月に磨く

 ただいま、と声をかけて、珊瑚は自宅の玄関をくぐった。
 家の前に置かれた荷車を見て、少し怪訝な様子だったが、楓のところで分けてもらった野菜を台所に置き、その足で彼女は家の中に夫の姿を探した。
 祝言をあげて半年が経ち、彼と夫婦であることが至極当たり前のことのように感じる。
 同じ屋根の下に暮らし、互いの息吹きを感じて過ごすことは、弥勒と珊瑚の絆を一層深めた。

「法師さま、帰ってるの――?」
 ひょいと濡れ縁に面した居間を覗くと、そこにいた弥勒が顔を上げた。
「ああ、お帰りなさい、珊瑚。楓さまのところへ行っていたのか?」
「うん。お仕事ご苦労様。出迎えてあげられなくてごめんね。……何してるの?」
 居間には、今朝まではなかった道具がいろいろと並べられていた。
「片見月になってはいかんからな。今宵の月見のための用意をちょっと」
「ああ、今宵は後の月だね」
 この日は陰暦九月十三日。
 十三夜にあたる。
「でも、その道具類は?」
 床に置かれている品々は茶道具であった。
 本格的なものではないが、風炉、水指、棗などが並んでいる。
「十五夜のときは酒だったので、今宵は茶などどうかと思いまして」
 夫の気配りに、珊瑚は小さく微笑んだ。
「今回も月見酒でもよかったのに。いくらでも酌をするよ」
「それは嬉しいが、名月でなくとも普段から月見酒はしょっちゅうしているでしょう? ちょうど、破魔札を納めに行った寺に道具類があったので、お借りしてきました」
 濡れ縁に、団子を載せた三方と、栗や豆を盛った盆を据え、妻を顧みた弥勒は魅惑的に微笑した。
「じゃあ、表の荷車はそれを運んだんだ? まさか、一人で?」
「もちろん、馬に曳かせましたよ」
「馬なんていなかったけど」
「馬は馬小屋のある家に預けてあります」
 弥勒は立ち上がり、珊瑚のそばへ寄った。
「では、夕餉の支度に取りかかりましょうか」
「法師さま、手伝ってくれるの?」
「手が空きましたから」
 昔の彼しか知らない者ならば驚くような愛妻家ぶりが嬉しく、ときにはくすぐったい。
 満たされる想いに珊瑚はほんのりと笑みを浮かべた。

 夕餉を終え、縁から空を見ると、もう月が昇っていた。
 すでに風炉には炭が熾され、釜がかかっている。
 明かりを灯した燈台を二つ配置し、珊瑚を座らせると、弥勒は静かに茶を点て始めた。その流れるような手さばきを、珊瑚はじっと見つめる。
「明日、犬夜叉や楓さまにも振る舞いましょう。だが、今宵は夫婦水入らずで」
 視線を落としたまま言う、弥勒の端整な横顔から目が離せなかった。
 明るい月明かりのもと、優雅に茶を点てる彼の姿が凛として美しく、珊瑚はそっと息を呑む。
 出逢ってからともに旅をし、闘い、そして望みが叶って夫婦になったけれど、まだまだ自分の知らない法師がいるのだと思うと、珍しく、興味深かった。
「なに見惚れているんです?」
 笑いを含んだ声に、ふと我に返った。
「惚れなおしましたか?」
「……そう言わせたいの?」
 あたしの心情なんか、手に取るように解っているくせに──
 否定も肯定もせず、彼に片想いしていた頃を思い出し、珊瑚は少し懐かしげに顔をうつむかせた。
 弥勒は二人分の茶を点て、茶碗のひとつを珊瑚の前に置く。
「はい、どうぞ」
「あたし、作法なんて知らないけど」
「私も見様見真似です。茶席じゃありませんから、普通に飲んでください」
「じゃあ、月を観ながら……」
 二人は室内から縁先へ座を移した。
 並んで座り、茹で栗を一緒に食べ、一緒に濃茶を飲んだ。
「美味しい」
 茶をひとくち含み、珊瑚は吐息を洩らした。
「あたし、こういうの初めて。なんか新鮮」
「それはよかった。苦労して道具を運んだ甲斐があったというものです」
 再び茶碗に口をつける珊瑚を、弥勒は満足そうな笑みを浮かべて見守った。

 十三日目の月は、冴え冴えと光を放っていた。
 辺り一面、月光に濡れ、朧に輝いているようだ。
 見慣れた庭が仄白く染まり、静けさが、まるで別世界を覗いているような感覚に捕らわれる。
 ふと、珊瑚が弥勒を振り返って言った。
「知ってる、法師さま? 月には兎がいるんだよ?」
 悪戯っぽく、くすりと笑うと、対する弥勒は真面目くさって言葉を返した。
「いいえ、月には美しい姫がいるんですよ」
 珊瑚は微かに顔を曇らせ、彼から視線を逸らす。
「こんなときでも、女の話するの?」
「まあ、聞きなさい。その美女は求婚者たちをことごとく振り、月へ昇った月天の人なんです」
「あ、その物語なら知ってる。なよ竹のかぐや姫でしょ?」
 架空の人物であることにほっとして、珊瑚は表情を和らげた。
「あれに、帝が姫からもらった不死の薬を焼く場面があるでしょう? 私が帝で、珊瑚がかぐや姫だったら、私は不死の薬を飲んで、いつまでもおまえが地上に戻ってくるのを待っていただろうと思う」
「かぐや姫は人の心を失って天人になったのに?」
「私がおまえを想う心は消えていません」
 珊瑚は考えるふうに瞳を伏せた。
「あたしがかぐや姫で、法師さまが帝だったら、あたしは絶対月へは帰らない。迎えに来た天人なんか、力ずくで追い払ってやる」
「おまえならやりかねんな」
 弥勒は小さく笑った。
「では、帰る場所が月ではなく、退治屋の里だったら?」
 静かに問う弥勒の視線を、珊瑚はふと見返した。
「あたしは法師さまを選ぶ。どちらも捨てがたくても、選ばなくて後悔するのは、きっと法師さまのほうだから」
 それに答えるように、法師が珊瑚の手を握った。
 二人は視線を十三夜の月に戻す。
 月が美しいのは、最愛の人がそばにいるからだ。
「不思議だね」
 月を見つめ、夢見るように珊瑚が言う。
「遠くにあるんだろうけど、とても近くに感じる」
 繋いだ手をきゅっと握る。
「出逢った頃の法師さまみたいだ。あの頃、近くにいても、法師さまの心はものすごく遠い場所にあるような気がしてた」
「今は?」
「今は、心の距離もこんなに近い」
 そっと身を寄せてきた妻の肩を抱いた弥勒の手が、そのまますぐに珊瑚の頬に触れた。
「おまえ、肩が冷たいな。身体を冷やしたんじゃありませんか」
「法師さまの手は温かいね。でも、大丈夫だよ」
 それでも法師は心配げに、珊瑚をかばうように立ち上がった。
「そろそろ室内に入りましょう。もう一服いかがです?」
「うん、ありがとう。今度、あたしにも点て方教えて?」
「いいですよ。明日にでも教えてあげましょう」
 茶碗を持ち、愛しむように見つめあって、二人は部屋の中へ入った。
 縁側の障子が閉められた。

 月は物語など知らない。
 ただ、澄み渡る月光が、幸せの棲む家を包み込むように、清雅な輝きを放っていた。

〔了〕

2009.10.30.
加筆訂正 2010.10.20.