月が人を狂わせる、なんて、誰が言ったのだろうか。
何も聴こえるものはない。
深い、潭い、水底の波に揺られながら、それは、今宵も天空から水中に射し込む白銀の光に静かに漂っていた。
月夜見幻想 − 蜃の見た夢 −
「珊瑚、ですか?」
土地の者に声をかけられた法師は、その単語に反応を示した。
「おひとつ、いかがです? お安くしときますぜ」
海に面した漁村であった。
犬夜叉たちと手分けして奈落に関する情報を集めていた弥勒と珊瑚は、この村の者に妖怪退治を依頼され、つい先刻、その仕事を終えたところである。
浜で、海を眺めながら珊瑚の着替えを待つ法師に、一人の男が声をかけたのだ。
先ほどの妖怪退治で法師の懐があたたかいと見て、目をつけたのだろう。
「この海で採れるんですよ。ほら、美しい色でしょう?」
「珊瑚は暖かい海で採れると聞きますが? まさかとは思いますが、盗品では?」
人当たりのいい笑顔でさらりと言ってのける法師に、漁夫らしい男はずるそうににやりと笑うと、言葉を濁した。
「この海の宝石は魔除けや邪眼除けのお守りにもなりますぜ」
法師はくすくすと笑う。
「確かに。珊瑚は妖怪や邪眼除けの効果がありますな」
「ほう、興味がおありで。では……百疋でどうですかい?」
「それはまた」
法師はやや大仰に眉を上げ、
「法外な値で」
「確か、綺麗な娘さんをお連れでしたな。あの娘さんに似合いそうだ」
「しかし、先ほどの妖怪退治を請け負ったのはあの娘ですからな。無駄遣いをすると、叱られます」
「法師さまなら……そう、金で五十疋までなら負けましょう。これが磨かれ、珊瑚珠として京で取り引きされれば、百貫二百貫の値打ちどころじゃありませんぜ?」
男の言葉を受け流し、法師はくすりと笑っただけだった。
「ご不満ですかい?」
「ええ、いえ。珊瑚なら、すでに最高級のものを持っておりますから」
つと法師の視線が男を素通りし、その背後へと注がれた。怪訝そうに、男も振り返る。
「お待たせ、法師さま」
着替えをすませた退治屋の娘が駆け寄ってくるところであった。
「何してんのさ。早く戻らないと、犬夜叉がうるさいよ?」
「ああ、いま行きます」
なおも食い下がろうとする男を軽く制し、弥勒は娘に微笑みかけたあと、
「さ、行きますよ、珊瑚?」
と、ことさら強調して娘の名を呼びかけながら、その手を取り、ゆったりとその場を離れた。そして、含みのある笑みを浮かべ、ちらりと漁夫を見遣るのだった。
「なに話してたの?」
「物売りですよ。先ほどの礼金を狙ってのことでしょう」
「ふうん。で、法師さま、何を売りつけられそうになったのさ?」
「あれはまがいものです。私からぼったくろうなど、百年早い」
すまし顔の法師の横顔にちらりと眼を向け、珊瑚は苦笑した。向こうからしてみれば、相手が悪かったとしか言いようがない。
「急ごう、法師さま。かごめちゃんたちと落ち合う場所まで、早く行かないと日が暮れちゃう」
「けれど珊瑚、妖怪退治の依頼が入ったと、雲母に文を持たせて使いにやったのだから、そう急ぐこともあるまい。宿を頼んだので、一泊していかんか?」
「え? で、でも……」
「忘れているんですか、今日は七夕ですよ? せっかくの二人きりなのだし、ともに星見をしたところで罰は当たらんでしょう」
それは、美しいものが好きだった。
月光と、緩やかな深海の碧い波と、海の宝石。──珊瑚。
それは、美しいものを想い、吐息をつく。
──いったいいつまで、待てばよい?
