恋愛未満
月のない、闇の濃い晩だった。
犬夜叉たちの一行は、奈落を追う旅の途中、荒れた御堂の中でこの日の夜を過ごしていた。
夜も更けた頃、御堂の中で、犬夜叉は座った姿勢で鉄砕牙を抱き、かごめは寝袋にくるまり、七宝と雲母は寄り添い合って、それぞれが眠りについていた。
万が一の場合に備え、弥勒は外で寝ずの番をしている。
そんな中、なんとなく寝つけずにいた珊瑚は、そっと御堂を出た。
一人でいる弥勒のことが気になって、そんなふうに彼を想う自分を意識するのが嫌で、いっそ、彼の姿が目に入る場所にいようと思ったのだ。
御堂の前には火が焚かれ、その火の番をするように、法師は座っていた。
ふと珊瑚の気配に気づいた彼は、持っていた竹筒を彼女にかかげ、少し笑った。
「一緒にどうです? 身体が温まりますよ」
つまり中身は酒なのかと、珊瑚は呆れた表情になる。
「酒なんか呑んでたら、いざというとき、対応できないよ」
「ちゃんと呑まれない程度に呑んでますよ。ちょうど相手がほしいと思っていたところです。つきあってくれますか」
悪びれるふうもなく弥勒は言う。
珊瑚は両手を後ろ手に組んで、一歩、前へ出た。
「犬夜叉誘えば?」
「どうせ誘うなら、綺麗なおなごのほうがいいに決まってるでしょう?」
「あたしよりかごめちゃんのほうが、きっといい話し相手になるよ」
言ってから、焼きもちめいた言葉が恥ずかしくなって、珊瑚は視線を逸らせた。
「かごめさまは飲めないんですよ。国では、まだ酒を飲んではいけない年なんだそうです」
珊瑚ははっとした。
「……誘ったこと、あるんだ……」
「それほど驚くことではないでしょう。おまえが仲間になる前のことです」
弥勒は自然な動作で焚き火の中に枯れ枝を投げた。
「眠れないのなら、こちらに来て、火にあたりなさい。夜は冷えます」
「……」
珊瑚はゆっくり歩を進めると、弥勒の隣ではなく、彼の斜め後ろの木の根元に立ち、後ろ手のまま幹に寄りかかった。
露骨に警戒されているようで、弥勒は小さく苦笑する。
そのまま、しばらく夜気の中で互いの気配を感じていたが、
「──こんなふうにさ」
不意に珊瑚が、低い声で言葉を紡いだ。
「二人きりでいて、もし、あたしが法師さまに迫ったとしても、法師さまは何とも思わないんだろうね」
焚き火の炎を見つめたまま、弥勒は静かに答える。
「どうして、そう思うんです?」
「法師さまは、素直で明るくて可愛くて、ちょっとか弱いくらいが好みなんじゃない? あたしは当てはまらないよ」
「それは珊瑚の思い込みでしょう?」
法師はおもむろに立ち上がり、珊瑚のそばへと近寄った。珊瑚の鼓動がとくんと跳ねる。
「試してみたらどうです?」
「試すって……」
先程までとは異なる声の響き。
珊瑚はすぐ目の前にいる法師を見上げた。
「試しに迫ってみればいい。本当におまえの考えている通りなのか」
彼らしくもない挑発だ。
冗談だと、すぐにからかうような笑みを見せると思ったが、真顔のまま、彼は彼女を見つめている。
頬の熱さだけが上昇し、どうしてよいか判らない珊瑚は、おずおずと手を伸ばしかけたが、彼に触れようとした刹那、その手はぐいと彼の手の中に捕らえられてしまった。
「……法、師さま」
「おまえはおなご、それも魅力的なおなごなのだから、軽々しくそんなことをするな。男を軽くあしらおうとすると、痛い目を見るぞ」
「あんたが煽ったんじゃないか……!」
珊瑚の手首をきつく握ったまま、弥勒はもう片方の掌を彼女の背後の木の幹に押し当てた。
「私とて男だ。むしゃくしゃしているときにおまえのような娘が誘いをかけてきたら、黙って帰すようなことはせん。おまえを何とも思っていないと言うが、私だって、これでも精一杯──」
言葉につまり、困惑気味に視線を泳がせたが、弥勒はそのまま彼女に唇を近づけた。
「助平。生臭。女好き。最低」
震える声で彼をなじる彼女の瞳を間近に見つめ、法師は切なげに吐息を洩らした。
「結構つらいんですよ? この均衡を保ったままやっていくのは」
