天上の貴石

01:あなたの見つめる先

 昨日から、犬夜叉たちの一行は楓の村に足を休めていた。
 犬夜叉とかごめは現代へ行ってしまったが、久しぶりにゆっくりと眠れた珊瑚は、楓の家で朝から家事を手伝っていた。
「薪割り、終わりました。他にすることはありませんか?」
 午後になって、家の中にいた老巫女に声をかけると、楓は労うような表情を見せて言った。
「ああ、ご苦労、珊瑚。では悪いが、ちょっとこれを届けてきてはもらえんか」
「薬?」
「法師どのに頼んだのだが、もう一種類、渡すのを忘れていたのでな」
「そういえば、法師さまは……」
「そのまま、まだ帰ってきていないようだ」
 楓は珊瑚に薬草の入った小さな包みを手渡した。
「では、頼んだぞ」
「はい」
 教えられた家に珊瑚は向かう。
 その家はすぐに判った。
「すみません」
 玄関で声をかけようとした珊瑚は、はっと耳を澄ませた。
──やだ、弥勒さま」
 裏庭のほうから華やいだ女の声がする。
「……」
 思わず声のするほうへと足を向けると、その家の縁側で、法師と娘が腰かけて談笑していた。
「魅力的だと思いますよ」
「あたしも?」
「ええ。ですから──
 楽しそうに笑う娘に向けられた法師の視線がやさしい。
 珊瑚の胸がつきんと痛んだ。

02:震える睫毛の理由

「珊瑚」
 弥勒の声に我に返った珊瑚は、彼の前まで進んでいって、薬草の包みをつっけんどんに突き出した。
「忘れ物」
「あ、ひと包み忘れていましたか」
 受け取った弥勒は、それをその家の娘に手渡した。
「わざわざありがとう、退治屋さん」
 礼を言う娘に珊瑚は小さくうなずく。
 法師はまだこの娘と二人でここにいるつもりなのだろう。
 すぐ立ち去ろうと思ったが、思うように足を動かせない。
 なんとか二人から眼を逸らし、視線を伏せたが、微かに震える睫毛が彼女の心の動揺を物語っていた。
 こんな無様な様子を法師に悟られる前に身を翻してしまいたい。
 彼女はきゅっと拳を握りしめた。
 すると、不意に心地好い弥勒の声が耳に入った。
「では、日も暮れてまいりましたし、私はこれで」
「いいじゃないですか。弥勒さまもうちで一緒に夕餉を」
「いえ、これで失礼します」
 法師と村娘のやり取りの中に自分はいないような気がして、その居心地の悪さに珊瑚は顔を斜めに逸らす。
 うつむいたままの珊瑚の前で、錫杖を手に取り、縁側から立ち上がった弥勒は、歩き出そうとして、振り向いた。
「何をしているんです? 行きますよ、珊瑚」
「え、うん」
 突っ立っていた珊瑚は、慌てて法師を追った。
 珊瑚がついてきたのを確認して、彼はゆったりと歩を進める。
 先に立って歩く弥勒の背中をぼんやりと珊瑚は見つめた。
 法師が、あの家に残って娘と夕餉をともにせず、自分と一緒に帰ることを選んだことを、素直に嬉しいと感じていた。

03:交わらない視線

 弥勒はすたすたと歩いていく。
 けれど、その方角は。
「法師さま、楓さまの家は反対方向だよ?」
「少し、遠回りをしていきましょう」
 戸惑ったような珊瑚の声に構わず、前を向いたまま、弥勒は答えた。
 よく解らないままついていくと、川辺に出たところで、法師は足をとめた。
「一番星が出ていますな」
 見上げると、宵の明星が、まだ明るさの残る西の空に美しくきらめき始めている。
「知っていましたか? この村で、この場所が一番夕星が美しく見えるんです」
「そうなの?」
「そう、私は思っていますが」
 何故、法師はわざわざ遠回りをしてここへ来たのだろう。
 夕星を見るためだろうか。
 珊瑚は不思議に思って弥勒を見上げたが、彼の眼は遥か彼方の夕星をじっと見つめたままだった。
 先程、聞こえてしまった村娘と法師の会話が耳によみがえる。
“魅力的だと思いますよ”──
(あの娘のこと、法師さまは好きなの……?)
 彼の眼を見てそう問いたいが、聞くのが怖い。
「あの」
「何です?」
 弥勒が振り向いた瞬間、珊瑚は彼から眼を逸らしていた。
 視線を合わせるのが、何故だか怖かった。

