花の名前

 あれは珊瑚ではないだろうか。
 野の斜面に座り込み、顔をうつむかせている後ろ姿。
 弥勒は足音を忍ばせて彼女に近づいた。
「何してるんですか?」
 弥勒の言葉が終わらないうちに、珊瑚は何かをさっと懐に隠した。
 振り向いた珊瑚の眼と身をかがめた弥勒の眼が合う。――刹那、小さい火花が散ったように感じたのは気のせいだろうか。
 弥勒はそのまま珊瑚の隣に腰を下ろした。
「何を隠しました?」
「何でもない」
「見せてください」
「……嫌」
 珊瑚は用心深く衿元を押さえて法師から眼をそらした。
 だが、弥勒の気配にとがめるような色を汲み取ったのか、言いわけをするように言葉を続けた。
「別にあたしだけの秘密があったっていいじゃないか。なんでもかんでも法師さまに見せなくちゃならないことはないと思う」
 法師に対してはおおむね従順な珊瑚がそんなことを言うので、弥勒は軽く眉をひそめた。
「まさか、男から貢がれた物ではないでしょうな?」
 弥勒の指先が珊瑚の頬から顎にかけての線を嬲るようになぞり、びくりとした彼女はぱしっとその手を払いのけた。
「どういう発想してんの! それとも何? 法師さまはいつも女に貢いでもらってるの?」
「秘密という言い方が気に入りません。私には見せられないものですか?」
「法師さまには関係ない」
「ほう?」
 法師の声が静かになったので、珊瑚は慌てて、
「女同士の秘密なの」
 と言い足した。
「本当に何でもない。かごめちゃんからもらったものだから安心して」
 珊瑚を疑うわけではないが、かごめからもらったものなら、何故自分に見せられないのかと法師は不審に思う。
「何をもらったんです?」
「花を押した綺麗な紙。でも、一枚しかないから法師さまにはあげない」
「別におまえのものを取ったりしません。見せてくれるくらい、いいでしょう?」
 彼女のご機嫌をとるように、甘さを潜ませた声で弥勒は言う。
 片や珊瑚は、力ずくで来られても対応できるよう、そんな法師からじりじりと距離を取った。
「法師さま、知ってる? そういうの、ぷらいばしーの侵害っていうんだよ?」
「かごめさまの国の言葉を使えばいいってもんじゃありません。通じる言葉で言い負かしてごらんなさい」
「個人の細かなことにまで干渉しては駄目なの。……たとえば、今日、法師さまがどこへ行ってたかとか、あたしは聞かないもん」
 そう言いつつ、珊瑚がそれを気にしているのは明らかで、弥勒は忍び笑いを洩らした。
「そんなやせ我慢をせずとも。私はやましいことなどありません。散歩していただけですよ。途中で誰に会ったか言いましょうか?」
 ここ、楓の村で、怪異は起こっていないかとの確認のため、村内をひとめぐりすることは彼の習慣になっている。
 限られた村の中のこと、村人たちとは顔馴染みだ。
「いい。聞かない」
「珊瑚」
 たしなめるような弥勒の声にも珊瑚は折れなかった。
 不意に立ち上がると、それ以上の追究から逃れるように、小鳥のようにその場を去った。
 彼女の態度はむきになっているようでもあり、警戒しているようでもあり――今さら何を警戒するのか、弥勒にはとんと合点がいかなかった。

 少し遅れて弥勒が楓の家へ戻ると、セーラー服姿の少女がいた。
 小屋の中でリュックの中身を整理している。
「かごめさま。戻っていらしてたんですな」
「あ、弥勒さま、ただいま」
 法師は土間から探るようにかごめの表情を窺った。
「今日、珊瑚に何か渡しました?」
 かごめは意味ありげににっこりと笑う。
「栞をね」
「枝折り……?」
「そう。押し花の栞。でも、珊瑚ちゃんが弥勒さまに隠してるなら、あたしはこれ以上言えないわ」
 くすくす笑う少女は珊瑚が“それ”を弥勒に見せないわけを承知しているようだ。
 だが、その理由をかごめから聞き出すことは無理だと判断し、法師は再び珊瑚の姿を捜した。

