昼下がりの攻防

 はあー……
 至福だ。

 口説きに口説いて、拝み倒して、ようやく許してもらった珊瑚の膝。
 頭を乗せている太腿にそっと手を這わせると、手の甲を思いきりつねられた。
「何もしない、おとなしくしてるって約束だろ?」
 口調はきついが、彼女の顔が明らかに照れを含んで桜色に染まっているのを見て、弥勒はくすりと頬を緩ませた。
 無事に本懐を遂げたけれど、気持ちの整理や、しなければならないことがいろいろあって、二人はまだ祝言をあげていない。
 しかし、晴れて珊瑚は自分のものだと、堂々と許婚だと言える身になったのだ。
 弥勒は再び彼女の膝を撫で、その手をつねろうとおりてきた娘の手を掴んだ。
 指を絡ませ、相手の様子を窺うと、目が合った刹那、頬を染めた珊瑚は、はにかんだように弥勒から眼をそらした。
 このあとどんなふうに甘い展開に持っていこうと考えながら、満足げに微笑し、弥勒は眼を閉じた。

 うららかな昼下がり、広々とした野に二人きり。
 否、雲母もいる。
 雲母は変化した姿で二人の傍らに横たわり、こちらも気持ちのよい午睡に身を委ねていた。

 どれくらいそうしていただろうか。
 突然、弥勒は力ずくで身体を引き起こされたかと思うと、珊瑚の膝から、隣の雲母の背へと投げ出された。
「!?」
 その乱暴な扱いに驚いて身を起こそうとすると、娘の掌に頭を押さえつけられた。
「珊瑚、何を――
「しっ! 法師さまはそのまま寝てて!」
 何事だろうと思うも、仕方なく弥勒は雲母の背に伏して眠ったふりをした。
(何だというんだ。近々夫婦になろうというのにこんなに邪険に扱って……)
 いささか釈然としない。
 ちらりと雲母を窺うと、こちらも突然の珊瑚の振る舞いにびっくりしたようだったが、今は空を見上げてゆらゆらと二股の尾を振っていた。
(空?)
 直接眼で確認するまでもなかった。
「姉上ー! 雲母ー!」
 知っている声が上空から降ってきたのだ。
(なんだ、琥珀ではないか)
 でも何故、己は珊瑚に膝から落とされ、あまつさえ雲母の背中で眠ったふりなどしなくてはならないのか。
 思いきり釈然としない。
「琥珀、どこかへ行ってきたの?」
 珊瑚の声には嬉しさがあふれ、何だか法師は面白くない。
 琥珀は双頭の龍を操って、空中を滑るように大地に下りてきた。
「ちょっと退治屋の里へ。これから阿吽を殺生丸さまに返しに行くところなんだ」
 父や仲間たちの墓に野花を供え、抹香を蒔いてきたのだという。
「声をかけてくれればあたしも一緒に行ったのに」
「でも、おれ、邪魔じゃ……」
 琥珀の視線がちらと法師に向けられたのを見て、珊瑚は真っ赤になって大袈裟に両手を振った。
「邪魔じゃない! ちっとも邪魔じゃないから、おまえはそんな気を遣わなくていいんだからね!」
「法師さま、眠ってるの?」
「うん。日頃の疲れが出たんだろうね」
 あっさりと言ってのける珊瑚に弥勒はますます面白くない。
 考えてみれば、奈落を倒した直後はしばらく落ち着かず、法師は許嫁の弟に、彼の義兄になるのだという紹介すら、まだしてもらっていないのだ。
 法師と姉が恋仲であることは琥珀も薄々察しているようだが、弥勒としては、当然、珊瑚の口から自分たちが夫婦になる約束をしていることを琥珀に告げてもらいたいと思っている。
 いっそ、今すぐ狸寝入りをやめて自分と珊瑚の関係をはっきり琥珀に告げてやろうかとも思ったが、この期に及んでまだ恥ずかしがっている珊瑚の機嫌を損ねるのも躊躇された。
 雲母にもたれてそんなふうに思考を巡らせていると、野に座り込んだ琥珀と珊瑚の会話が聞くともなしに耳に入ってきた。
