密やかに君を想う
01:例えば君がいなくなったら
ひやりとした。
山越えの途中、一行を襲った妖怪の群れは、蝙蝠に似た翼を持った妖怪で、その翼の先は薄い刃のように切れ味鋭く、間一髪で珊瑚の喉元をかすめた。
命懸けの戦闘は常のことだが、目の前で珊瑚が生命の危険にさらされる光景には、いつも心臓を握りつぶされるような息苦しさと焦燥を覚える。
考えてみれば、いつ生命を落としてもおかしくない日々なのだ。
幸い、今日は大きな怪我を負うこともなかったが、明日の生命の保証はない。
(もし、珊瑚に万が一のことがあったら──)
考えないようにはしていても、一度不吉な思いに囚われると、どうしようもなく息がつまった。
(珊瑚を失ったら、私は……)
たまらず、弥勒は反射的に動いていた。
「えっ? 法師さまっ……?」
居ても立ってもいられず、気づけば、彼は隣を歩く珊瑚を抱きしめていた。
飛来骨が娘の肩から滑り落ち、珊瑚は唖然と瞳を瞬かせた。
「珊瑚、どこへも行くな」
「……どっ、どうしたの?」
道中、並んで歩いていたら、いきなり抱きしめられた。
珊瑚は困惑顔で絶句している。
「えっ、何っ?」
二人の前を歩いていた犬夜叉たちも驚いて振り向く。
山を越えて、ようやく町に到着した一行は、今宵の宿を探そうとしていたところだ。
人通りは多くはないが、それでも行き交う人が彼らに視線を向けていく。
「珊瑚。おまえがいなくなったら、私はどうすれば……」
なおもぎゅううっと珊瑚を抱きしめる弥勒の様子に、珊瑚は真っ赤になって慌てふためいた。
「いなくなるって……どこへも行かないよ。変だよ、法師さま。こんなところで、急にどうしたの?」
「ずっと、私のそばにいてくれ」
「うん、もちろん──」
珊瑚のためなら、己の生命を切り売りしても構わない。
すでに彼女の存在そのものが、彼の闘う理由なのだ。
「私の力が及ばないせいで、いつも、おまえを危険な目に遭わせてしまう」
「え、何の話?」
「おまえをこんなに愛しく思っているのに」
傷を負わせるのはつらい。
身体にも。心にも。
珊瑚を抱きしめ、こもる声でつぶやく弥勒の言葉は、珊瑚にはあまりよく聞き取れなかった。
一方、はたからは、ただ熱烈に抱き合っているようにしか見えない。
「……」
しばらく固まって、二人を凝視していた犬夜叉とかごめは、まるで見てはいけないものを見てしまったように、そろって眼を逸らして回れ右をした。
「もしかして、弥勒さま、山越えで妖怪に襲われたときに頭でも打ってたんじゃ……?」
「いや、弥勒は元からあんなもんだろ」
「なんかぶつぶつ唱えてるんだけど」
「ほっとけ。見なかったことにするぞ。ほら、七宝も行くぜ。宿を探すんだろ?」
ぎくしゃくと歩き出した犬夜叉に続いて、かごめと七宝もぎくしゃくと歩を進めた。
最後まで法師と娘の熱い抱擁を眺めていた雲母も、軽やかに地を蹴って、仔狐の隣に並んだ。
「お、おらがしっかりせねば」
「みう」
往来に二人を残し、犬夜叉たちはそそくさと行ってしまった。
弥勒は珊瑚を固く抱きしめ、艶やかな彼女の髪に頬をすり寄せている。
周囲を気にしていた珊瑚も、今は弥勒の腕の中で、幸せそうに眼を伏せてじっとしていた。
