雲母の瞳に映る恋
01:あ、まただ
法師の手が伸びた。
雲母の耳がぴくりと動く。
あ、また──
空中だというのに、珊瑚の太腿に。けれど、結局触れずに終わる。
何回くり返すんだろう、と雲母は呆れて視線を前へ戻した。
触れたくて、抱きしめたくて仕方ないのだろうが、空を移動している間はもう少し自重してほしい。
珊瑚は気づいていないようだが、こっちは気が散ってしょうがない。
急遽、武器を修理する道具が必要になった珊瑚は、それらが普通の鍛冶屋にはない特殊なものだったので、二日ほど退治屋の里へ戻ることになった。
当初は雲母と二人で行くつもりでいたが、以前、なかなか戻ってこない珊瑚にやきもきさせられた経験のある弥勒も一緒についてきた。
風に誘われ、ふと背後を振り返った珊瑚が、法師の視線を受け、仄かに頬を染めて微笑む。
雲母には二人の気配が手に取るように解る。
束の間の休息を、互いに嬉しく思っているのだろう。
だが、今さらながら、二日間、この二人とずっと一緒にいなくてはならないのだと思うと複雑な気分だった。
何かあったとき、仲裁してくれるかごめも、突っ込みを入れてくれる犬夜叉も、気分転換に遊びに行く七宝も、いないのだ。
吐息が風に紛れてこぼれた。
退治屋の里が、眼下に見えてきた。
02:花が飛んでいるように見えるんだけど
里に到着すると、まず、墓をきれいにして花を供えた。
それから、目的の工具を探すため、弥勒と珊瑚は一緒に工房のほうへと歩いていった。
残った雲母は墓に供えられた花を見つめる。
見たことはないが、天人というものは頭上に花を戴いているらしい。
珊瑚の頭の上にも花があって、それはしおれたり、満開になったりする。
単なる心象に過ぎないと解っているが、そんなふうに、雲母には見える。
花がしおれたら、それは天人の死期だ。
珊瑚の花を決してしおれさせたりはしない。
里長の墓を見つめ、亡き彼女の父に、雲母はこっそり誓いを立てた。
03:じれったいなぁ、もう
雲母の耳がぴくりと震えた。
とことこと工房の前まで行き、開けっ放しの扉から中を覗いてみると、弥勒と珊瑚が何やら言い合っているようだ。
つい先程まで仲よく寄り添っていたのに、これだ。
「雲母ー!」
弥勒が呼ぶ声に、雲母はそそっと工房の中へ顔を出した。
「ああ、雲母、そこにいたのか。最寄りの村まで行きます。運んでくれますか」
雲母が珊瑚に眼を移すと、納得のいかない顔をして法師を睨んでいる。
「わざわざ食料を調達しに行かなくても、持ってきた携帯食で充分じゃないか」
「携帯食じゃお腹がふくれないでしょう? 工具も普通に使えるようだし、少し食料を分けてもらいに行ったって、いいじゃないですか」
「……」
不満げな珊瑚。
工具が使えるのなら、さっさと持ってきた飛来骨や隠し武器の修理をすればよさそうなものだが、つまるところ、ついて行きたいけれどはっきり言えないのだ。
「それに、仕事は分担したほうがはかどりますし」
彼女の様子を窺いながら、少しわざとらしいくらいの口調で言う法師は、ついて行きたいと珊瑚の口から言わせたいらしい。
何やってるんだ、もう──
待たされる雲母はじれったくてたまらない。
外へ出て、気長に待とうと覚悟を決めたとき、すごい勢いで工房から出てきた娘が雲母の前を横切っていった。
そのあとを、やはりすごい勢いで法師が追いかけていく。
「あたしと一緒よりも、一人で行って息抜きがしたいんだろ!」
「誤解ですって、珊瑚」
法師の顔がにやけているのを、雲母は見逃さなかった。
やきもちを妬かれて、何故あれほど嬉しいのか、雲母には不思議で仕方ない。
04:幸せは伝染(うつ)るって本当なのね
予定調和というべきか、結局、弥勒と珊瑚は一緒に雲母に乗って、最寄りの村へと降り立った。
「里の井戸は使えなかったな。珊瑚は水を汲んできてくれますか。その間に、私は食料を分けていただけるよう頼んできますから」