「姉上は、これからどうするの?」
「うん――
 珊瑚はそっと傍らの法師を見遣る。
 彼との約束をまだ弟に話していないことへの罪悪感は彼女にもあった。
 でも、いったい弟に何と説明すればいいのか、正直、困惑するのだ。
「たぶん、姉上は楓さまのこの村に住むんだね」
 それも珊瑚はまだ決めかねていて、琥珀への返答が少し遅れた。
「うん……犬夜叉や七宝や……法師さまとも話し合って決めるつもり」
 恐らく珊瑚が退治屋の里へ帰りたいと言えば弥勒は反対はしないだろう。
 珊瑚も、弥勒が夢心の寺へ帰りたいと言えば、彼に従うつもりだった。
「おまえは? この村に残らないの?」
「おれは退治屋として生きていきたいんだ。でも、実力も経験もないから、もっと修業しないとね」
 あどけなく笑った琥珀は、そっと姉の表情を探った。
「姉上はさ、もうみんなの仇を討ったんだし、あの、そろそろ嫁に行く……とか?」
「えっ?」
 どうやら琥珀も事実を姉の口から聞きたいらしい。
「なっななな、なんでっ?」
「え……だって、その、姉上もそういう年頃だし」
 琥珀としては珊瑚が話しやすいように水を向けたつもりだったが、珊瑚は真っ赤になって固まり、下を向いてしまっている。
「……」
「……」
「……」
 珊瑚、琥珀、そして弥勒は、それぞれ肝心なことが言えないもどかしさを持て余していた。
 引っ込みがつかなくなった琥珀は無理やり話題を変えようとした。
「そういえばさ、駿の兄上にも会ってきたよ」
「駿に?」
「うん。元気にしてた。里のことは知っていたけど、姉上が生きていることを伝えたら、会いたいって言ってたよ」
「そうか。もうずいぶん会ってない気がするな」
「姉上は昔、駿の兄上のこと好きだったんだよね」
 何気なく言った琥珀の言葉に法師の身体がぴくりと反応した。
「やだ、なに言ってんの」
「兄上だってまんざらでもなかったんじゃないのかな。珊瑚はさぞ美人になっただろうなって懐かしそうにしてたし」
 くすくす笑いながら琥珀は立ち上がった。
 つられて、珊瑚も立ち上がる。
「おれ、そろそろ行かなきゃ」
「うん。そのうち、また一緒に暮らせるようになるといいね」
「それは判らないけど」
 阿吽に乗った琥珀は、珊瑚に気づかれないように法師に視線を送った。
「法師さまや、みんなによろしく。じゃあな、雲母。近いうちにまた来る」
 珊瑚は名残惜しげにうなずき、妖獣に乗って空へ舞い上がる弟を見送った。
「琥珀……」
 しばらくそのまま、遠ざかる琥珀の姿を見つめていた珊瑚だったが、やがて振り向くと、ぎょっとなった。
 法師が不機嫌この上ない表情で、雲母にもたれてこちらを凝視している。
「やだっ、法師さま。起きてたの?」
「最初から起きていたでしょう? 寝てろって言ったのは誰です?」
 よいしょ、と身を起こし、その場に座りなおすと、おいでおいでと手を振って、弥勒は珊瑚もそこに座るように合図した。
 彼女がかしこまって腰を下ろすと、おもむろに尋ねる。
「……珊瑚。おまえ、夫と弟とどちらが大事なんだ?」
 法師の問いかけよりも、言葉そのものに反応し、珊瑚は慌てふためいた。
「おっ、夫って何さ。まだ法師さまとあたしは夫婦じゃ……」
「どちらにせよ、おまえと私は近いうちに祝言をあげる予定なんです。それを、たった一人の大切な弟に許婚として紹介もしてくれないんですか」
 珊瑚は言葉につまる。
 言われてみれば、その通りだ。
「だって」
「だってじゃありません。それに、駿とは誰です」
「え?」
 話が逸れ、珊瑚はきょとんと瞳を瞬かせた。
