水中の貴石

01:この距離を壊したくない

 昨日から、犬夜叉たちの一行は楓の村に足を休めていた。
 犬夜叉とかごめが現代へ行ったあと、弥勒は珊瑚と楓の仕事を手伝っている。
 午後、村の何軒かの家に薬草の包みを届けに廻っていた弥勒は、最後の家で老人に薬草を渡すと、その老人の孫娘に呼びとめられた。
 彼女はいつも法師を取り囲んで談笑する村娘たちの一人である。
 断る理由もないので、そのまま縁側に腰を落ち着け、娘の手相を見てやり、しばらく村の噂話などに花を咲かせていた。
「やだ、弥勒さま」
「いえ、お世辞ではありません」
「じゃあ、この村の娘の中で本気で狙っている娘、いる? いないでしょ」
 恋の話を好む若い娘の話し相手をするのは嫌いではない。けれど、最近の弥勒には、それよりも気になることがあった。
(もう、そろそろかな)
 今も心はそちらへ向いている。
 いつも、少し距離をとって、彼を見つめてくる視線。
 彼が彼女から離れると、慌てて追ってくる気配。
 こちらから近づくと、真っ赤になって睨んでくる表情。
 純情なあの娘のそんな瞬間を、常に待ち構えている。
 この距離感が心地好い。
 目の前の村娘の話は適当に聞き流し、そろそろ自分を追いかけてくるであろう仲間の娘を思い浮かべ、弥勒はやさしい眼差しで微笑んだ。
「皆、魅力的だと思いますよ」
「あたしも?」
「ええ。ですから、一人に決めるなどとても──
 ふと、彼はこちらへ向けられる第三者の視線に気づいた。
「珊瑚」
 密かに待っていた娘の姿を認め、法師は眼に小さく微笑を浮かべた。

02:たとえば、

「あ、ひと包み忘れていましたか」
 彼女は自分を追いかけてきたのではなく、忘れ物を届けに来たのだ。その事実に、内心、彼は苦笑をこぼした。
 薬草の包みを受け取り、この家の娘に手渡すと、彼女が珊瑚に礼を言う。
「わざわざありがとう、退治屋さん」
 それを見つめながら、法師はぼんやり考えた。
 たとえば、そう──
(遅いじゃないですか)
(待っていたんですよ?)
(私を迎えに来てくれたんでしょう?)
 こんな言葉を掛けたら、珊瑚はどんな反応を示すだろう?
 それから──
(私を捜してやってくる、おまえの顔が好きだ)
(いつも、おまえが迎えに来るのを待っている)
 そんなことが言えたら……?
 彼女との関係がどう変わるだろうか。
(いや、この気持ちを恋にしてはいけない)
 ふっと我に返ると、うつむいて黙りこくった珊瑚の睫毛が微かに震えていることに気がついた。
 ちくりと弥勒の胸が痛む。
「では、日も暮れてまいりましたし、私はこれで」
「いいじゃないですか。弥勒さまもうちで一緒に夕餉を」
「いえ、これで失礼します」
 これ以上、珊瑚を不安にさせてはいけない。
 弥勒は錫杖を手に歩き出そうとしたが、珊瑚が一向に動きそうにないので、足を止めて振り返った。
「何をしているんです? 行きますよ、珊瑚」
「え、うん」
 彼の言葉に驚いて顔を上げた珊瑚が、次の刹那、ほっとしたような様子を見せたので、弥勒は安堵の微笑を浮かべた。
 己の隣は珊瑚の定位置だと、そんな彼の想いが、彼女にも伝わっていればいい。

03:怖いのは拒絶されること

 弥勒は川へ向かって足を進めた。
 この時刻なら、一番星が見えるだろうと。
「法師さま、楓さまの家は反対方向だよ?」
「少し、遠回りをしていきましょう」
 おまえと一緒に星が見たいのだと言ったら、可憐な娘はどんな顔をするだろう。
 ただ、それを言葉にするのは躊躇われた。
 どんなに冗談めかしても、珊瑚が己を憎からず思っていると確信していても、この気持ちを外へ出すのは怖い。
(風穴のある身で、本気の恋など許されまい)
 川辺まで来て、弥勒は足をとめた。
 そして、西の空を見上げ、さり気なさを装ってつぶやく。
「一番星が出ていますな」
 宵の明星が、まだ明るさの残る西の空に美しくきらめき始めている。
 その同じ空を珊瑚が見上げたのを肌で感じ、弥勒は穏やかに言葉を続けた。
「知っていましたか? この村で、この場所が一番夕星が美しく見えるんです」
「そうなの?」
「そう、私は思っていますが」
 だからこそ、おまえを連れてここへ来た。
 そんな想いを込めて、弥勒は夕星をじっと見つめる。
 あの星のように小さくきらめく美しいもの、ずっと大切に秘めていたいもの、それが彼の心に住む珊瑚という存在だった。
 珊瑚の隣で、弥勒はしばらく黙って夕星を見上げていたが、ややあって、珊瑚が遠慮がちに彼に声をかけた。
「あの」
「何です?」
 弥勒が珊瑚を振り返ると、彼女は咄嗟に彼から眼を逸らした。
 交わらない視線が、まるで彼女が自分を拒絶しているように感じられ、鈍い痛みを伴った。