夜の帳が訪れると、法師と退治屋は浜に出た。
天上には数多の星々が君臨している。
月の光が皓々と下界に降りそそぎ、星の林もまた煌々ときらめく。
誰もいない、二人だけの世界。
月華に仄白く照らされた、そんな砂浜をゆっくりと歩きながら、二人は無言で牽牛星と織女星を探した。
「来てよかっただろう? ここまで鮮麗に天の河が見えるのは珍しい」
「そうだね、本当に綺麗。年に一度の星合いの夜だもの。雨が降ったら、可哀想だ」
「日頃の行いがよかったんでしょう」
「牽牛のね」
即座に返される想い人からの皮肉の言葉に、弥勒は苦笑をこぼす。
やれやれと傍らの娘へと眼を向けたが、星河を仰ぐ珊瑚の仄白い横顔は、けぶるような笑みを含んでいて、はっとするほど美しかった。
得体の知れない何かに魅入られ、どこかへ連れ去られてしまいそうに……
「珊瑚」
思わず法師は手を伸ばし、娘の存在を確かめようと、一歩、足を踏み出した。
刹那、計ったように珊瑚が法師を顧みた。
「……どうした?」
己の漠然とした不安を悟られたのではないかと、わずかに身を硬くする。
だが、珊瑚の表情には、どこか夢を見ているような印象ばかりが目立っていた。
「何かに呼ばれた気がする」
弥勒は辺りを見廻し、注意深く周囲の気配を探ってみたが、特に妖気も邪気も感じられなかった。
無論、人影もない。
「法師さまには聞こえなかった?」
「いや──」
辺りは森閑としている。波の音しか聞こえない。
弥勒は、おもむろに月を見上げ、
「月人男に呼ばれたのかもしれんな」
「月人男?」
「月を人間に見立てた言葉ですよ。三貴子の一人、月読命とも取れますな」
珊瑚を顧みて、微笑む。
「萬葉集の中に、確かこんな歌があった」
天の原 行きて射てむと白真弓 引きて隠れる月人をとこ
「つまり、月人男が、棚機津女と牽牛の逢瀬に嫉妬して、矢を射掛けようと檀の弓の弦を引き絞って隠れている、ということです」
語りながら、弥勒は、きらめく星河を支配するように白く輝く月を仰ぐ。
つられるように珊瑚も、弓張月とはいかないまでも、それに近い形をした輝きを振り仰いだ。
やはり月の雫を浴びる珊瑚は、夢幻的なまでに美しく、弥勒はわけもなく胸が苦しくなる。触れていないと消えてしまいそうな、そんな儚さにさえ似て。
そのような想いを振り払うかのように、弥勒はそっと珊瑚の手を取り、その身を引き寄せた。
「さて。月読命にもっと見せつけてさしあげましょう」
「ば……馬鹿……」
片方の手を彼女の肩に置き、その顔を覗き込むように身をかがめると、珊瑚は恥ずかしげに顔を赤らめてうつむいた。
月光のせいで、抜けるような白さを持つ肌が、いつもより幾分蒼白く見える。
その顔に法師が唇を寄せようとしたとき、不意に顔を上げた珊瑚は、法師の束縛から逃れ、ふらりと海へ引き寄せられるように、歩を進めた。
「どうした?」
「何かの意識と同調してる……」
それは月の壮子ではなく──
「妖、か?」
「判らない……ううん。違う、そんなんじゃないよ」
でも、聞こえる。
呼んでいる。
「禍々しさは感じられない。人に害をなす存在じゃないと思う。でも──」
また数歩、波打ち際へ進もうとする珊瑚の歩みは、法師に腕を掴まれ、阻止された。
「行くな」
「え……?」
あたしは、どこかへ行こうとしていた──?
彼女に海へ向かおうとしていた自覚はないようだった。
愁眉を寄せた弥勒は、珊瑚に、袂から取り出した二輪の花を差し出した。
藤袴、一輪。桔梗、一輪。
それは七夕に供える七種の花のうちの二種で、藤袴の強い芳香と桔梗の青色が邪気を祓い、恋を成就させるという呪術性をも持つ花だった。
「おまえが月読に攫われてしまわぬように……」
珊瑚はそこまでの意味を知らなかったが、微かに頬を染め、うつむいたまま、そっと受け取る。
「ありがと」
二輪の花をそっと口許に寄せると、甘い匂いが鼻腔をかすめる。邪気祓いの花の香りが法師その人を想起させ、珊瑚は恥ずかしげに微笑んだ。
はにかむ珊瑚の様子を見て、ようやく彼女の意識を自分に繋ぎとめたらしいことに安堵した弥勒は、慎重に手を伸ばし、今度こそ彼女を捉えることに成功した。
大事そうに花を握りしめる娘を愛しげに見つめ、そっとその肩を抱くのだった。
そして月に眼を戻すと、潮騒に耳を傾け、遠い海の底に想いを馳せた。
月は、好きだ。
月は己にやすらぎをくれる。眠らせてくれる。それから。
──美しい夢を見せる。
たとえば、寄り添って浜辺を歩く、法衣姿の涼やかな青年と小袖姿の美しい娘。
月が、好きだ。
月光が深い、潭い、この水底まで届いている今宵、天上では、さぞ、月娥が玲瓏たる輝きを放っていることだろう。
いつもは仄暗い闇しか見えないこの海の底にも、月彩の恩恵を受けた夜のみは、目醒めたままでも、美しいゆめを見ることができる。
それは眼を開け、己の周囲の美しいものを見廻した。
月の雫が海に棲む貝に宿り、宝玉になるという真珠。その群れ。
海の植物が空気に触れ、宝石になったという珊瑚。その林。
己はいつになったら、それらの仲間になれるだろうか?
揺れる水面の向こうから、やさしく海中を照らす月は、遠く遠く揺らいで見えた。
そして、それはそっと眼を閉じた。
今宵、見たのは、そんなゆめ──
──蜃は、今日も夢を見る。
〔了〕
2007.5.29.