこちらへ向けてくれませんか?」
「駄目。帰るよっ」
「いいじゃないですか。減るもんじゃなし」
「減るって……あーっ、時間が減る! こんなところで話し込んじゃって。みんな待ってるのに」
雑木林の中を早足で歩く珊瑚を追いかけ、弥勒はしきりに口説きの言葉を並べたてる。
「大丈夫、すぐすませますから」
「駄目ったら駄目! あたしたちが早く戻らないと、火が熾せないんだよ?」
おどけた口調も、乱暴な物言いも、ただの照れ隠しだって互いに知っている。
そんな日常のやり取りが心地好い。
「ねえ、珊瑚。ちょっとだけ」
「やだってば。法師さま、しつこい」
「だから、ほんの少し立ち止まってくれるだけでいいんです。さーんご。さ・ん・ご。さーんーごっ!」
「えーい、うるさいっ」
自分の名を呼ぶ法師の声と彼の足音を背中で受けながら、急ぎ足で雑木林を進む珊瑚の表情に、仄かな微笑みが陽炎のように揺れた。
いつか。そう、いつかあたしも呼びたいの。
いつもあなたが呼んでくれるように、大好きなひとの名前を。
全てが終わって、全てが新しく始まるそのときに。
法師さまの名。
それはあたしにとって、祈りだから──
〔了〕
2008.1.8.