04:君が笑っていてくれるなら

「法師さまって……あの娘のこと、好きなの?」
「あの娘?」
「さっき、楽しそうに話してた」
 拒絶されているのではないと判り、心底ほっとした。
「好きかといえば好きですよ。おなごといるのは楽しいし、可愛い娘は皆、好きです」
「そうじゃなくて」
 からかうような口調で弥勒が言うと、珊瑚はもどかしげに眉をひそめた。
「そういう意味じゃなくて、本気で、ってこと」
 うつむいて口ごもる珊瑚の様子を面白そうに弥勒は見遣る。
「さっきの娘に、私が本気で惚れているように見えたんですか?」
「そうじゃないけど……」
 弥勒の視線を振り払うように、珊瑚は西の空の一番星へと視線を投げた。
「ただ、今、夕星を見ていた法師さまが、まるで好きな女を見つめているように見えて、それで……」
(ああ、そうか)
 心に秘めた、ほかならぬ珊瑚の面影を追いながら星を見上げていたので、そう見えたわけだ。
「確かに、本気の恋は、私にとってあの星くらい遠い距離がありますな」
 すぐ隣にいる娘への想いを遠い空の夕星へ向ける眼差しに乗せると、珊瑚が不安そうに訊いてきた。
「昔の女を思い出していたの?」
「違いますよ。特定のおなごがどうというより、恋そのものが、です」
 黙っていると変な誤解を生みそうで、弥勒は苦笑する。
 心地好い風が流れ、二人の髪をそよがせた。
「本気の恋なんかできないってこと?」
「そうだな。少なくとも、覚悟が要ります」
 彼の恋愛について、珊瑚のほうから積極的に問うてくることを珍しくも嬉しくも思い、弥勒は彼女の心をはかるように質問を返した。
「珊瑚だったら、あの星に手が届くまで、休むことなく進み続ける覚悟がありますか?」
 遠い輝き──
 あの星が瞬くように、彼女が笑っていてくれれば、それだけで幸福になれる。
 今はそれだけでいい。
 まだ“恋”という形にはしない──そういう恋もあるのだ。

05:その一歩が踏み込めない

 解らない、と、珊瑚は言った。
 そしてすぐに、
「でも、だからって諦めてしまうのも嫌だ」
 と続けた。
 珊瑚らしい、と弥勒は思う。
 ひたむきに一途に、決して諦めない。
 そういうところも愛しい。
 けれど、まだ知られたくない。この関係を崩したくはない。
 だから、あと一歩が踏み込めない。
「あたしなんかより、法師さまのほうがずっと心が強い……」
「惚れましたか?」
「ばっ、馬鹿! 己惚れるな! 間違っても、法師さまに惚れたりなんかしないから」
 憎まれ口をたたく珊瑚はどこまでも可愛い。弥勒は緩みそうになる口許を片手で隠す。
「……遠いね。あそこまで」
 独り言のようにつぶやいた彼女が西の空を仰ぐと、彼も一緒に彼女の視線の先にあるものを追った。
 宵の明星。あの美しいきらめきは海の宝石。
 貴石のように美しい娘──
「珊瑚の貴石も、あのくらい遠くにあるのですか?」
「貴石?」
 思わず言葉が口をついて出てしまったが、内心の動揺などおくびにも出さず、弥勒は何気ないふうに言い繕う。
「夕星が貴石のように見えたので。大切な恋心……のような」
 彼女に向ける一言一言に慎重になってしまう己の心が、恋に初心な少年のようで可笑しくもあった。
「うん。もしかしたら、あの星よりももっと遠いかもしれない」
 宵の明星が浮かぶ空を、恋するようにじっと見つめる珊瑚の横顔が美しい。
 そんな彼女を、眼に見えない何かに奪われそうな感覚にとらわれ、弥勒は珊瑚と夕星の間に割り込むようにして、彼女の顔を覗き込んだ。
「でも、私の貴石は、実は空ではなく、水の中にあるんです」
「水の中?」
 珊瑚は意外そうに目の前を流れる川を見た。
 そして、小さくくすくす笑い出した。
「何ですか?」
「川で砂金を探している法師さまの姿が浮かんだ」
(色気ねえなぁ)
 弥勒は大きなため息をつく。
「珊瑚は私にそんな印象しかないんですか。っていうか、海です。海の中」
 言ってから、しまったと思った。
 これでは告白したも同じではないだろうか。
 しかし、珊瑚はきょとんと首を傾けた。
「え、海?」
 大丈夫だ。
 彼女は、それが彼女自身の名──海の宝石のことだとは、思いもしないようだ。
 弥勒は物憂げに言った。
「溺れる覚悟がなければ、近づけない領域なんですよ」
 無邪気に珊瑚が苦笑をこぼす。
「恋に溺れるとか言いたいの? 法師さま、自分の言葉に酔ってない?」
 呆れたような娘の視線を受けて、弥勒は不服そうに眉をひそめた。
「失礼な。私は大真面目ですよ。溺れて死んでもいいくらいの覚悟がないと、一歩も踏み出せないということです」
「法師さまでも、踏み出せないことってあるんだ」
「ありますよ、もちろん」
 踏み込むことを禁じられた領域。
 こんなに近くにいるのに、彼女はそんなところにいるのだ。
「珊瑚、そろそろ帰りましょうか」
「うん」
 少し薄暗くなってきた空に、ひときわ美しく夕星が輝く。
 その星に見守られながら、弥勒と珊瑚は帰るべき場所へと並んで歩を進めた。
 右手の呪いゆえ、愛しいと、その一言を伝えるのが怖い。
 けれど、弥勒は彼女と一緒にいるだけで、凪いだ海のように安らげる。
 彼の心の深淵に、“珊瑚”という名の貴石が隠されている。

〔了〕

2018.1.14.

「恋になる前の5つのお題」
お題は「追憶の苑」様からお借りしました。(閉鎖されたようです)