法師さまのいない夜がこんなに長いなんて。
闘いに追われていた日々、つらく、苦しかった日々も、法師さまがそばにいるというだけで、それだけであたしは支えられていたんだ。
想夫恋 − さうふれん −
夜具の中で何度寝返りを打ったことだろう。
しんと静まり返った夜の闇の中、眼を開けて、珊瑚は、ほ、と小さく吐息を洩らす。
愛しいかの人と祝言をあげてひと月余り。
ひとり寝がこんなに淋しいなんて知らなかった。
毎夜、肌を合わせずとも、そばにいるだけで満たされるのに。
思えば、弥勒と出逢ってこのかた、こんなに何日も離れて過ごすことなど初めてかもしれない。
(でも、留守を守るのも妻の務めだし……)
昔、世話になったという遠方の寺におもむく用ができたとき、心配げな様子を見せた弥勒に気丈に振る舞ってみせたものの、彼の数日の不在が己にこれほどの空虚感をもたらすとは考えていなかったのだ。
昼間は家事や、妖怪退治の依頼などをこなし、気が紛れているが、夜、一人になると、法師への恋しさが一気に募る。
(夜離れって、こういう気持ちをいうのかな)
思うでもなく思い、縁起でもないと珊瑚は眉をひそめた。
そして、突然はっとする。
(まさか法師さま、家を空けたことをいいことに、どこかで浮気してるんじゃ……)
妻帯者となっても、未だ弥勒への恋慕を残したままでいる娘たちが数多くいることを珊瑚は知っていた。
弥勒のほうは、そうした娘たちに変わらず愛想よく接しているけれど、珊瑚を娶ってからは、誤解を招くような言動がぴたりと収まったことも珊瑚は知っている。
だからこそ、独り身の頃の彼の女癖がどうであれ、今の彼を信じなければと思うのだ。
けれど、理屈ではなく、今、ここに弥勒がいないことが淋しい――
枕の上で珊瑚はふるふると首を振った。
褥にこぼれた長い黒髪が艶かしく揺れる。
珊瑚は障子のほうへ身体を向けると、衾を握りしめ、おぼろげな月明かりを見つめた。
今宵もよく眠れそうにない。
ただ、障子越しの淡い光が徐々に白さを増し、早く黎明の光に変わることを願うのだった。
そんなふうにうとうとと過ごしていると、まだ夜も明けきらぬ頃、台所のほうで人の気配を感じ、珊瑚はふっと眼を覚ました。
ぼんやりした頭で身を起こし、気配のしたほうへと顔を向けた。
(誰だろう、こんなに早く。まだ夜明け前だというのに)
犬夜叉や七宝のはずがない。
琥珀も、昨日から雲母とともに退治屋の里へ里帰りしてこの村にはいない。
(やだ、泥棒?)
ならば撃退しなければと、肌小袖姿で寝ていた珊瑚は音もなく起き上がり、その上に常の小袖をまとって手早く身支度を整えた。
そして足音を忍ばせて台所の土間を覗き――息を呑んだ。
そこに、朝餉の支度をする法師の姿があったからだ。
「え――?」
いっぺんに目が覚めてしまった。
「法師、さま……?」
竈に向かっていた弥勒は珊瑚の気配に気づいていたようで、鷹揚に振り返るとにっこりと笑顔を見せた。
「おはよう、珊瑚」
「お、おはよう」
「お帰りとは言ってくれんのか?」
「……お、お帰りなさい」
それでも呆然と突っ立ったままの珊瑚に微苦笑を洩らし、弥勒は台所仕事で濡れた手を手拭いでぬぐうと、ゆっくりと妻のもとに歩み寄った。
「何を狐につままれたような顔をしてるんです。夫の顔を忘れたのか?」
「だって……法師さま、予定では帰宅はもう数日あとになるって」
「一刻も早く帰りたかったので、途中、ハチを呼び出したんです。そうすれば、移動がだいぶ楽だからな」
言いながら、彼が珊瑚の頬に手を伸ばしたので、ようやく表情を緩めた珊瑚も、裸足のまま、板の間から土間に下りて、法師を見上げた。
「お帰りなさい、法師さま」
「ただいま、珊瑚」
弥勒は妻の両肩に手を置き、彼女の額に軽く口づけた。
