葡萄姫
第八章 新たなる旅路
森の中の大樹の枝に腰掛け、膝で眠る雲母の背を撫でてやりながら、珊瑚は弥勒の帰りをじっと待っていました。
どれくらいの時間、待っていたでしょうか。
やがて、よく知った気配とともに軽快な足音が近づいてくるのを敏感に察知して、珊瑚ははっと顔を上げました。
「珊瑚? どこですか?」
「ここだよ、方士さま」
大面紗を脱ぎ、面紗だけをつけた珊瑚が、いきなり樹上から、ざざざっと飛び降りてきました。片手に雲母を抱いたままです。
「危ないでしょう! 驚かせないでください」
着地の勢いで二、三歩前へ傾いだ珊瑚の身体を受け止めながら、弥勒がたしなめます。雲母を地面へ下ろしてやると、珊瑚は面紗も取ってしまいました。
「そんなことよりさ、うまくいった?」
「はい」
弥勒は、にっこりと満面の笑みで珊瑚の手を取ると、右手の中指に彼女が失くした珊瑚珠の指輪をはめてやりました。
美しい姫の瞳がぱっと輝くのを見て、弥勒は満足げな表情を浮かべます。
「ありがとう、方士さま!」
はめた指輪を頬に押し当て、珊瑚は心からの感謝を方士に伝えました。
「やっぱりこの国の王子が持ってたんだ。よかった、捨てられてなくて」
心底ほっとしたらしい様子の珊瑚に、複雑な想いを抱える弥勒は、苦々しく吐き出すように、ため息とともに言いました。
「捨てるわけないでしょう。それはわざわざ王子がおまえの指から抜き取り、肌身離さず持っていたのですから」
「へっ? なんで?」
はあああ、と、弥勒は再び大きくため息をつきました。やれやれ。この姫の鈍感さには皮肉のひとつも言ってやりたくなります。
「おまえ、求婚されたのを忘れたのか?」
「……あ」
と口を開けたまま、二、三度、まばたきをする珊瑚姫。
方士は頭を抱えたくなりました。
「じゃあ、どうやって取り戻したの? 王宮ってそんなに簡単に忍び込めるわけ?」
「──おまえねぇ……」
どうしてそこで忍び込んだと決め付けるんだ、と方士は肩を落とします。
それでも珊瑚の疑問に答えるため、宮殿での王子とのやり取りを、かいつまんで説明しました。
珊瑚は大きく眼を見張ります。
「じゃあ、嘘ついたの、方士さま?」
「はい。それ以外に穏便に事を収める方法、あります?」
弥勒を見つめる珊瑚の表情が、やや落ち込んだふうに見えました。
それは弥勒の嘘を咎めているのではなく──
(そんなのって……)
珊瑚は、彼女のことを自分の妻であると言ったという弥勒の言葉に少なからずショックを受けていたのです。
それは、どんなに望もうとも叶うことのない夢。
故に、心の奥底に仕舞い込んで誰にも洩らさず、隠してきた想い。
珊瑚にとって大切に大切に秘めていたこの恋が、皮肉にも虚言として弥勒の口から出たことに、胸が絞め付けられるような痛みを覚えるのでした。
けれど、それはみな、彼女の指輪を取り戻すための芝居なのです。
弥勒を責めるのはお門違いだと考え、珊瑚は気を取り直して、方士に笑顔を向けました。
「方士さまに借りができちゃったね」
「借りなどとは水臭い。おまえのためなら、このくらい何でもありませんよ」
「……方士さまは、いつもあたしにいろいろなものをくれるけど──あたしは方士さまにあげるもの、何もないよ」
だからこそ、己の手で指輪を取り戻したかった。しかしそれも、弥勒がいなければさらにややこしい事態に陥っていたことでしょう。
しばし、珊瑚は考え込みます。
「ねえ。お礼がしたいんだ。方士さまにも何か欲しいものとか、してほしいこととか、あるかな?」
「何でもいいんですか?」
遠慮がちに尋ねる珊瑚に対し、弥勒は悪戯っぽい微笑を浮かべました。
「方士さまは何でも持ってるし、あたしがあげられるものなんて何もないかもしれないけど……」
「では」
含みのある笑顔で顔を覗き込まれ、珊瑚はややひるみます。そんな弥勒の望みとは──
「嘘から出たまこと、にしてしまいませんか?」
「は?」
彼が何のことを言っているのかが全く理解できず、珊瑚は頓狂な声で聞き返しました。
珊瑚の瞳を覗き込んでいた弥勒が、すっと彼女の耳元に唇を寄せます。
「私が王子に言ったことを、本当にしてしまう気はないかと言っているんです」
「王子に言ったこと……?」
弥勒の言葉を反芻し、首を傾けていた珊瑚は数秒後にはっと息を呑みました。その頬がみるみるうちに赫く染め上げられていきます。
「ほ──方士さま……」
消え入るような声でつぶやき、珊瑚は、微笑みながら自分を見つめる青年の顔をちらと見上げました。
弥勒にとって、自分はいつまでも妹のような存在に過ぎないと思っていた。──女として見てもらえることなどありえないと。
「うそ……」
「私の妻に、なってくれますか?」
はっきりと言葉にされてもまだ信じられず、戸惑う珊瑚はおどおどと視線を彷徨わせるばかり。そんな珊瑚の右手を取って、その甲に、弥勒はやさしく口づけます。
「おまえと──そうですな、国王が許してくださるのであれば」
思いもかけない展開に動揺する珊瑚へと眼を戻すと、弥勒はにやりと人の悪い笑みを浮かべます。