「駿は退治屋の里の分家筋にあたる人で、別の土地にある退治屋の隠れ里の若頭だけど」
「その男はおまえの何なんだ? まさか、昔の男ではあるまいな?」
 思いもかけない弥勒の言葉に、珊瑚は驚いて首を横に振った。
「なんでそう飛躍するの!」
「そいつのことが好きだったんだろう?」
 ふいっと珊瑚から顔をそらし、ふてくされたように言う弥勒を珊瑚は唖然と見遣る。
「聞いてたの?」
「嫌でも聞こえる」
「そんなんじゃないよ。当時、あたしは琥珀くらいで、そのときすでに駿は法師さまと同じくらいの年だったんだから」
「六、七歳の年齢差ではあながち不釣り合いでもなかろう」
 珊瑚は途方に暮れたようにため息をついた。
 自分よりずっと大人であるはずの法師が完全に拗ねている。
「本当に何でもないんだってば」
「しかし、その男を琥珀は兄上と呼び、おまえは馴れ馴れしく名を呼び捨てている。もうじき夫になるはずの私は他人行儀に“法師さま”なのに」
「好きって言っても兄妹みたいな“好き”なんだって。親戚筋にあたるから、琥珀も兄上って呼んでいるだけで」
 すると、不意に法師が珊瑚に向きなおった。
「では、私への好きはどんな“好き”なんだ?」
「え――?」
 さあっと頬を朱に染めて視線を落とし、珊瑚はわずかにたじろいだようになる。
「そんなこと、今さら言わなくったって、法師さま、よく知ってるじゃないか」
「いーえ。言葉にしないと解りません」
 それでも恥ずかしそうに口ごもる珊瑚に、弥勒はとどめの科白を口にする。
「あんまり私を放っておくと、浮気しますよ?」
「それは駄目っ!」
 そう言って法師にしがみついてきた珊瑚の表情があまりにも真剣だったので、弥勒の機嫌はようやく直った。
「では、約束してください。今度琥珀に会ったときには、おまえの生涯の伴侶として、私を琥珀に紹介すると」
「う、うん、解った。努力する」
 いつの間にか、珊瑚は弥勒の両腕の中に抱きすくめられた格好になっている。
 真正面から視線を合わせ、真面目な顔でこっくりとうなずく珊瑚に、自然、弥勒の表情もなごんでくる。
「約束する、ではなくて、努力する、ですか?」
「だって。いざとなったら、なんて言って紹介したらいいのか判んないよ」
 今さらだし、と、困惑したような彼女の表情を瞳に映し、弥勒は微笑した。
「あの、法師さま?」
「なんだ?」
「法師さまだけだから、あたし」
「ああ、解ってる。私もおまえだけですよ」
 もう浮気などする気もないし、その必要もない。
 たまには珊瑚の妬いた顔を見たいとも思うが。
「では、珊瑚。続き」
「続き?」
「膝枕」
「あ、はい。いいよ」
 彼女の膝に再び頭を乗せ、横たわった弥勒は、娘の顔を見上げると軽く眉をひそめてみせた。
「しかし、さっきは少しばかり傷ついたんですよ? おまえときたら、琥珀が来た途端に膝から私の頭を投げ捨てるんですから」
「ごっ、ごめん、法師さま」
「また同じことをしたら、本当に浮気します」
 けれど、少々図に乗りすぎた。
 突如、柳眉を険しくした珊瑚が法師をひと睨みし、すぐにそっぽを向いた。
「法師さまが浮気したら、あたしも浮気してやる」
「さっ、珊瑚!」
 狼狽して身を起こした法師は、今度は自分が珊瑚のご機嫌取りに慌てる破目になる。

 何のことはない痴話喧嘩を傍観していた雲母が、退屈そうに大きな欠伸をひとつ洩らし、首を丸くして、微睡みの中へと戻っていった。
 最終的な軍配はどちらに上がったのか。
 やわらかな風が心地好い、ある昼下がりの出来事だった。

〔了〕

2009.5.20.