02:痛みを伴う予感
法師さまがやさしい。
彼はいつもやさしいが、特にそう思うのは、他の女に視線を移さず、珊瑚だけに意識を向けていると感じるからだ。
この日の弥勒は、宿屋の女中にちょっかいを出すこともなく、終始、珊瑚への気遣いを見せていた。
嬉しくて、ひどくときめいて、だが、同時に胸の奥の深い部分に痛みを感じるのは何故だろう。
法師との絆が深まっていくほど、愛しく思えば思うほど、足許が不安定に揺らぐ気がする。
(……)
宿の部屋の隅で、独り、瞑想していた法師の隣に座った珊瑚は、そっと法衣の袂を握った。
「どうしました、珊瑚?」
痛い。
痛い。痛い。
思い出したくもないこの痛みは、過去に味わったことがある。
(あたしの里。父上、みんな……)
少しの幸せを感じても、再び、全てを失ってしまいそうな不安に怯えてしまう。
幸せが大きくなるほどに、失うものもまた、大きくなる。
「珊瑚」
彼の右掌が、珊瑚の頬にやさしく当てられた。
数珠に護られた右手。
(風穴)
また全てを失ったらどうしよう。
(法師さまを──失ったら)
胸に鋭い痛みを覚え、珊瑚は彼の右手を両手で包み込んだ。
「……悪いことなんか、起こらないよね」
「珊瑚?」
「だって……法師さまが、やさしいから」
何かを察したのか、うつむく珊瑚の髪に、弥勒はそっと唇を寄せた。
03:平気じゃないのはたぶん僕
「ここらで休憩だ」
「はい、解散ね」
朝早くに町を出立し、陽が天頂に昇った辺りで、犬夜叉とかごめが言った。
人里から離れて、辺りには野が広がっている。
「もう、休憩ですか?」
「だって弥勒さま、昨日から疲れてるみたいだから」
犬夜叉やかごめ、果ては七宝までもがどこか気を遣っているふうなのが何となく腑に落ちないながらも、弥勒は珊瑚と二人で散歩に行くことにした。
愛しい娘と並んで歩き、ふと、弥勒は珊瑚の頬に、薄いが新しい傷の痕があることに気がついた。
弥勒の視線に気づいた珊瑚が、やや照れくさげに頬に手をやる。
「昨日の山越えのときの、かわほりみたいな奴の翼で。でも、平気だよ。こんなの掠り傷だから」
「少々の傷は仕方ないにしても、おなごなのだから、顔に傷が残らないよう、気をつけてください」
仮に傷が残ったとしても、私が嫁にもらいますが──
そう言おうとして、彼は言葉を呑み込んだ。
もし、それが叶わなかったら。
愛しい娘に一筋の傷がつくのもつらいのに、娘の心に消えない傷を刻むのは、己自身かもしれないのだ。
弥勒はさりげなく己の右手の掌を見た。
風穴の呪いを解きたいのも、珊瑚とともに生きたいからで、その彼女を守るためならば、己の生命さえ引き換えにしても構わない。
だが、珊瑚は泣くだろう。
弥勒のいない世界に、残されることに耐えられず。
(いや、耐えられないのは、珊瑚ではなく私だ)
彼女が傷つき、泣く姿など、想像もしたくない。
彼女が傷つくことで、傷つくのは彼自身でもあるのだ。
「法師さま?」
気遣わしげな珊瑚の声で、ふと我に返った弥勒は、娘を見遣り、微笑した。
珊瑚の泣き顔など見たくはないから、何があっても、彼は笑顔で痛みや悲しみを覆い隠す。
珊瑚の眉がわずかに曇った。
(法師さま、何を考えているの……?)