「解った」
竹筒を渡された珊瑚の機嫌はすっかり直り、小さく法師に向かって微笑を浮かべ、村の井戸を探して歩いていった。
そんな娘の後ろ姿を、弥勒は愛しげに見送っている。
しばらくして、じっと彼を見つめている猫又の存在に気づき、
「あ、いい天気ですね、雲母」
誤魔化すように、彼は柔和な笑顔を作った。
退治屋の里があんなことになって、今現在も琥珀の問題をかかえて、もう二度と、珊瑚が笑うことはないのかもしれないと思っていた。
そんな彼女が再び喜怒哀楽を取り戻したのは、法師の存在が大きいと思う。
表情筋が少ない雲母は笑うことはできないけれど、法師と娘を眺めていると、いつの間にか、二つの尻尾がゆらゆら揺れてしまう。
しばらく法師に向かってゆらゆらと尾を揺らしてから、はっとして気づく。
なんだって、この二人にこんなに振り廻されなければならないんだろう。
05:一歩引いてみれば簡単なことなのに
竹筒に水を汲んだ珊瑚が戻ってきた。
待っている雲母に微笑みを向け、愛しい人の姿を捜す。
「雲母、法師さまはどの家へ行った?」
だが、間が悪かった。
雲母が珊瑚と一緒に一軒の農家の裏へ廻ったとき、二人の眼に飛び込んできたものは、裏庭で十四、五の少女と弥勒が手を取り合っている光景だった。
「……っ」
「あ、珊瑚。って、いえ、これは……!」
珊瑚はつかつかと法師に歩み寄る。
ぱーん!
聞き慣れた音が聞こえ、雲母は素早く二人から距離を取った。
そして、気づいた。
少女の手の中にあったもの、法師が持っているもの。
物々交換の最中だったらしい。
06:それで、本日のご相談内容は?
珊瑚のご機嫌取りに失敗したらしい弥勒が一人で雲母のもとまでやってきた。
「さけられています。どうにも納得できません」
今日は潔白だったわけだが、常が常なので、自業自得ではないかと雲母は思う。
だが、法師は食べ物をちらつかせ、雲母を抱き込もうとした。
雲母に嫌われると何かとやりにくくなる弥勒は、普段から雲母へも気配りを忘れない。
「雲母ー、これ、好きでしょー? 全部あげますから、珊瑚が私のところへ来るよう、さりげなく仕向けてください」
雲母は差し出された干魚を食べながら、そう都合よくいくものかと、少し冷めた視線を送る。
でもまあ、今回は騙されてやろう。
これ、美味しいし。
07:こじれる前になんとかしますか
珊瑚はすぐに見つかった。
水を汲んだ村の共同井戸のところに所在なげにたたずんでいた。
あんなふうに沈んだ顔をさせておきたくないので、雲母は一肌脱ぐことにする。
珊瑚のもとへ、法師から預かったものを咥えて運んだ。
「雲母、これは……」
杏の実だ。
初物なので、きっと、法師は珊瑚を喜ばせようと思ったのだろう。
杏の実をいくつかと、干魚を三人分。
それらを、彼は破魔札とかごめからもらった菓子とで交換していた。
菓子の箱は小さかったが、珍しい異国の品を市で売れば、よい値がつくとでも言い含めたのだろう。
弥勒が少女と何をしていたかを珊瑚もようやく察したらしい。
雲母が咥えていた杏を手に取り、その果実を慈しむように唇に当てた。
「法師さまに謝らなきゃね、雲母」
雲母は軽やかに身を翻し、ついてくるようにと珊瑚を促す。
法師のもとに珊瑚をいざなえば、一時的な嵐は収まるだろう。
珊瑚を連れて、足取りも軽く、雲母は法師のもとへと向かった。
08:余所でしてもらえないかと切に思います
それなのに、どうしてこう一筋縄ではいかないのか。
「珊瑚ー、ここです」
先程のいさかいなどなかったような顔をして、法師が珊瑚の姿を見つけて微笑み、手招いた。
「夕餉を振る舞ってくださるそうです。こちらで夕餉をいただいて、それから帰って作業に取り掛かりましょう。そのほうが効率がいい」
けれど、珊瑚はあやふやな表情で弥勒を見た。
「この家、さっき、法師さまが食料を分けてもらえるように頼んでいた……」