「しかし、起こしてしまって悪かったな。思ったより早く家に着いたので、おまえを起こさぬよう、朝餉の支度をしながら夜明けを待つつもりだったのだが」
「ううん。どうせ、ほとんど眠れなかったし」
言ってしまって、慌てて口を押さえたが遅かった。
弥勒の口許に、微かに人の悪い笑みが揺れている。
「ほう、眠れなかったと。それは私が恋しくてと解釈していいんですか?」
「それは……」
「それに、あまり長く家を空けて、美しい人妻が亭主の留守を一人で守っていると噂が立っても困りますからな」
なんのかのと言っても、彼はやはり自分が心配で早く帰ってきてくれたのだ。
そう思うと、嬉しさに心に火が灯ったようで、珊瑚は仄かに頬を染めた。
「もし、おまえ一人のところをならず者に踏み込まれでもしたら――」
「やだ、法師さま。そんなこと。あたしだったらだいじょう……」
「ならず者たちがひどい目に遭わされるのも気の毒ですから」
茶化す夫を珊瑚が軽く睨むと、彼は彼女を愛しげに見つめ、くすりと笑った。
「まあ、そんなことになったら、たとえおまえが無事でも、私がそいつらを生かしてはおかんがな」
「法師さまったら、仏様に仕える身で、またそんなこと」
冗談なのか本気なのか測りかねる弥勒の口調に珊瑚は困ったような笑みを浮かべる。
予定より早く帰ってきてくれたことは嬉しいに違いないのだが、こんなふうにからかわれると、どうも素直に嬉しいとは言いにくい。
だが、弥勒には彼女の心情などお見通しのようだった。
「夜明け前に帰宅したのには、もうひとつわけがあるんです」
「わけ?」
「こちらへ」
珊瑚に草履を履かせると、弥勒は、彼女の手を引いて井戸端まで連れていった。
「あ……」
水を張った桶に、蕾のままの蓮が一本、さしてあった。
「今年初めての蓮の花です。帰る途中、見つけましてね」
「法師さまが取ってきたの?」
まだ瑞々しい白い蓮の蕾を水から引き上げて、それを弥勒は珊瑚に手渡した。
「ええ。あまりに見事な蓮の池だったので、おまえにも見せたくて。とりあえず一本、失敬してきました」
朝餉を終えたら一緒に観に行きませんか、との弥勒の誘いに、珊瑚はまぶしげにうなずいた。
薄暗かった世界に静かに黎明の光が射してくる。
「この蕾が開くところを、おまえと見たいと思いまして」
眠っている蕾が花開く頃に家に帰りつきたく、このような時刻になってしまったと弥勒は言った。
珊瑚が目覚めたとき、この蓮の開花を見せたかったのだと。
「法師さま……」
「眼に映るもの、肌で感じるもの、全てをおまえと共有したい。おまえとはそういう夫婦でいたい」
弥勒の言葉に、珊瑚はじわりと嬉しい驚きを覚えた。
己も同じことを思っていたから。
「……嬉しい。ありがとう、法師さま」
朝日を浴びて、珊瑚の持つ蓮の蕾が、小さく花びらを震わせた。
開花のその瞬間を、最愛の人とともにじっと見守る。
静かに、静かに、朝が、光とともにその訪れを告げる。
ゆっくりと花ひらく白い蓮の蕾は、まるで恥じらう娘のように、仄かな桃色を帯びていた。
「綺麗」
「ああ、綺麗だ」
そう言った弥勒の視線が、ふっと花から珊瑚に逸れる。
辺りが次第に明るくなる。
朝の訪れとともに咲く美しい大輪の花。
ふと、弥勒の手が珊瑚の顎にかかった。
そのまま顔を彼のほうへ向けられ、瞳を上げると、法師が彼女をじっと見ていた。
真摯な黒い瞳に吸い込まれそうで、珊瑚は逆らわずに眼を閉じた。
どんな美しい花よりも、おまえに囚われる――
言葉にならない弥勒のつぶやきは、珊瑚にどう伝わったか判らないが、互いに同様の想いを抱いていることは疑うべくもない。
けれど、大好き、とつぶやいた珊瑚の唇の動きは、触れあっている唇を通じて正確に弥勒に伝わった。
光が満ちる。
そして、愛しい人との一日が始まる。
〔了〕
2009.6.5.