葡萄姫
第二章 波斯の王子と支那の姫
支那のある地方にある王国がありました。
国は平和で豊か、安定した治世を保っていましたが、ただひとつ、王様には心配事がありました。
「あれは、いつになったら嫁にいくのか……」
王様の心痛の種は、うら若い姫君・珊瑚のことでした。
珊瑚姫は、容姿端麗、賢く、優しく、彼女を知る誰からも愛されました。
夜空に輝く白銀の月を思わせる美貌は周辺諸国の王子たちの憧れの的であり、結婚の申し込みは後を絶ちません。ですが、どういうわけか、姫は全て拒絶するのです。
「嫁にいく気なんかない」
というのが彼女の口癖でしたので、誰が言うともなく、姫は男嫌いとの噂まで広がる始末。
「仕方ない、結婚を前向きに考える気になるまで、姫は外出禁止だ」
とうとう珊瑚姫は父王に、宮殿から出ることを禁じられてしまいました。
弟君の琥珀とともに、たびたび宮殿を抜け出しては御忍びで街や森へ赴くことを好んでいた姫は落胆を隠せませんでしたが、それでも見も知らない男と結婚するなど、考えるのも嫌でした。
夜ごと、自室の露台にたたずみ、月を眺めては物思いにふけります。
「あの人も、どこかでこの同じ月を見てるのかな」
犬夜叉が珊瑚姫を見かけたのは、ちょうど、そんなふうに彼女が露台に出て月を眺めているときだったのでした。
半ば強制的に、かごめに「きれーなお姫様」を連れてくるように言われた犬夜叉は、前夜も訪れた支那の海に浮かぶ島の王国を、今夜もまた訪れました。
「えっと、昨日見かけた姫の宮殿はどこだっけな」
韋駄天の術を得意とする犬夜叉は、いつも適当に夜空を散歩しているので、いつどこへ行ったなどということはいちいち覚えていません。
「あっ、あれだ。今夜も月を見てやがる」
毎夜、露台へ出る姫の習慣のおかげで、何とか目的の宮殿を捜し当てることができました。支那には島も国もたくさんあるのです。
ぼんやりと満月を見上げる姫の頭上まで降りてきた犬夜叉は、風向きを確かめると、掌に載せた眠りの粉を、ふっと姫に吹きかけました。
「──?」
一瞬、何かの気配を感じ取った珊瑚でしたが、眠りの粉を吸い込み、たちまちのうちに睡魔に捕らわれてしまいます。
「おっと」
露台の床に倒れ伏してしまう前に、素早く犬夜叉が抱きかかえ、そしてそのまま空へと舞い上がりました。
「かごめー、戻ったぞ?」
未だ眠ったままの珊瑚姫を背負い、魔術師・かごめの住む古塔へ戻ってきた犬夜叉は、ずかずかと窓から中に入り、大声で部屋の主を呼びました。
「あ、お帰り。早かったね」
韋駄天の術を使えば、遠い遠い距離を隔てた波斯と支那の間も、まばたきをするほどの時間で行き来できます。
犬夜叉が支那まで行ってここに戻ってくるのに要した時間は、わずか数分だったでしょうか。
「その人がそうなの? 見せて見せて」
好奇心を抑えきれない様子の少女に小さくため息をついて、ほらよ、と犬夜叉は背負った異国の姫を室内の寝椅子の上に横たわらせました。
「うわあ、ほんと。綺麗な人ねー」
かごめ自身もかなりの美少女でしたが、この姫はまた違った美しさで、他者を圧するようでした。
陶器のような白い肌に、伏せられた長い睫毛。
愛くるしい唇はその名の通り、珊瑚色。
繊麗な美貌に華奢な肢体、寝椅子のクッションにこぼれ落ちる長い黒髪は絹糸のようです。
「気がすんだか?」
さしたる興味もない犬夜叉は淡々と尋ねますが、一方のかごめには新たな野望が生まれました。
「ねえ、このお姫様、この国の王子の蔭刀さまと会わせてみない?」
「は? 何言ってんだ、おまえ?」
「だってお似合いだと思うの。蔭刀さまって女嫌いで有名だけど、これだけ綺麗な人が相手なら、きっと恋に落ちると思うわ」
「んで?」
だからどうなのか、犬夜叉にはよく解りません。
「だから、あたしたちがこの二人の恋のキューピッドになってあげるのよ!」
「……」
他人の恋愛ごとなど別に知ったことではない犬夜叉には、ただただ面倒なだけでしたが、可愛い恋人の言に逆らえるはずもなく。
「しょうがねえなあ……」
「ねっ? お願い」
協力して? と愛らしく頼まれれば、まんざらでもない様子。
「で、どうすんだ?」
「んーと、まず、この人を最上階の蔭刀さまの部屋まで運んで」
「解った」
蔭刀王子の部屋の前です。
珊瑚姫を抱えた犬夜叉とかごめが、そっと中の気配を窺います。
「静かね。灯りも消えちゃってる」
「もう寝ちまったんじゃねえか?」
かごめは少し考え、
「犬夜叉、あんた、この扉開けられる?」
「壊してもいいのか?」
「馬鹿ねー、壊さずに中に入れるかって訊いてるのよ」