「ええ。格安で話がつきましたよ」
成り行きを見守っていた雲母は呆れ顔になる。
珊瑚がどうして躊躇しているのか、すぐに解ることだろうに。
「さっきの子と、何か話したの?」
「二人姉妹で、どちらもあまり村を出たことがないから、外の世界の話をいろいろ聞きたいと。この家のご主人も快く了承してくださいました」
十代の娘が二人もいると聞き、珊瑚の眉がたちまち曇る。
「じゃあ、法師さまだけ食事の世話をしてもらえば? あたしは里で簡単にすませるから」
「おまえを里に残したら意味がないじゃないですか。私は珊瑚の負担が少しでも減るようにと」
「そんなことを言って、どうせ、可愛い女の子を口説きたいだけだろう!」
「どうしておまえはいつもそう……」
雲母の赤い瞳が細くなる。
法師と珊瑚が仲直りできるよう、せっかく協力したというのに。
家の陰からは少女が二人、興味深げに言い合う二人を覗いているし。
いつもの痴話喧嘩だが、とりあえず仲裁しなくてはと雲母が二人の間に割り込むと、我に返った珊瑚がはっと法師から眼を逸らし、出し抜けにその場から駆け出した。
09:泣きたいときは一緒に泣いてあげるから
姿が見えなくなった珊瑚を探していると、村外れにある池のほとりで、咲いている菖蒲の紫を睨むようにして立ちつくしているのを見つけた。
珊瑚は様子を見に来た雲母を抱き上げ、両手で抱きしめる。
「あたしには雲母さえ、いてくれればいいんだ」
──法師さまなんか。
そんな言葉が聞こえてきそうだ。
「琥珀とかごめちゃんと犬夜叉と七宝と雲母がいてくれれば……」
自分から折れない意地っ張りなところのある娘。
泣いてもいいよという合図に、雲母は彼女の頬をそっと舐めた。
だが、次の瞬間、背後から現れた弥勒の腕が、珊瑚の肩を雲母ごと後ろから抱きしめた。
「私はおまえがいなければ嫌です」
「……」
「私が悪かった」
「……」
弥勒を振り返り、彼の肩に額を押し当てて、ぽろぽろ珊瑚は涙をこぼす。
二人きりにしてあげよう──
雲母はそっとその場を立ち去った。
10:本人達が幸せならいいんだけどね
たった二日の里帰りでげっそり疲れた。
でも、法師と仲直りをした珊瑚が幸せそうだから、まあ、いいかと思ってしまう。
武具の修理を終え、退治屋の里をあとにした帰りの空で、雲母の背に乗った弥勒が思い出したようにつぶやいた。
「雲母がもし、人間の男だったら、私は太刀打ちできなかったかもしれんな」
雲母の耳がぴくりと動く。
そりゃそうでしょう。
珊瑚との信頼関係は、退治屋の里が在りし頃からの年数を数えると、法師の比ではない。面倒な癖のある法師より、よほど珊瑚を幸せにする自信があった。
ただ、自分は猫又で珊瑚は人間だから、恋愛感情など生まれないだけのことなのだ。
「なに言ってるの、法師さま。雲母は雲母だよ。あたしの大切な相棒。でも、もし人間だったとしても、逆にあたしなんか相手にされないかもね」
法師の前に座った珊瑚が可笑しそうに応え、すぐにはにかみながら眼を伏せた。
「それに、あたしは法師さまだから……」
“好きになったの”
はいはい、と雲母は心の中で相槌を打つ。
もう解ったから、いちいち巻き込まないでほしい。
来るときは躊躇っていた法師の手が、珊瑚の腰を遠慮がちに抱きしめた。
珊瑚はやや身を固くしたが、仄かに頬を染め、嬉しそうな表情を浮かべている。
ま、いいか。
人間よりずっと長い寿命を持っているのだ。
この厄介な二人を見守るくらいの時間を割いてやっても、別になんてことはない。
雲母は意識を空へ向けた。
晴れ渡った空を翔けるのは気持ちがよかった。
まだ時間もあることだし、恋人たちのために、少し遠回りをして帰ってもいい。
どこへ行こうか。
雲母はまぶしげに眼を細めた。
〔了〕
2012.6.5.
お題は「追憶の苑」様からお借りしました。(閉鎖されたようです)