葡萄姫

第一章 古塔に住む魔術師

 昔々のこと、これは、はるか遠い彼方のつ国の物語でございます。

 波斯ペルシャのある地方にある王国がありました。
 国は平和で豊か、安定した治世を保っていましたが、ただひとつ、王様には心配事がありました。
「あれは、いつになったら身を固めるのか……」
 王様の心痛の種は、まだ若い王子・蔭刀のことでした。
 蔭刀王子は、眉目秀麗、頭脳明晰、と親の目から見ても非の打ち所のない若者であり、王位後継者でしたが、女というものをひどく嫌っていたのです。
 王子は王様が歳を取ってからようやく授かった一粒種であり、それだけに王様の一人息子への愛情はひとしおでしたが、その女嫌いにだけは、ほとほと頭を悩ませておりました。
 年老いた王様は、王子が誕生日を迎えるたび、妻を娶るように勧めてきましたが、王子は頑として聞き入れません。
 読書家の王子は古今の書物の影響から、女は魔物、と思い込んでいる節があります。
「仕方ない、こうなれば、実力行使に出るしかない」
 老王は、頑なな考えを改めさせるため、王子を都の外れの古い塔の一室に幽閉してしまいました。

 ところで、この古塔の一階には、一人の少女が住んでいました。
 少女の名をかごめといいます。
 生まれながらに強い霊力を持つかごめは、魔術師として名を馳せ、占いや雨乞いなどで生計を立てていましたが、住む者もなく、管理もされずに長いこと放置されていたこの塔に、ちゃっかりと無断で住みついていたのでありました。
 このような寂れた場所にいるほうが、精霊や魔物たちとの交流がしやすいのです。
 その日、突然、かごめの住む塔に王宮の兵士たちがやってきました。ですが、そこは優れた魔術師のこと、兵士たちには自分の姿が見えないよう、術を使ってやり過ごしました。
 兵士たちは、塔の一室に何者かを幽閉したようです。
「それにしても、いったい誰が閉じ込められたのかしら」
 かごめは好奇心旺盛なお年頃。
 夜になると手燭を持ち、足音を忍ばせて、高い塔の上階へとのぼってみました。
 最上階の一室には堅く鍵がかけられ、扉の隙間からは幽かな光が洩れています。
(この部屋だわ)
 かごめは両手の人差し指と親指で菱形を作り、扉に押し当てました。
 すると不思議。
 彼女の指が作った菱形の部分だけ、扉が透けて見えます。
 かごめはそっと中の様子を窺ってみました。
 薄暗い室内にはランプが灯され、粗末な寝台の傍らの粗末な椅子に、一人の青年が腰掛けています。ランプの光にその仄白い横顔が浮かび上がって見えました。
 書物に眼を落とすのは、憂いを込めた表情の美貌の青年。
 かごめは直感で悟りました。
 どのような経緯いきさつがあって、このような場所に幽閉されているのかは知らないが、これはこの国の王子に違いない。
 王子の美しさは、噂となって国中に知れ渡っていましたから。
「それにしても、絵になるわねぇ……」
 ほうっとため息をつきながら、かごめは夢心地で、住まいにしている一階までの階段をのろのろと下りていきます。
 ──幽玄って、あんな光景のことをいうのねえ。
「かごめ、いるかぁ?」
 そこへひょっこりと現れたのは、犬の耳を持つ、銀髪の少年。
「犬夜叉」
 少年は犬夜叉といって、人間ではありません。かごめの魔物友達──といいますか、二人は恋仲──らしいです。一応。
 かごめはさっそく犬夜叉を部屋の隅まで引っ張っていき、誰もいないのに小声で話します。
「ねえ、ちょっと聞いてよ。あたし、同居人ができちゃった」
「はあ? んなもん、どこにいるんだよ」
 辺りを見廻せど、塔の中はしんと静まり返っています。
 塔は大きく、広いのです。
「上よ、上。なんか、幽閉されてるみたいなのよ」
「それ、同居人っていうのか?」
 細かいことはこの際おいておきましょう。
 かごめは話を進めます。
「それがねえ、すっごく綺麗な人なの」
「きれー?」
「美貌の王子様が幽閉。なぁんか、すごいロマンチックじゃない?」
「ろまんちっく?」
 何だそれ、と犬夜叉はいたって憮然たる表情。
 かごめが他の男のことをうっとりと話すのが気に入らない。
 それ以前に事情が全く解らない。
 仏頂面を保ちながら、かごめの気をくだんの王子から逸らそうとします。
「綺麗な人間ってならなあ、夕べ、おれも見たぜ」
「あんた、今度はどこ行ってきたのよ」
 犬夜叉には放浪癖があるのです。
