空蝉

 定まらない心のまま、骨喰いの井戸のところまで来ていた。
「珊瑚」
 名を呼ばれ、顔を上げた珊瑚は、そこではじめて先客の存在に気づく。
「犬夜叉……」
 困ったような表情の珊瑚を見て、犬夜叉は赤い水干の袂を翻してその場を立ち去りかけたが、すれ違いざま、ふと足をとめた。
「いつまで、弥勒を待たせる気だ?」
「……」
 珊瑚はうつむく。
「あれからもうひと月半だぜ? せっかく風穴が消えたっていうのに、今になっておまえがそんなじゃ、弥勒が可哀想だ」
 それだけ言って、犬夜叉は楓の家のほうへ歩いていった。
 一人、残された珊瑚はのろのろと井戸の縁に手をつく。
 犬夜叉は何も言わない。
 珊瑚にも、仲間たちにも普通に接している。
 けれど、かごめがいなくなった事実は、彼にとってどれほどの喪失感をもたらしていることか。
 それを思うと、珊瑚は、自分だけが愛する人との幸せを享受するなど考えられずにいた。
「かごめちゃん。今、どうしてる……?」
 法師は、いま、村にはいない。
 ここ数日ほど、用があるといって遠くの町へ出かけていた。
「法師さま……」
 彼は何も言わないけれど、祝言を延ばし延ばしにしていたのでは、いつか、弥勒に愛想をつかされてしまうだろう。
 村は落ち着きを取り戻し、弥勒は楓の村に自分と珊瑚の住まう家を建てさせた。夢心の寺へ帰らなかったのは、犬夜叉や七宝を思ってのことだろう。
 あとは己の気持ちだけ。
 不意に聞き慣れた金属音が耳に入り、珊瑚ははっと顔を上げた。
「法師さま」
 振り向いたそこには、最愛の青年が、静かにたたずんでいた。
「いつからいたの?」
「今さっき、そこで犬夜叉とすれ違いました。珊瑚を放って何をしてると怒られましたよ」
「……そう」
 うつむく珊瑚の表情がわずかに曇ったのを見て、弥勒は錫杖を鳴らし、彼女に近づいた。
 手を取り、その場に並んで腰を下ろす。
「珊瑚。私はおまえの気持ちが固まるまで待つつもりだ。しかし、決して傲慢にはなるな」
「傲慢――?」
 思いもかけなかった言葉に珊瑚は眼を上げ、瞳の表情で法師に問う。
「おまえが何を思って私との祝言を躊躇うのかはよく解っているつもりだ。だが、そんなおまえの判断をかごめさまは喜ぶだろうか」
 淡々とした法師の言葉に珊瑚はじっと耳を傾けた。
「むしろ、おまえの幸せを願っているはず。犬夜叉もそれを知っている。もし、おまえとかごめさまの立場が逆であっても、おまえはかごめさまと犬夜叉が結ばれることを願うだろう」
「法師さま」
「おまえがおまえ自身の気持ちで私と夫婦になるのが嫌だというなら仕方ない。しかし、犬夜叉の心の問題を気にして祝言をやめるというなら、それはおまえの傲慢だ」
「……」
 弥勒から視線をそらせて珊瑚は緩やかに首を振った。
「だって……あたしは、法師さまも琥珀もそばにいるのに。犬夜叉は桔梗を喪って、かごめちゃんとも離れ離れなんて――
「七宝もいる。我々もいる。犬夜叉を一人にはしない」
 うん、と小さくうなずいた珊瑚の瞳から清らかな雫がこぼれた。
「ごめん、法師さま。あたし……こんなんじゃ、犬夜叉にもかごめちゃんにも失礼だよね。ただ、かごめちゃんには、法師さまと夫婦になれる日が来たんだよって伝えたかったな」
「伝えずとも、そうなると、きっとかごめさまはご存じでしょう」
 立ち上がった弥勒に手を引かれ、濡れた瞳でふっと笑んだ珊瑚も腰を上げた。
「珊瑚。おまえのために綾絹の着物を用意した。祝言をあげる決心がついたなら、それを受け取ってほしい」
 珊瑚はわずかに眼を見開いた。
 彼の想いが、やさしさが、痛いほど心に沁み入る。
 彼女の迷いを取りのぞき、いつもさり気なく前へと導いてくれる最愛の人。
 この人とならば、自分はどこまでも歩んでいける。
――はい」
 おもてを赤らめ、しっかりとうなずいた珊瑚は、承諾の意を示した。

