葡萄姫

第七章 指輪

「ここだな」
 にぎやかな街を上空から見下ろし、弥勒は小さくつぶやきました。
 視界に王宮らしき豪奢な建物も見えます。
「雲母、あちらに見える森に降りてくれ」
 弥勒の指示に小さな咆哮で応え、雲母は針路を森へと取りました。
 森に降り立ち、方士と姫君を地に降ろすと、雲母はもとの小猫の姿に戻ります。
「ご苦労だったな、雲母」
 弥勒が雲母の頭を撫でている間、珊瑚は面紗ベールをつけ、その上から大面紗イザールを被りました。
「これでいい? 方士さま」
「ああ。しかし、おまえは雲母とここで待っていなさい」
「なんで!」
 それでは自分がここまで来た意味がないではないか。
 珊瑚には納得がいきません。
「私の言うことに従う約束だったでしょう」
「う……」
「人目につかぬよう、樹にでも登って隠れているんですな。雲母、珊瑚を頼んだぞ」
 み、と小猫が承諾の印に愛らしく鳴き、傍らの姫君を見上げましたが、珊瑚は未だ釈然としていないようです。
 にっこりと笑顔を残して街のほうへ歩いていく方士の後ろ姿を憮然と見送っていました。

 弥勒がその街へ着くと、群衆がざわざわと立て札を取り巻いて騒いでいました。
「なんだ?」
 彼がその人だかりのほうへ足を向けると、大勢の大人たちの最後尾に、小さな子供がその立て札を覗こうと、ぴょんぴょんと必死に地面を蹴っているのが目に留まりました。
 なんとか割り込んで前へ行こうとしているらしいのですが、如何せん、小さすぎる身体では何の効果もありません。
 弥勒はくすりと笑みを洩らすと、その子供をひょいと抱え、己の肩に乗せました。
「おお、すまんのう」
 子供はませた口調で自分を担ぎ上げてくれた人物に礼を言います。
「これで立て札の文字が見える。……なになに。王子の病を治した者に、褒美を山と取らせると」
「おまえは魔物か?」
「おらのような可愛らしい子供が魔物に見えるか?」
「それは失礼したな。尻尾があるので、つい」
 尻尾のついた子供は、慌てて両手で己の尻尾を押さえると、こほん、と咳をしてみせました。
「ま、まあ、誰にでも間違いというものはある。おらは七宝じゃ。おぬしは異国の者か?」
「ええ。旅の方士で、名を弥勒といいます」
「ほう、方士なのか」
 幼い妖魔──七宝は、自分の真横にある人好きのする笑みを浮かべた若者の顔を覗き込みました。
「それはよいときに来たな。ほれ、あの立て札にある通り、この国の王子は臥せっておる。方士なら医学にも明るいんじゃろう? 治してやれば、たんと褒美がもらえるぞ」
 そして、七宝は方士の耳に小さな手を添えた口許を寄せ、さも重大な秘密を打ち明けるようにささやきました。
「じゃが、ここだけの話、王子の病は薬や祈祷では治せん」
「何故です?」
 そらとぼけた弥勒の問いに、七宝は腕を組み、勿体をつけた調子で言いました。
「実は王子は恋煩いなんじゃ」
「ほう」
「おぬしは異国人だし、それに親切な人間じゃから特別に教えてやるが」
 そう前置きをして、七宝は五日前の夜の出来事について、事細かく語り始めました。
 なりゆきで美しさ比べをすることになったこの国の王子と異国の姫君。その場の思いつきで、相手に惚れたほう──つまり王子が敗者となったこと。
 もちろん、当事者である王子と姫君は、そのような事情は全く知らぬことも。
「……と、そのようなわけで、王子はその姫にすっかりまいっておる。おらはその場にいて、一部始終を見ておったんじゃ」
「はあ、そういうわけだったんですか……」
 弥勒は吐息をつき、うんうんと一人うなずく七宝を呆れ果てた表情で眺めていました。

 七宝と別れたあと、弥勒は王宮を訪れました。
 正式におふれが出されているのですから、堂々と宮殿を訪ねることができます。
 彼は、珊瑚から預かった──というより他の男の持ち物を彼女が持っていることが我慢ならず取り上げたのですが──印章指輪に文を添え、王宮の番兵に託けました。
 弥勒は方士と名乗り、医術も心得ていると伝えたため、彼の文は早々に側近から王子のもとへと届けられます。
 届けられた指輪を見て、蔭刀王子は息を呑みました。それは、確かにあの夜、かの姫の指輪と交換した己のもの。
 また、文にはひと言、こう書かれてありました。
 ──王子の病の原因を知る者──
 弥勒は、さっそく王子の御前に呼ばれました。