 珊瑚は洗濯物を干していた。
 洗ったさらしを木に渡した綱に掛けようと両手を伸ばしたとき、無防備になった胸元にいきなり後ろから手を差し込まれ、ぎょっとする。
「法師さま!」
 珊瑚の懐から簡単に栞を抜き取った弥勒は、じっとそれを見つめた。
「これが……枝折りですか?」
 珊瑚は興味深げに栞を見遣る法師の様子をそわそわと見守った。
「書物に挟んで使うんだって。どこまで読んだか判るように」
「なるほど」
「もういいだろ。返して」
 しかし、すぐには返さず、珊瑚の手をさけて弥勒は手にした栞を上にかかげた。
 花を押した紙。
 何故、彼女はそれだけのものを、あれほど自分に見せることを拒んだのか。
 頭ひとつ背の高い法師に手に持ったものを上にかかげられては、珊瑚に奪い返す術はない。
 弥勒の肩に手をかけて背伸びをするも、全く手が届かなかった。
「おや……? これは」
「……き、気づいた?」
 不思議そうな顔をしていた弥勒は、あることに気づき、はっとした。
 花の名前。
 淡い淡い薄緑色のそれは――
「山法師、ですな」
 珊瑚は観念したように吐息をついた。
 法師は腕を下ろし、彼女を見遣る。
「あたしが法師さまって呼ぶから。同じ名だね、って、かごめちゃんがこれを持ってきてくれたんだ。もっとも、かごめちゃんは山法師の意味を知らなかったけど」
 山法師とはつまり僧兵のことだ。
「戦う法師。だから、これ、あたしのお守りにしようと思って」
 弥勒が差し出した押し花の栞を受け取り、珊瑚はそれに視線を落とした。
 緑の葉をバックに、白に近い薄緑の四枚の花びらを配置した花が、ふたつ。
「花びらみたいに見えるけれど、これ、葉っぱなんでしょ?」
 山法師が茂る様を思い浮かべ、独り言のように珊瑚は言った。
「そう聞きますな」
「見る人を騙しちゃうところも法師さまみたいだね」
 弥勒は愛しそうに娘を見つめ、苦笑する。
「素直に褒め言葉は出てこないんですか?」
 珊瑚は恥ずかしげに彼から眼をそらした。
 本当は優雅だと思う。山法師も、法師さまも。
「だが、お守りなら私も数珠をあげたでしょう?」
「あれも大事にしてる。でも、これをお守り代わりに身につけてたら、いつも法師さまと一緒にいるような気分になれるかなって」
 仄かに頬を染めた娘を映した瞳を軽く見開き、弥勒は悪戯っぽく笑む。
「私自身がいつもそばにいるのに?」
 珊瑚は首を横に振った。
「法師さまはすぐいなくなる。目の前で女を口説く。気がついたら姿が消えてる。闘いの最中に躊躇いなく風穴を開く」
 言いながら、珊瑚は眉をひそめた。
 ――不安にさせないで。
 そんな花びらに込めた想いはあたしだけの秘密だったのに。
 弥勒は一歩珊瑚に近寄り、物憂げな面持ちで彼女の頬をそっと撫でた。
「おまえ、そんなに私のことを」
「あ、あたしがこんなの持ってたら、法師さまのことだから、絶対にからかう種にすると思って……」
 だから知られたくなかった。
 ちらと上目遣いで遠慮がちに、珊瑚が法師を見上げてくる。
 そんな珊瑚の視線をからめとり、そのまま流れるように唇を合わせようと弥勒は顔を近づけたが、

 ぱしっ!

(……“ぱし”?)
 唇が触れる寸前で、彼女の掌で口許を覆われてしまった。
「……何するんですか」
「意地悪された仕返し。そういつもいつも法師さまの思い通りになんかなってやらない」
 つんとして栞を懐にしまい込み、踵を返そうとした珊瑚の手を、弥勒の手が素早く掴んだ。
「私も、何かおまえを思わせるものがほしい」
「えっ?」
「肌身離さず持っていられるような」
 その言葉に珊瑚は驚いたようだったが、次いで、花が綻ぶようなやわらかな表情を浮かべた。
「じゃあ、あの」
 と躊躇いがちに彼女は法師を見上げる。
「この栞、半分に切って、片方を法師さまにあげる。ほら、ちょうど花が二つあるし、あたしとおそろいになるし」
 真にほしいものは珊瑚のその想い。
 弥勒は握っている娘の手をそっと引き寄せた。
「あ……」
 やわらかく抱きしめられ、珊瑚はうっとりと眼を閉じる。だが、次の瞬間には、臀部をいつもの感触が這い廻っていた。
「……法師さま」
 低い声でつぶやいた珊瑚は尻を撫でる弥勒の手をおもむろに掴み、
「雰囲気ぶち壊し」
「いや、おまえだって、さっき……」
 その手をつねりあげ、苦笑いする弥勒の身体を珊瑚は押しやった。
「珊瑚」
「あたし、まだ洗濯が途中だから」
「手伝いましょうか?」
「いい」
 照れ隠しのように強い口調で言い放ち、手早く残りの洗濯物を干してしまうと、珊瑚はだしぬけに振り返って栞を取り出し、法師に近づいて、それを彼の懐に入れた。
「あたしが戻ってくるまで待っててくれる?」
「仰せの通りにいたしますよ」
 鷹揚に微笑む法師の顔をじっと見つめていた珊瑚は、納得したのか、小さく微笑みを返し、洗濯物を入れていた盥を持って楓の家のほうへ駆けていった。
 そんな珊瑚を弥勒はまぶしげに見送っていたが、やがて、珊瑚が己に預けた栞を取り出し、それに視線を落とした。
 淡い色彩の山法師の花びら。
 珊瑚の想いが手の中にあった。

〔了〕

2010.2.14.