 三日後の夕刻、弥勒が自らと珊瑚のために建てた家に、彼らとともに闘ってきた面々がつどった。
 犬夜叉。
 七宝。
 雲母。
 楓。
 そして、琥珀。
 ようやく叶った二人の祝言。
 ささやかな祝いの席にはいつもより品数の多い夕餉と酒が用意され、その仕度は楓と琥珀が中心になって行われた。
 そろそろ酉の刻になるかという頃、燈台に火が灯された。
 夕餉の膳を前に一同が座り、この家の主である弥勒が上座につく。
 いつもの法衣姿であるが、それは、闘いが終わったのち、珊瑚が心を込めて縫った真新しい袈裟と緇衣だった。
 そして、最後に引き戸がかたんと開いた。
「姉上……」
 場の空気が静謐に改まる。
 楓に手を取られ、純白の衣裳に身を包んだ珊瑚が静かに姿を現した。
 彼女がまとうのは、弥勒がわざわざ町であつらえてきた美しい白綾の小袖、そして頭には同じく白絹の被衣をかづいでいる。
 薄化粧を施し、唇に紅を引いたその姿は、凛としていながら、同時に、いつもの男勝りな珊瑚からは想像できないほどのあえかな雰囲気をも漂わせていた。
 まるで野山に咲く清婉な白百合のような――どんな高貴な美姫も敵わないのではと思わせるほどの気高さであり、美しさであった。
 ほうっと誰かがため息を洩らした。
「珊瑚、綺麗じゃ」
 七宝のつぶやきでみなが我に返る。
 弥勒の隣に座した珊瑚は、じっと視線を送ってくる法師の瞳をそっと見返した。
「やっぱり、贅沢だね。こんな衣裳をあつらえるなんて」
「私がそうしたいと思ったのだ。よく似合っている。本当に美しいですよ、珊瑚」
 頬を染め、口許に小さな微笑を乗せて珊瑚はうつむいた。
 そして、用意された盃を手に取った。
「法師どの、珊瑚。おめでとう。実に美しい嫁御だ」
 銚子を手にした楓が祝いを述べ、珊瑚の盃に酒を注ぐ。
 これを飲み、次に弥勒が同じ酒を飲めば、自分は彼の妻として認められるのだ。
 胸の高鳴りを抑え、珊瑚は慎ましやかに盃の酒を口に含んだ。
「さ、法師どの」
 珊瑚のあとに弥勒が盃を取り、楓が注いだ酒を飲む。
 今、固めの盃を交わした。
 これで自分たちは夫婦となったのだ。
 この瞬間を、どんなに待ち焦がれたことだろう。
 胸に熱いものが込み上げ、珊瑚はじわりと涙が滲みそうになるのを必死でこらえた。
「姉上」
 酌を終えた楓が自分の席に戻ると、嫁ぐ姉に琥珀が言葉をかけた。
「おめでとう、姉上。幸せになってください」
「ありがとう、琥珀」
 涙声で珊瑚が応じる。
「さあ。犬夜叉も七宝も待たせたな。固めの盃はすんだ。あとは遠慮なく飲み食いしてくれ」
 いつもと同じ笑顔で、だが、わずかに照れたような様子を含ませて言う弥勒を、珊瑚はどこか面映ゆい心地で見つめた。
「おれたちは食いもん目当てで来ているみたいに言うな。ま、おめでとうと言っておくぜ」
「弥勒と珊瑚が夫婦になるのはおらも嬉しい」
 さっそく膳に手をつけた七宝が末席から声を上げた。
「おらからもおめでとうじゃ!」
 琥珀の横にいる雲母も二人を祝福するように、眼を細めて愛らしく鳴く。
 微笑む珊瑚の眦に光る涙に気づいた弥勒がそれを指先でそっと拭った。
 夫となった青年と、妻となった娘と、眼と眼を見交わす。
 それだけで満ち足りた気持ちになる。
 あたたかい仲間たちに祝われて、これ以上の幸せはないと思った。
 そうして、祝言の夜は緩やかに更けていくのであった。

 一刻半ほどささやかな宴で二人を祝ったのち、犬夜叉たちは楓の家への帰路についた。
 宴の後片付けは気を利かせた楓と琥珀、そして七宝が珊瑚の代わりにやってくれた。
「琥珀、おまえも楓さまの家へ行くの?」
 犬夜叉たちと一緒に行こうとする弟を、見送りに出た珊瑚は思わず引きとめた。
 楓のところよりこちらの家のほうが広い。
 事実、昨日まで、琥珀も弥勒や珊瑚とこの家で寝泊まりしていたのだ。
「姉上は今日から法師さまの妻だから」
 雲母を肩に乗せた琥珀は少し恥ずかしそうに口ごもる。
「つまり、琥珀は珊瑚たちの邪魔をしたくないんじゃ」
 足許から七宝が琥珀の言葉を継いで言ったので、珊瑚は思わず頬を赤らめた。
「二人っきりにしてやろうと気を遣っておるのじゃから、珊瑚は気にするな。琥珀のことはおらと楓おばばに任せておけ」
「おれ、七宝に任されるのか」
 大人びた仔狐の物言いに琥珀は苦笑する。
「まあ、そういうことだから。姉上」
「琥珀」
 穏やかに弥勒が義弟となった少年の名を呼んだ。
「ここはおまえの家でもある。気兼ねは無用だぞ」
「はい。でもおれは」
 それだけ言って、琥珀はちょっと微笑んだ。
「法師さま。どうか姉上をよろしくお願いします」
 琥珀は法師に丁寧に頭を下げると、にこっと笑い、少し先で立ち止まって待っている犬夜叉と楓のほうへ駆け寄った。
 そのあとを七宝が続いて駆けていく。
 弥勒と珊瑚は、彼らの姿が見えなくなるまで表に立って見送っていたが、やがて、法師が妻となった娘の肩を抱き寄せた。
「これからもよろしくな、珊瑚」
「あ、あたしのほうこそ」
 星が瞬き、すっかり暗くなった空の下、互いがここに存在していることがこの上ない幸福だった。
 夜風が珊瑚の髪をなぶる。
 被衣を取った艶やかなその髪を、風穴のない法師の右手が愛しげに撫でた。

 最愛の人がそばにいる。
 明日からは、生まれ変わった生を生きる。

 ずっとずっと。
 君と、ともに――

〔了〕

2009.3.5.

「空蝉」=現身(うつしみ)。この世に生きている人。