「支那」
「しな?」
「支那のほうにある国。そこにすっげえ綺麗な姫がいた」
「支那って……また随分遠くまで──ってあんた! まさか、そのお姫様に──
 思わず声を荒げてずいっと身を乗り出すかごめに犬夜叉は慌てて後退さり、突き出した両手を振りまくります。
「ばッ、何言ってんでい! おまえだって散々どこかの王子が綺麗だとか言ってただろが」
「あたしは女の子よ? そういうのは女の子の前じゃ言っちゃいけない科白なの!」
 ふんっと可愛らしくそっぽを向きます。
「で、何? あんたが人間の女の人を綺麗だとか言うなんて、珍しいわよね」
「そうか?」
「そのお姫様と何か……」
「あるわきゃねえだろっ!」
 かごめはにいっと笑いました。
「この間あたしがあげたそれ、ちゃんと付けてくれてるのね」
 かごめが指差したのは、犬夜叉の首に掛かっている瓔珞ようらくでした。
 宝玉を連ねたそれは、夜の室内でも蝋燭の炎を受け、時折きらりと光を跳ねます。
「気に入ってくれてるんだ?」
「外そうとしても外れねえんだよ!」
 半ば自棄気味に吐き捨てる犬夜叉を満足そうに眺め、貼り付いた笑顔のまま、かごめは問いました。
「で?」
「……何だよ?」
「どんな人だったの?」
「は?」
「だから! そのお姫様! どれくらい美人だったの!」
「ああ……」
 銀髪の少年はしばし考え、
「今までおれが見た人間の中で一番ってくらい、きれーだった」
「おすわりっ!」
 怒声に近い声でかごめが呪文を口にすると、少年の身体が一気に床に叩き付けられました。
「!──っ……」
 床は石です。
 不意打ちで、打ち所が悪かったのか、彼はすぐに声も出せない様子。
「何しやがるんでいっ!」
「その瓔珞、まじないがかけてあるの。言い忘れてたけど、ちょっとやそっとじゃ取れないから」
 愛くるしい笑みが魔女の微笑みのように見えたのは気のせいでしょうか。
 犬夜叉の表情は引きつり気味です。
 これで二人の力関係も知れようというもの。
「だいたい、なんで人間のおまえが妖魔のおれより強いんだっ!」
「犬夜叉のお母さんて人間だったんでしょ。あんた半妖じゃない」
「だからってなんでおまえは人間のくせして生まれながらに魔力を持ってるんだっ」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。魔力じゃなくて、霊力よ」
 未だ床に座り込んだままの犬夜叉の前に膝を付き、かごめは彼の胸元の瓔珞をつんつんと人差し指でつつきました。
「力じゃあんたに敵わないけど、魔術だったらあたしのほうが上よね」
 触らぬ神に祟りなし、とばかりに黙ってこくこくとうなずく犬夜叉。
 それは彼も認めざるを得ない事実のようです。
「だけど、もうちょっと言い方ってもんがあるでしょ? 何よ、今まで見た人間の中で一番きれーって。あたしの立場も考えてよ」
「あ? あ、ああ、いや、おまえはだから別格っていうか……」
 犬夜叉の言葉は語尾が聞き取れないほど小さなつぶやきでしたが、かごめの頬が仄かに朱を帯びました。
「え……えっと、そう……なの?」
「……」
 どうやらかごめのご機嫌も直ったようです。
 作り笑顔ではない、本物の笑みを浮かべ、犬夜叉の手を取って一緒に立ち上がりました。
「ねえ、そのお姫様、あたしも見てみたい! すっごく綺麗なんでしょ? 犬夜叉が目を留めるくらいだもんね」
 打って変わってきらきらとした瞳を向ける可憐な魔術師に、いささか圧され気味の半妖の少年。
「この塔の上に軟禁されているこの国の王子様も、すごい美青年なのよ? どっちがより綺麗か、比べてみたくない?」
「はあ?」
 いきなり何言い出すんだ、この女は?
 彼は単に彼女に対抗して、たまたま見かけた異国の美姫の話を持ち出しただけ。
 別にどちらがより美しかろうが、はっきり言ってどうでもいいのです。
「よし。競争よ! あんた、韋駄天の術、使えたわよね。今からそのお姫様、ここに連れてきてくれない?」
 何の競争なんだか。
「あ、ちゃんと術で眠らせてから連れてくるのよ。並べて比べてみるんだから」
 しかし、異様に張り切っている恋人に反論する言葉もなく、闇の中、再び支那へと、犬夜叉は夜空を走るのでした。

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2007.4.18.