「まあ、国王に許していただけなければ、おまえを攫って逃げるまでですが」
「ち、父上は、とにかくあたしを結婚させたがってるから、認めてくれるんじゃないかな」
珊瑚の上擦る声には気づかない振りをして、弥勒は考えるように視線を上へ投げました。
「ええ、まあ。婚期云々とかそういうことよりも、今さら他国の王家へ嫁がせるのも気が進まんでしょうからな」
「そうなの?」
きょとんとする珊瑚を見て、弥勒はため息まじりに説明します。
「ほら、珊瑚は周辺諸国からの結婚話を全て撥ね付けてるでしょう? 今さらその中の一人に嫁せば、選ばれなかった他の王侯が黙ってると思います? 外交問題に発展しかねません」
男の嫉妬は恐ろしいですからなあ、とうそぶく弥勒は他人事のようです。
「そんな大袈裟な……」
「いえ、事実です。実際、私は国王からじかに相談を受けたことがありますから」
「……」
「そんなややこしい事態になるよりはと、案外すんなりと私におまえをくださるかもしれんな」
つまり、嫉妬というより王族の威信に係わる自尊心の問題なのだと珊瑚も納得しました。
「あの、方士さま……? 本当にいいの? あたしなんかで」
それでも素直になれない珊瑚はおずおずと口を開きました。
「回教徒は四人までしか妻を持てないんだよ?」
「あと三人、おまえ以外に妻を持ってもいいんですか?」
意地悪く珊瑚に投げかけられた言葉にはからかうような響きが含まれています。
うっと言葉につまった珊瑚の顎を、弥勒の指が捉えました。
そのままゆっくりと顔を近づけようとしたとき、突然はっとなった珊瑚が、顎を捉えている弥勒の腕を両手でがしっと掴みました。
その勢いに、さすがの弥勒もぎょっとしてひるみます。
「ああっ、もしかして! あたしと結婚するのは、父上のあとを継いで王になって、後宮を作るのが目的なんじゃ──」
完全にタイミングを逸し、がっくりとなった弥勒の額が珊瑚の肩の上に落ちてきました。
「おまえ……いったい私を何だと思っているんです」
弥勒の人差し指が、珊瑚の指輪をとんとんとつつきます。
「だいたいおまえはその指輪の裏を見たことがあるんですか?」
「えっ……?」
急いで指輪を外した珊瑚は、珊瑚珠を象嵌した幅の広い銀のリングの内側に文字が刻まれていることに初めて気づきました。
「え……え……?」
我ガ心 君ニ捧グ
さっと顔中に朱を散らす珊瑚は大きく眼を見開いたまま。
「四人も妻を娶る必要はありません。おまえ一人でいい。この世にただひとつの宝が私のものになるならば、他の女人など要りません」
これが彼の本心なのだろうか──
真っ赤になった珊瑚は、動揺のあまり、ぱくぱくと口を開けたり閉じたりするばかりです。そんな珊瑚の様子を窺い、今度こそ、とおもむろに紅色の頬に手を添える弥勒。
「私が手に入れたいのはおまえだ。国王の座は琥珀に継がせればよいでしょう。おまえをただびとにさせるのは忍びないが」
躊躇うように揺れた語尾に、ここで彼の気が変わっては大変と、珊瑚は慌ててぶんぶんと首を横に振りました。
「方士さまといられるなら、王女なんて身分は要らない。身分なんかなくったって、父上はあたしの父上だし、琥珀はあたしの弟だ」
それよりも、方士さまとともに生きることを選びたい──
「それでは返事は? 珊瑚」
「ア……アラーの御心に適うなら」
それは神に誓った承諾の言葉。
恥じらうように伏せられた珊瑚の顔を、弥勒の手がゆっくりと持ち上げます。
そして、二人の唇がそっと重なりました。
「帰路は雲母に乗らず、少しだけ歩いて帰りましょうか」
離した唇を珊瑚の耳にあて、甘くささやく弥勒の声。
少し旅をしませんか──
珊瑚の胸はどきどきと高鳴っています。今にも心臓が壊れそうなほどに。
二人きりの旅路。
それは、弥勒と寝食をともにすることを意味しているのです。
──この旅で、あたしは事実上、方士さまの妻になるのだろうか?──
もう一人きりで月を見上げることもない。夜は方士さまが一緒に……月を……
長い旅路、幾たびも弥勒と過ごすことになるであろう夜を思うと、恥ずかしさのあまり、うつむいたままの珊瑚は返事ができません。同時に、数年越しの恋がようやく実を結ぶことに、この上ない幸福感を噛み締めるのでした。
「珊瑚、何を考えている?」
「えっ?」
「おまえの考えていること、あててみましょうか」
「わぁあっ! あてなくていい!」
乳兄妹の方士と王女は、幼なじみの恋人となり、そう遠くない未来、身分を越えて夫婦となるのでしょう。
二人にとっての、新たな人生の旅路が始まります。
弥勒と珊瑚は、見つめ合い、やがて手を取り合い、故国に向けて歩を踏み出しました。
その旅がどのようなものになったのかは、神のみぞ知るところ──
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2007.6.22.
主人公のカマル王子に弥勒を配しなかったのは、女嫌いの王子という役どころにどうしても違和感があったから。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。