澄んだ大気と、月光に支配された夜だった。
 月を見上げ、漠然と、珊瑚は里が滅びて犬夜叉たちと行動をともにするようになって、どれくらいが過ぎただろうと思った。

くちづけ

 今宵の宿はある村の外れにぽつんと建っている朽ちた古い屋敷。
 村よりも山の麓に近い場所にひっそりと在るその廃屋で、一行は夜を明かすことにした。
 犬夜叉とかごめと七宝、そして雲母は、屋敷の奥のかろうじて屋根のある場所で寝ているが、一人、ここにいない法師を思って、外へ出た珊瑚はため息をついた。
 いつの頃からか、夜間、法師が出歩くことに焦燥を覚え始めた。
 風穴を切られたときのように、再び一人で問題をかかえて姿を消したのではと、尤もらしい理由をつけて犬夜叉に相談してみたこともあったが、女をひっかけに行ってるんだろうと簡単に片付けられた。
 事実、いつも夜明け前に彼は戻ってくる。
 まあ、無事ならいいかと思ってはみるが、やけに法師の不在が気になるのだ。
(女ひっかけて何してんだか)
 その先はあまり考えたくなくて、夜空を仰いだ。十六夜の月が出ている。
(綺麗)
 月は弥勒を思わせる。
 彼も、この同じ月を誰かと見ているかもしれないと何度目かのため息をついたとき、傍らの茂みががさりと動いた。
「誰だ!」
 鋭く誰何し、珊瑚は身構える。
「私です、珊瑚」
「法師さま」
 弥勒がこんなに早く戻ってくるとは思わず、珊瑚はやや訝しげに彼を見た。
「……誰と一緒だったの? どうせ、あたしの知らない人だろうけど」
「一夜の相手を探しに行ったと思ったのですか?」
 吐息を洩らし、弥勒は無造作に前髪をかきあげた。
「まあ、そう思われても仕方ありませんが」
「じゃあ、どこ行ってたのさ?」
 珊瑚が不審そうに法師の手許に視線を落とすと、法師は手に持つ竹筒をかかげてみせた。
「酒です。この間、泊めていただいた屋敷で少しばかり失敬してきました」
「呆れた! 独りで呑んでたの?」
 竹筒を取り上げようと腕を伸ばす珊瑚を、弥勒は軽くかわした。
「ちょっと酒が必要でしてね。見逃してください」
「法師さま、もしかして、酔ってる?」
 酔っているそぶりなど露ほども見せない法師だったが、探るような珊瑚の言葉を否定はしなかった。
「ここ数日、まともに寝ていないので。少し酔いが回ったかもしれません」
「もう寝なよ」
 気遣わしげに彼に近寄った珊瑚は、明るい月の光で、彼の肩の辺りに黒く染みのようなものが広がっていることに気づいた。
「どうしたの、これ?」
 何の気なしに触れると、法師が呻いた。
「法師さま?」
「傷が開いたんです。それで、薬草を探しに行っていた」
 昼間、戦闘で負傷した肩の傷の治療が、どうやら完全ではなかったらしい。
「ちょっと待ってて。かごめちゃん起こして、薬箱を借りてくる」
 だが、身を翻そうとした珊瑚の腕を掴み、彼は彼女をとめた。
「どうして?」
「この時刻に起こすのは酷でしょう。痛み止めと、血止めの薬草を採ってきました。酒で消毒して、おまえが手当てしてくれますか」
「う、うん、解った」
 無防備に距離を縮め、珊瑚が肩や腕に触れてきたので、弥勒ははっと身を固くした。娘は患部に触れないよう、気を配りながら衣に染みた血を確認している。
「ひどく痛む? お酒を呑んだのも、痛みを紛らわせるため?」
「ああ。……痛む」
 ――心が。
 手から竹筒が滑り落ちた。
 すぐに自分から離れようとした珊瑚の腕を衝動的に掴んで、引いた。
 驚いて見開かれる黒珠の瞳に十六夜の月が映り込み、弥勒を誘う。
 そして誘われるまま彼女を引き寄せ、顔を近づけ――

「!」

 考えるより先に身体が動いていた。
 そんなつもりは毛頭なかったのに。
 珊瑚の唇を――奪う、など。

 弥勒は小さくまばたきをして、娘の様子を窺った。
 口づけは激しいものではない。
 ただ静かに唇を触れ合わせているだけだ。
 それでも、互いの唇から伝わる熱を感じ、狂おしいまでの静寂に気が遠くなりかけた頃、出し抜けに珊瑚が弥勒を突き飛ばした。
「……」
 無垢な瞳を大きく見張り、食い入るように弥勒を見つめる。けれど言葉が出ない。
 彼女がすぐに抵抗しなかったのも、驚きで動けなかったせいだ。
 弥勒は、今はじめて罪悪感を覚えた。
「悪かった」
「……」
「ずるい言い方になるが、酔っていた。今宵のことは忘れよう」
「……」
 ようやく我に返ったように、珊瑚は法師に歩み寄り、その頬を力いっぱい打った。
 甘んじてそれを受け、弥勒は己を睨みつける激しい珊瑚の視線を静かに見返した。
「謝るくらいならこんなことしないで。法師さまには大したことじゃないかもしれないけど、あたしにはそうじゃない」
 低い声音で言って、珊瑚は踵を返した。
 黙ってその後ろ姿を見送ろうとすると、すぐに珊瑚が引き返してきて、地面に転がっている竹筒を拾い、弥勒の手首を掴んだ。
「来て。傷の手当てしなきゃ」
 このようなことをされて、何事もなかったように傷の手当てなどできるのかと法師は驚く。
 たが、何も言わず、珊瑚のやさしさにすがろうと思った。