少々むっとした犬夜叉でしたが、口ではかごめに勝てません。
「結界を破る術なら知ってるぜ。それで応用できると思う」
腰に帯びていた半月刀をすらりと抜くと、赤い光を放ち出したその刀身で、犬夜叉は黒ずんだ木の扉に四角い切り目を入れました。
まるで切り取られたように、扉の中央に歪んで見える四角い空間が生まれます。
「ここから入れるぞ」
二人が──犬夜叉は珊瑚姫を背負って──中へ入ると、扉にできた歪みはすうっと小さくなり、跡形もなく消えました。
「ほらよ、やっぱり寝ちまってんじゃねえか」
蔭刀王子は寝台に横たわっていました。
「うーん、よく寝てるし、起こすのも可哀想かな」
今宵は満月なので、窓からの光だけでも室内の様子は充分に見て取れます。粗末な部屋でしたが、そこに眠る王子の姿は、月の光がそのまま人の形を取ったような麗しさでした。
「それより、どっちがきれーか、比べるんじゃなかったのか?」
「あっ、そうだった!」
かごめはぽんと手を打ち、蔭刀の身体に掛けられている夜具をめくります。
「ほら、ここ。お姫様を寝かせてみて?」
「はあ?」
「だから、並べて比べてみるんだってば」
いいのかよ? と口の中でぶつぶつ言いながら、犬夜叉はかごめに従います。
狭い寝台に、身体をくっつけるようにして、珊瑚姫を王子の隣に寝かせました。
「しっかし、こいつ、よく起きねえな」
と、ふと顔を上げると、かごめが蔭刀に向かって眠りの粉を振りかけているところでした。
優秀な魔術師に手抜かりはないのです。
「さて」
かごめは肩に掛けていた矢筒から魔術用の矢を取り出すと、鏃で石の床に三角形を二つ、逆向きに重なるように描きました。
するとそれは、床に砂金を撒いたような、微かに光る六芒星になりました。
「この六芒星の中に入って。これ、結界になってるから、そうしたら、外からあたしたちの姿は見えないわ」
言われるままに、犬夜叉は六芒星の結界の中に入りました。
ちょうど、寝台の王子と姫を足許から見下ろす位置です。
「ねえ、犬夜叉。犬夜叉は、蔭刀さまとお姫様、どっちのほうが綺麗だと思う?」
そんなことを訊かれても、答えようがありません。
暗夜を照らす満月のように優婉な姫と、その月の輝きが地上にこぼれ、人の姿をかたどったように艶麗な王子。どちらも玲瓏たる美しさなのです。
どっちを選べばかごめの気に入るだろうか、などと考えてみるも、妙案など思いつくはずもなく。
「判んねえ」
「そうよねえ。甲乙つけがたい美しさよねえ」
かごめは犬夜叉のひと言を違う意味に解釈したようです。
「他の人の意見も訊いてみよっか。──七宝ちゃん!」
すると、ぽんっと音がして、空中から可愛らしい子供が現れました。
ふわふわの尻尾を持つ狐の妖魔の七宝は、かごめの使い魔でした。
「呼んだか、かごめ?」
かごめは小さな使い魔にこれまでの経緯を簡単に説明しました。
「で、七宝ちゃんだったら、どっちの人が綺麗だと思う?」
「そうじゃのう」
大人びた口調と表情で、かごめの肩に乗っかった七宝は、寝台の二人を眺めました。
「しかし、美の基準など人それぞれじゃろ? 見る者の好みで意見も異なるのではないか?」
「じゃあ、七宝ちゃんの好みは?」
「姫のほうかのう。──そうじゃ、ひとつ方法がある」
犬夜叉とかごめは期待を込めて、小さな妖魔を見つめます。
「本人同士に決めさせればいいんじゃ。姫と王子を起こしてみて、相手に惚れたほうが負け、ということでどうじゃ?」
「さっすが七宝ちゃん!」
かごめは嬉しそうににっこりとうなずきました。
「犬夜叉、二人を起こしてくれない? あ、でも結界を出たら姿が見えちゃうか……そうだなあ、蚤とかに化けたら、気づかれないかな」
「言っとくが、おれは変化の術なんか知らねえぞ?」
「魔族のくせに、変化すらできんのか? これじゃから、半妖は……」
「こッ……の、ガキ! 人間の使い魔なんかやってる腰抜けが偉そうにほざいてんじゃねえ!」
「おらはかごめが好きだから使い魔をしておるんじゃ!」
「はいはい、二人とも」
呆れたかごめが二人の間に割って入ります。
「冥加じいちゃん、いるんでしょ?」
かごめの問いかけに、犬夜叉の髪の間から、本物の蚤がぴょーんと飛び出しました。犬夜叉の使い魔、蚤の妖魔の冥加です。
「冥加じじい、いつからいたんだよ」
「どうせ、犬夜叉にくっついて話を聞いてたんでしょ。冥加じいちゃん、二人を起こしてくれる? あ、一人ずつ交互にお願いね」
「やれやれ、かごめは人使いが荒いのう」
「おら、行ってこい」
犬夜叉に爪で弾かれ、冥加は寝台の上に飛び降りました。
2007.4.22.