04:誰を想っているの

「法師さまって……あの娘のこと、好きなの?」
「あの娘?」
「さっき、楽しそうに話してた」
 弥勒は思わせぶりにくすりと笑った。
「好きかといえば好きですよ。おなごといるのは楽しいし、可愛い娘は皆、好きです」
「そうじゃなくて」
 もどかしそうに珊瑚は言葉に迷う。
「そういう意味じゃなくて、本気で、ってこと」
 困ったように口ごもる珊瑚の様子を面白そうに弥勒は見遣った。
「さっきの娘に、私が本気で惚れているように見えたんですか?」
「そうじゃないけど……」
 珊瑚は弥勒の視線を振り払うように、西の空の一番星へと視線を投げた。
「ただ、今、夕星を見ていた法師さまが、まるで好きな女を見つめているように見えて、それで……」
 弥勒も再び夕星を見上げる。
「確かに、本気の恋は、私にとってあの星くらい遠い距離がありますな」
「昔の女を思い出していたの?」
 言ってから、自分の声が微かに震えたことに珊瑚は狼狽した。
 でも、聞かずにはいられない。
「どんな──
「違いますよ。特定のおなごがどうというより、恋そのものが、です」
「本気の恋なんかできないってこと?」
 風が流れ、二人の髪をそよがせた。
「そうだな。少なくとも、覚悟が要ります。珊瑚だったら、あの星に手が届くまで、休むことなく進み続ける覚悟がありますか?」
 あの星──
(あの天上のどの辺りに、あの星はあるのだろう?)
 法師さま──弥勒法師。それは菩薩の名前。
(弥勒菩薩様がいらっしゃるという兜率天は、あの星よりももっと遠いところにあるのかな)
 ちらと隣にたたずむ弥勒を盗み見ると、彼は憧れるように天上の輝きを眺めている。
「解らない」
 珊瑚は低い声で、ぽつりと言った。

05:想いを裏切る言葉

「でも、だからって諦めてしまうのも嫌だ」
 己の言葉に珊瑚ははっとなった。
 不用意な言葉を発してしまったのではないだろうか。
「おまえは強いな、珊瑚。それに引きかえ、私は弱い人間だ。相手を傷つけたくないと思いながら、本当は自分が傷つきたくなくて、本気の恋などというものには近づきたくないのかもしれんな」
「弱さは悪いことなの? 誰だって、怖いものくらいあるよ」
 あたしだって──と、珊瑚は思う。
 傷つきたくなくて、この想いを自覚したくないと思っている。
「珊瑚の強さは、私が持っていない種類の強さなんですよ。なので、羨ましいと思うこともあるし、おまえをすごいと思うこともある」
「あ、あたしなんかより、法師さまのほうがずっと心が強い……」
「惚れましたか?」
「ばっ、馬鹿! 己惚れるな! 間違っても、法師さまに惚れたりなんかしないから」
 どうしてこんなきつい言い方しかできないんだろう、と珊瑚は哀しくなる。
 せめて村の娘たちのような女らしい反応を返したいのに、いつもいつも、彼に対する言葉は、彼女の気持ちを裏返したもので──
「……遠いね。あそこまで」
 珊瑚が西の空を仰ぐと、法師も一緒に彼女の視線の先にあるものを追った。
「そうだな。珊瑚の貴石も、あのくらい遠くにあるのですか?」
「貴石?」
「夕星が貴石のように見えたので。大切な恋心……のような」
 大切な──それは法師さまへの想い。
「うん。もしかしたら、あの星よりももっと遠いかもしれない」
 見えるはずのない兜率天を求めて、珊瑚はじっと宵の明星が浮かぶ空を見つめた。
 そこに行けば、己の恋心が明確に掴めるだろうか。
(行けっこないけどね)
 そんな珊瑚を見つめていた弥勒が、ふと、珊瑚と夕星の間に割り込むように彼女の顔を覗き込んだ。
「でも、私の貴石は、実は空ではなく、水の中にあるんです」
「水の中?」
 珊瑚は目の前を流れる川を見る。
 そして、小さくくすくす笑い出した。
「何ですか?」
「川で砂金を探している法師さまの姿が浮かんだ」
 法師は大きなため息をついた。
「珊瑚は私にそんな印象しかないんですか。っていうか、海です。海の中」
「え、海?」
 意外な言葉に珊瑚は軽く眼を見張る。
 今、この時刻、この場所のどこにも海を連想させる要素はない。
「溺れる覚悟がなければ、近づけない領域なんですよ」
 珊瑚は思わず苦笑する。
「恋に溺れるとか言いたいの? 法師さま、自分の言葉に酔ってない?」
 呆れたような彼女の視線を受け、弥勒は不満げに眉をひそめた。
「失礼な。私は大真面目ですよ。溺れて死んでもいいくらいの覚悟がないと、一歩も踏み出せないということです」
「法師さまでも、踏み出せないことってあるんだ」
「ありますよ、もちろん」
 踏み込むことが躊躇われる天上。
 こんなに近くにいるのに、彼はそんなところにいるのだ。
「珊瑚、そろそろ帰りましょうか」
「うん」
 少し薄暗くなってきた空に、ひときわ美しく夕星が輝く。
 その星に見守られながら、弥勒と珊瑚は帰るべき場所へと並んで歩を進めた。
 結局、弥勒が何をしにここへ来たのかは判らないままだ。
 けれど、珊瑚は彼と一緒にいる時間が、ただ、嬉しい。
 彼女の心の奥底に、“弥勒”という名の貴石が秘められている。

〔了〕

2017.12.25.

「すれ違う恋の5題」
お題は「追憶の苑」様からお借りしました。(閉鎖されたようです)