 荒れた古い屋敷に入った二人は、仲間たちが眠っている奥ではなく、治療をするために手近な部屋に入った。
 その部屋の屋根は崩れ落ち、そこから十六夜の月が見えた。
 自分の荷からさらしだけを取ってきた珊瑚は、片肌脱ぎになった法師の血に染まった包帯を解き、月の光のもと、手際よく傷の処置を行った。
 手当てが終わるまで、二人は眼を合わせず、ひと言も口を利かなかった。
「……終わったよ」
「ありがとうございます」
 法衣を整え、珊瑚から眼を逸らせたまま弥勒が礼を言う。
 ひどい男だと思われただろうか。
(……今さらだな)
 自嘲するように弥勒の口許がゆがんだ。
 この部屋で眠ろうと、壁際に座って眼を閉じようとすると、遠慮がちに声がかけられた。
「みんなのところへ行かないの?」
 弥勒は眼を開けて声の主を見遣る。
「私はここで眠る。珊瑚はみなのところへ戻りなさい」
 こんな男のそばにいたくないだろうと気を遣ったつもりだが、
「じゃあ、あたしもここで寝るよ」
 珊瑚はあっさりと法師と並んで腰を下ろした。ただし、距離は置いた。
「私のそばにいると危険ですよ」
「どうして?」
「……解らないなら、いい」
 投げやりに言い捨てる弥勒を珊瑚は控えめに見つめた。
「また傷が開いて痛み出すかもしれないし。誰かそばにいたほうがいい」
 言いわけをするように言う。
 そして、法師から視線を逸らした。

 両膝を立ててうずくまるように座っている珊瑚はまだ眠ってはいない。
 彼女が全身で彼を意識しているのを、彼のほうもまた、敏感に感じ取っていた。
 静けさが肌に痛い。何か言わなければと弥勒は思った。
 けれど、脳裏に浮かぶのはただ。
「……初めてだったのか?」
 破れた屋根の隙間から皓々と降り注ぐ月光を見つめ、ぽつりと、弥勒は尋ねた。彼らしくもない不器用な問いだった。
「……」
 答えはない。
「怒ったか?」
 当然だろうな、と思う。
「私を嫌いになったか?」
 そもそも好きだったかどうかさえ判らない。
「もっと怒りをぶつけてくれていい」
 怒りとともに、この夜の記憶を胸に刻みつけてくれたら。
「……私が怖いか?」
 弥勒は視線を月から珊瑚に移した。
 珊瑚は頑なに口を開かなかった。
 月光に濡れた大気が水底のように揺らめいて見えた。

「……法師さまは」
 やがて唐突に言葉を発した珊瑚を、法師は無表情に眺め遣る。
「法師さまは酔ってたから。なかったことにしよう?」
 弥勒の胸がつきんと痛んだ。
 何故?
 忘れようと最初に言ったのは己なのに。
(いや、おれは本当は)
 忘れてほしくない。
 これから珊瑚がどんな男と出会い、恋をしても、初めて唇を奪った男が誰なのかを忘れないでいてほしい。
 なかったことにされるくらいなら。
 いっそ、ここで珊瑚を。

 弥勒は、さりげなく傍らの娘を見つめた。
 法師の視線を感じ、珊瑚は自らの視線を膝に落として、うつむく。
 仄白い月明かりのもと、弥勒は娘の儚げな横顔をつぶさに眺めた。
 美しい娘だと思う。
 だが、欲望を向けるにはあまりにも幼すぎた。
 今の関係を壊したくないのなら、手を触れるべきではない。

――

 ふと、こぼれた弥勒の吐息が悩ましく響き、珊瑚の心臓が大きく跳ねた。
 この鼓動は弥勒にも聞こえているのではないだろうか。

 指先が、我知らず唇に触れた。
 彼から分けられた熱を思い出そうとしている。

 珊瑚ははっとした。
 こんな仕草を見られたら。そっと法師の様子を窺うと、彼は壁にもたれて静かに眼を閉じていた。
「……」
 ほっとしたような、がっかりしたような、複雑な気持ち。
 彼の傷が開くかもしれないなんて嘘だ。
 ただ、彼のそばから離れたくなかっただけ。
(大丈夫。法師さまは酔っているから、明日になったら、きっと、忘れる)
 でも、あたしは一生忘れない。
 初めての口づけだったのだから――
 ただ、忘れたふりはできる。
 きっと、明日になったら、何もなかったように、法師さまと接することができる。
 己の膝を抱きしめ、そこに珊瑚は顔を伏せた。

 何故、涙が滲むのか解らなかった。

〔了〕

2010.10.6.