透明な時間
静けさの中、ただ墨をする音が、小さく響いていた。
白い手が硯の上で規則正しく動いている様を、法師はやわらかな眼差しで見つめている。
宿には二人きり。
仲間たちは外へ出かけているが、残りが乏しくなった破魔札を作るために宿に残った弥勒を、珊瑚は墨をすることで手伝っていた。
「こんな感じでいい?」
「ああ。ありがとう、珊瑚」
用意した紙に、弥勒はさらさらと筆を走らせる。
無言の作業だったが、二人で共同作業をすることで味わう一体感は、快いものだった。
書きあがった札は墨を乾かすために珊瑚が丁寧に部屋の隅に並べていく。乾いてから、弥勒がそれら一枚一枚に念を込める。
甲斐甲斐しく手伝ってくれる娘の姿が愛しくて、弥勒は微笑をこぼした。
「おまえも書くか?」
珊瑚は苦笑して首を横に振った。
「手習いは苦手なの。一応、仮名は書けるけど、難しい漢字は知らないし。法師さまはさすがというか、達筆だね」
「梵字など、誰が書いても達筆に見えますよ」
筆を置いて、弥勒は笑った。
「そうだ、“珊瑚”という字を教えてあげましょうか」
「“珊瑚”と“琥珀”は書けるんだよ?」
「では、あとで“弥勒”を教えてあげましょう」
気軽に言って、弥勒は大きく伸びをした。
「ひと休みする?」
「ああ」
ふと何かを思いついたように、珊瑚は膝で、弥勒のそばへにじり寄った。
「手、疲れただろ? 貸して?」
差し出された手に法師は素直に左手を預ける。
彼の手を両手で包むように持ち、珊瑚は掌全体を丹念に揉みほぐしていった。
最初は遠慮がちな指の動きだったが、徐々に緊張が解けてきたのか、ぐいぐいと親指で掌のつぼを圧していく。
「ほう。上手いものですな」
「でも、疲れてるのは右手のほうだよね。右手も指だけしようか?」
「いえ、危ないので左手だけお願いします」
珊瑚は握った弥勒の手に視線を落とし、弥勒は左手を指圧してくれる珊瑚の様子を微笑ましげに見つめ、しばらくそのまま沈黙が続いていたが、
「ふふ」
「なんです?」
「法師さまの手、握っちゃった」
なるほど、指圧は口実というわけか。
恥ずかしそうな珊瑚の表情と口調に悪戯心をかきたてられ、法師はにんまりと、娘に気づかれぬよう、口許を緩ませた。
「どうせなら――」
刹那、何が起こったのか、珊瑚は解らなかった。
法師の手を握っていたはずの手が反対に彼の手に掴まれ、引かれ、均衡を崩した珊瑚は背中から法師の腕の中に倒れ込んだ。
がっしりとした腕に抱きとめられ、瞳を上げると、視界いっぱいに弥勒の顔がある。
「えっ……」
彼女をすっぽりと腕の中に閉じ込めた彼は、ふっと笑い、唖然としている珊瑚の唇に触れそうな位置まで己の唇を寄せ、
「このくらいはしてもらいたいものですな」
とささやいた。
上から押さえ込むように抱き込まれ、初めて生身の彼を全身で感じ、珊瑚は激しい動揺と動悸に完全に足許を攫われてしまった。
呼吸さえ、まばたきさえ、躊躇われるほど近くに法師の顔がある。
「さあ、どうする?」
「……」
吐息が唇にかかる距離でささやかれ、珊瑚は定まらない表情で睫毛を震わせ、ただ怖じるように身をすくませていた。
瞳を伏せたくても伏せられない。
弥勒の腕に包み込まれ、呼吸することもはばかられた。
言葉もなく息をつめている珊瑚に、ようやく、彼女の脅えた様に気づいた弥勒は、はっとして身を起こし、彼女の身体も抱き起こした。
「珊瑚」
罪悪感がちくりと胸を刺す。
弥勒は微かに震えている細い指を握りしめ、放心したままの珊瑚をそっと抱きしめた。
「すまん、悪ふざけが過ぎた」
そして珊瑚から離れようとしたが、珊瑚の指先が力なく法師の衣を掴んだ。
「法師さま」
「悪かった。本当に、驚かせるつもりでは」
「……力、抜けちゃった」
珊瑚の反応に拒絶がないことに安堵して、弥勒はぐったりしている彼女の身体を背後から支えるように抱きしめた。
「少し、こうしていてもいいか?」
「びっくりした……法師さま、いきなり、あんな」
「言いわけになるが、そんなに怖がるとは思わなかったんだ」
「怖いわけじゃ――」
「怖かったんだろう?」
珊瑚は口をつぐんだ。
心臓がまだうるさく鳴っている。
(でも、法師さまだから)
嫌なはずがない。
ただ、あまりにも突然だったから。
「法師さまは悪くない。あたしが、耐性なくて、驚いただけだから」
「耐性って、おまえ」
くすっと弥勒が笑い、珊瑚は頬を赤らめた。
「珊瑚、おまえは可愛いな」
「また人を子供扱いして……」
眼を伏せる彼女は、互いの顔を見ないほうが言いやすいこともあるのだと感じた。
「落ち着くまでこうしていますから、気持ちが落ち着いたら、もう一度、手をお願いできますか」
「指圧?」
「ええ」
それきり、会話が途絶えてしまった。
刻がとまったように、じっと、珊瑚を後ろから抱きしめたまま動かない弥勒の腕の中で、わずかに身を強張らせた珊瑚は静寂に浸っていた。
“男”として振る舞われたことへの恐怖が徐々に和らいでいくのが判る。
近すぎる彼の気配ももう怖くない。
自分を抱く法師の左手に手をかけて、その腕をそっとほどき、彼女は彼の手を握った。
すぐに握り返されるのではないかと少し怖くもあったが、彼はされるままに己の手を珊瑚に預けていた。
珊瑚はゆっくりと彼の手を両手で包み、掌を親指で圧した。
上手く力が入らないけれど、今はそんなことはどうでもいい。
控えめに手を動かす珊瑚の髪に、幼子が母にすり寄るように、弥勒はそっと頬をよせた。
二人のいる部屋の襖の外で、複数の気配が足を止められていた。
「なんだよ、中に入らねえのか?」
「しっ。駄目よ、今、いい雰囲気なんだから」
襖を細目に開けて中を覗いていたかごめが、小声で犬夜叉に応じる。
「邪魔しちゃ悪いでしょ? もうちょっと外で時間つぶそうよ」
「弥勒と珊瑚は何をしておるんじゃ?」
「七宝ちゃんは見ちゃ駄目」
襖を閉めたかごめが犬夜叉の肩につかまった仔狐に意味ありげに微笑んだので、犬夜叉は赤くなって踵を返した。
「おら、さっさと行くぞ」
ぎくしゃくと宿の玄関へ向かう犬夜叉のあとに、雲母を抱いた楽しげなかごめが続いた。
かごめの位置からは、娘を抱きしめている法師の斜め後ろ姿しか見えなかったが、彼がどんな顔をしているのか、容易に想像することができた。
右腕を彼女の肢体に廻したまま、弥勒は眼を閉じてみる。
無言で彼の掌の指圧を続けている珊瑚のそれは、指圧というより愛撫だろうと、彼はくすぐったく思ったけれど、あえてそのようなことを口には出さない。
無心な珊瑚が愛おしい。
障子越しの陽の光がとても神聖なもののように感じられ、このまま、時間がとまればいいと、弥勒は思った。
〔了〕
2010.5.14.