冗談とも本気ともつかない様子で洩らされたその言葉の意味が解らず、じっと珊瑚は彼を見つめた。
娘の黒珠の瞳に誘われるように、再び弥勒は唇を重ね合わせようと顔を寄せる。
「大きな声を出すよ。近くにみんながいる」
「声を出す前に口をふさぎます」
「……」
見たこともない法師の姿に珊瑚が身をすくませると、動けない珊瑚を嬲るように、彼は艶冶な笑みを浮かべて言った。
「逃げてもいいんですよ……?」
珊瑚は弥勒を睨めつける。
法師さまはずるい。逃げられるはずがない。
闇の中、焚き火の炎に照らされて、木の幹を背に立ちすくむ娘と、その動きを封じるように対峙する法師。
そんな体勢でしばらく探るように見つめ合っていたが、珊瑚が何か言おうと口を開きかけた瞬間、弥勒はそれを遮るように彼女の唇を唇でふさいだ。
焦がれていた娘の唇は途方もなく甘く、やわらかだった。
熱に浮かされたように夢中で求める行為は、密やかに、弥勒の心の内の語らぬ何かを代弁しているようでもあった。
珊瑚もまた、翻弄されつつ、彼の唇に甘い感情を植えつけられた気がした。
だから、自然に手が伸びた。
壊れものをいだくようにして珊瑚の唇を感じていた弥勒は、彼女の腕が己の背中に廻されたことに驚き、唐突に口づけをやめた。
この行為に特別な意味を持たせてはならない。
少なくとも、己にとって特別な意味があると珊瑚に悟らせてはならない。
「──互いに、戯れはこのくらいにしておきましょう」
茫然と珊瑚が弥勒を見上げた。
「男が一人でいるところに珊瑚が自分からやってくるなど珍しい。何か気が塞ぐことでもあって、それで私のそばに来たのか?」
「! ちが……」
珊瑚は信じられないというように大きく眼を見張った。
「少しは気が紛れましたか? もう少し、抱きしめていましょうか」
「ひどい……!」
思わず叫びそうになった珊瑚を、弥勒は力任せに抱きすくめた。
「大声を出すな。犬夜叉に気づかれるぞ」
口づけの意味を否定されて、涙をこらえ、珊瑚は弥勒の腕から逃れようと身をよじる。
だが、逆に力が抜けてくずおれそうになって、弥勒に抱きかかえられて焚き火のそばへと運ばれた。
「これを飲みなさい」
酒の入った竹筒を渡される。
「いい」
彼から顔を背けようとする彼女の口許に、弥勒は強引に飲み口をあてがった。
「いいから飲みなさい。ひと口でいい」
珊瑚は竹筒を持って、少しずつ液体を喉へ流し込んだ。
こんなふうに呑んでも美味しくなんかない。
こんなことなら、最初から酒にだけつきあえばよかった。
珊瑚の瞳が潤んできたのを見て、弥勒は彼女から竹筒を取り上げた。
「そのくらいにしておきなさい」
「……」
まだ酔ってなんかいない。
酔わせてもくれないのかと、珊瑚はきゅっと唇を噛んだ。
少しは弥勒に近づけたかと思ったのに、実際には彼との距離は遠いままで、思考がうまくまとまらず、ちょっとでも動いたら泣き出してしまいそうだった。
もう戯れでも何でもいい。ただ彼が抱きしめていてくれるのなら。
「法師さま、まだ気が晴れないの。だから……」
強張った声と身体。
弥勒はえぐられるように胸が痛んだ。
好きだと、ひと言告げれば、珊瑚はこちらを向いて、はにかんだ笑みを見せるだろう。だが、幸せにしてやれる確証がない今は、真実の想いを告げることが怖くてたまらない。
「犬夜叉が交替しに来るまであと少しある。それまでなら、珊瑚……」
何を言っているのだろう。
想いに耐えきれなくて、二度も己の意に反した行動に出るなど、自分が信じられなかった。その代償に、最も傷つけたくない愛しい娘を傷つけているというのに。
弥勒は珊瑚を抱きしめる。
こんなに近くにいるのに、こうして抱きしめているのに、心はばらばらだった。
──愛している。
表情を見られないように、弥勒は珊瑚を全身で抱き込む。
珊瑚は無言でじっと彼に身を委ねていたが、もう彼の背に手を廻そうとはしなかった。
そのことが、弥勒の胸に棘のように深く刺さった。
〔了〕
2012.3.5.