弥勒は決してそんな素振りは見せないが、彼が何かを取り繕っているらしいときは、珊瑚にも不穏な気配が察せられた。
だが、彼女は何も知らない振りをする。
訊くことはできない。
訊いてはいけない気がするからだ。
04:想う数だけ聞こえる音色
広い野の斜面に二人きりで座り、渡りゆく風を感じる。
そんな束の間の刻を過ごすとき、こんな毎日がずっと続けばいいと思う。
またしても自らの内の声に耳を傾け、物思いにふけってしまっていることに気づいた弥勒が、何か言わねばと珊瑚を振り返ると、彼女は束ねた髪を風にそよがせ、青い空を眺めていた。
「珊瑚……」
場を繋ごうと、弥勒は適当な言葉を探す。
が、
「法師さま」
そんな弥勒の言葉をさえぎるように、珊瑚はやわらかく言った。
「こうしてるの、なんか、いいね」
法師と過ごすひと時は、いつでも珊瑚の心をあたたかく満たす。
弥勒が娘の横顔を見つめると、それを意識してか、珊瑚の睫毛がわずかに瞬いた。
「何か話をしているのも楽しいけど、黙っていると、あたしたちの声以外のものが聞こえる。沈黙は、決して無音ではないね」
法師といると、珊瑚には、目に映る風景も、聞こえる様々な音も、花や草の香りも何もかもが色を持ち、やさしいものに感じられた。
沈黙もまた心地好い。
「一緒に同じ景色を見て、同じ風の音を聞く。そういうの、いいよね」
「愛しい相手と?」
「……うん」
珊瑚ははにかむようにうつむいた。
「一緒に歩いているときは、錫杖の音が聞こえる。そういうの、好きだなって」
「珊瑚」
何か言うのは野暮だろう。
弥勒は黙って、並んで座る珊瑚の手に、己の手を重ねた。
05:ご褒美=(イコール)君
「そろそろ戻りましょうか」
「うん」
法師に続いて立ち上がった珊瑚は、心配げな瞳を彼へ向けた。
「法師さま、ほんとは何か心配事があるんだろう?」
「え?」
「あたしじゃ力になれないかもしれないけど、でも、独りで思い悩まないで」
「珊瑚」
弥勒はじっと、珊瑚のひたむきな美しい顔を見つめた。
「心配させてすまん。でも、大丈夫ですよ」
「今じゃなくていいんだ。法師さまが話したくなったら、いつでも、あたし──」
「珊瑚が無事であればいい」
「え?」
弥勒は悪戯っぽく微笑んだ。
不安そうな彼女を納得させるため、できるだけ何でもないことのように軽く言う。
「無事に本懐を遂げたあとに許される、ご褒美のことを考えていたんです」
「ご褒美?」
「つまり、おまえのことです。祝言をあげ、珊瑚が私の妻になる日のことを」
「……」
「おまえを私だけのものにする。私も、珊瑚だけのものになりますよ」
ほんのりと頬を染めた珊瑚は、刹那、はっとしたように弥勒を見上げた。
「そうなれば、法師さまはもう、浮気しないってことだよね」
「……もう少し甘い言い方はできないんですか」
弥勒は、ほっと吐息を洩らした。
珊瑚が傷つくのは嫌だ。
己が死ぬのも嫌だ。
だが、ともにこの闘いを生き抜けば、この娘と夫婦になることが叶う。
(何があっても珊瑚に寄り添っていたい。手放せない恋だからこそ、慎重にも貪欲にもなる)
ふと顔を上げると、歩き出そうとする娘の額髪が風に揺れる様が見えた。
我知らず、そちらへ伸ばした法師の手が、軽くその髪をなぶり、振り返った珊瑚が恥ずかしそうに微笑もうとした次の瞬間、あっという間に彼女は法師に抱きすくめられ、唇を奪われていた。
それ以上、弥勒は深く求めようとしなかったが、二人はそのまま、唇を重ね、しばらく抱き合っていた。
快い風が野を渡っていく。
「珊瑚」
唇を離した弥勒がささやいた。
「なに? 法師さま」
「いや、何でもない」
“愛している”。
その言葉は、祝言の日まで取っておこう。
〔了〕
2014.8.3.
お題は「恋したくなるお題(配布)」様からお借りしました。(閉鎖されたようです)