紅い炎が燃えている。
目の前に。
そして、己の心の奥底に。
濃き紅 − こきくれなゐ −
その夜は野宿だった。
藍色の深い闇の中、焚き火の炎に朧に照らされ、眠る珊瑚は、深海に眠る宝珠のようだ。
片手を手枕に身を横たえ、伏せられた睫毛が影を落とし、唇は微かな呼吸を繰り返す。
額髪が無造作に頬にかかる様も可憐だ。
そんな彼女を、弥勒はじっと見つめていた。
「……」
弥勒はおもむろに火のそばから立ち上がる。
彼が近づいても、彼女が目を覚ます気配はない。
戦いに長けた娘が、なんと無防備なことだろう。
そこに膝をついても、身をかがめても、あえかな唇は静かに呼吸を繰り返すのみだ。
弥勒はあくがれるように彼女を見つめる。
その吐息は、どれだけ甘いことだろう。
息苦しい想いに耐え、しばらく彼は彼女を見つめていたが、やがて、誘われるように珊瑚の腕に手をかけて、そっとその身を仰向けにした。
刹那、伏せられていた長い睫毛が微かに瞬く。
しかし、それに動じることはなく、弥勒は横たわった彼女の身体に覆いかぶさった。
娘の瞳が驚きに見開かれる。
叫ぼうと開かれた口を、間髪をいれずに、弥勒は己の口でふさいだ。
(──甘い)
身体を重ねた自らの重みで彼女の動きを封じ、彼女の唇を無心に味わう。
吐息も唇も、全てが甘い。
三千年に一度なるという西王母の桃の実を食せばこうもあろうか。
初めて触れる、愛しい娘の柔らかな唇の感触に、弥勒は未だかつて感じたことのない甘美な衝動に駆られ、ことさら強く、長く、珊瑚の唇を求め続けた。
一度唇を離し、瞳を開けると、彼女の瞳と視線が絡む。
非難とも違う、驚きよりもさらに激しい驚愕の色と、いま起こっている出来事が信じられないという色が、混沌と娘の瞳を染めている。
「……何も心配しなくていい」
低くささやき、法師は彼女の白い首筋に顔をうずめた。
珊瑚の躰がぴくりと震えた。
脈の速さを唇で測り、強張る肢体を抱きしめて、そして、彼は彼女の小袖の衿に手をかけた。──
「弥勒。……おい、弥勒!」
犬夜叉に声をかけられ、弥勒ははっと現実に呼び戻された。
焚き火が燃えている。
深夜。
森の中だ。
弥勒は、犬夜叉とその火の番をしていたことを漠然と思い出した。
「おい、眠いんなら寝てろ。見張りなら、おれ一人で充分だ。恨めしそうにあっちばかり見ていられると、こっちまで気が滅入ってくる」
犬夜叉が言った「あっち」では、他の仲間たちが眠っている。
二人の少女と仔狐、小さな猫又。
このところ、戦闘続きで疲労も極限に近かったためか、我知らず、珊瑚を見つめ、あらぬ妄想に囚われていたようだ。
「眠りたいわけではありませんよ」
と、弥勒は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「こんな夜は、おなごの肌が恋しくてな」
犬夜叉は呆れたような顔つきになる。
「おまえ、よくこんな闘いの中で女のことなんか考えていられるな」
「こんな闘いの中だからこそ、です。悔いなく毎日を送らねばやっていられません」
「てか、珊瑚を見てなかったか? おまえの下心を珊瑚が知ったら、尻を撫でられたどころの騒ぎじゃなくなるぞ?」
「……微妙に誤解を招くような言い方しないでください」
法師は仰々しくため息をついてみせた。
「犬夜叉はかごめさまに、そういう想いを抱いたことはないんですか?」
「ばッ……! 誰でも自分と同じだと思うなよ? おれはかごめを、そんな邪な目で見たことはねえ!」
「では、桔梗さまは?」
「っ!」
犬夜叉はたちまち真っ赤になった。
「……あるんですな」
「だから、一緒にするんじゃねえ! 桔梗は巫女だし、そもそも、おれはそういう対象として桔梗とどうこうなりたかったわけじゃ……」
「はいはい。しかし、やせ我慢は身体に毒ですよ?」
狼狽え始めた半妖を軽くいなしたあとは、もう、弥勒は彼の話を聞いておらず、すぐに思考は珊瑚へと戻っていった。
彼女を救うためならば、この命と引きかえにしても構わない。
そして、彼女は彼が死ぬなら、自分も一緒に死ぬと言った。
彼だけの思い込みではなく、確かに相思相愛なのだ。
(いや、考えるな。それ以上、考えるのはまずい)
抱きしめたいとか。
口づけたいとか。
この腕に閉じ込め、完全に自分のものにしてしまいたいとか。
そんな夢想に取りつかれても、それらを望むことは許されない。
右手を握りしめ、いつまでもぼんやりしている弥勒を見て、犬夜叉が不審そうに声をかけた。
「弥勒、おまえ、もう寝ろ。体力を温存しておかねえと、いざってときに足手まといになる」
「やれやれ。犬夜叉には敵いませんな」
法師のことを心配しているのか、これ以上、法師といると余計なことまで口走ってしまいそうで身構えているのか、それは判らないが、とにかく眠るようにと犬夜叉に促され、弥勒は焚き火のそばから立ち上がった。
珊瑚は雲母と寄り添うようにして眠っている。
その傍らを通り過ぎようとした弥勒は、ふと立ち止まり、あたかも枯草を払うだけの仕草のように、そこに膝をつき、手を伸ばして、そっと彼女の髪に触れた。
(愛しい)
真綿にくるむように、大切に守りたい。
滅茶苦茶に抱きしめて、欲望のままに壊してしまいたい。
そのどちらもが本音であり、紅蓮の想いに苦しむのは、法師として、人間として、未熟な証しだろうか。
しかし、この気持ちから、もう目を逸らすことはできなかった。
この娘に囚われてしまったのは、まごうかたなき事実であるから。
この先ずっと、命ある限り珊瑚を守る──それだけが、彼にとっての真実なのだ。
三人と一匹で固まって眠る仲間たちからは少し離れた大樹のもとに、弥勒は静かに腰を下ろした。
少し眠ろう。
自己を制御できないのは、たぶん、神経が疲弊しているせいだ。
瞼を閉じる。
瞼を閉じる直前に、濃紅の炎が見えた。
〔了〕
2015.3.5.