「この指輪を持ってきた方士とは、そなたか」
 目の前で恭しく額手礼サラームをする黒衣の青年を、蔭刀王子は期待を込めて見つめました。
「指輪を持っていた姫を、そなたは知っているのだな? あの姫に会いたい。姫はどこにいる」
「おそれながら」
 と、弥勒は顔を上げ、穏やかに王子に視線を注ぎます。
「姫はこの国へは来ておりません。私は姫の代理の者。あなたが持っていらっしゃるであろう姫の指輪を返していただきに参りました」
 蔭刀はわずかに眉を上げ、右手の指にはめた指輪を見遣ります。
「そなたが姫の代理人ならば、私との間を取り持ってはくれまいか。私の指輪を姫の手に残した夜、私は姫に求婚した。私の正式な妃として、あの姫を迎えたいのだ」
 弥勒は眼を伏せ、静かに首を横に振りました。
「そのお申し出には応じかねます。何故なら」
 一旦言葉を切った弥勒の黒曜石のような瞳が、相手を威圧するように光を帯びました。
「姫はすでに私の妻だからです」
 蔭刀の眼が愕然と見開かれました。
「なんだと……? しかし、あの夜、姫は父君から結婚を勧められていると確かに──
「はい。父君である国王サルタンは姫が嫁ぐことを強く望まれていました」
「ならば──!」
 方士の視線がすっと王子の右手に流れました。
「あなたがご自身のものと交換された指輪をよくご覧ください」
 はっとした王子が、珊瑚珠を象嵌した銀の指輪を己の指から抜き取ります。
 その指輪の裏側には、文字が刻まれてありました。
 ──我ガ心 君ニ捧グ──
「それは私が姫に贈った指輪。求婚をしたのは私が先です。先に返事を聞く権利も、当然私にあるでしょう」
 蔭刀は言葉を失いました。
 驚愕の眼差しで、目の前の青年を見つめます。
「……それで、姫の返事は?」
「先刻、姫はすでに私の妻だと申し上げましたが」
 微かに細められた弥勒の眼には、それ以上の追求を許さない、厳然たる意志が込められています。
 身分や権力では、珊瑚の結婚相手として、当然、弥勒は王子である蔭刀には敵いません。王子の父であるこの国の国王から珊瑚の父へ正式な結婚の申し込みがあれば、己がいかに珊瑚を愛していようと太刀打ちできないことを、彼はよく心得ていたのです。
 それならばと、珊瑚をすでに人妻であると偽ったのでした。
「駄目だ。納得できぬ」
 大きく首を振った蔭刀は鋭く弥勒を睨め付けます。
「姫に会わせよ。姫の口から、じかに聞くまでは……」
「一国の王子ともあろうお方が、他人の妻に手を出されると?」
 口調も表情も穏やかなのに、弥勒の言葉がどこか冷たく響くのは気のせいでしょうか。
「ともかく指輪はお返しください。妻に、指輪を返してもらってほしいと頼まれておりますから」
 言葉につまった蔭刀は、しばらく指輪と方士の顔を見比べていましたが、強張った表情で、方士の掌に珊瑚の指輪を乗せました。
「では、せめて──姫の名を教えてくれぬか」
 絞り出すような声を聞き、弥勒は探るように王子を見遣ります。名を聞いたら、次はどこの国の姫なのかと尋ねてくるでしょう。
 珊瑚の素性が明らかになってはまずいのです。それでは、嘘をついてまで穏便に指輪を取り戻そうとしたことが無駄になってしまいます。
 弥勒は掌の指輪を見つめ、静かに王子に言いました。
「あの夜の出来事は夢だったのです。どうかお忘れください」
「どうしても会いたいのだ。名と、姫の国さえ教えてくれれば──
「まだお解りになりませんか。今の彼女は私の妻です」
「……」
 黙りこんだ蔭刀は、苦しげに表情をゆがめ、片手で額を覆いました。
「全てはアラーの思し召しです。お諦めなさい」
 低く諭すように言い、一礼した弥勒は、蔭刀王子のもとから退出しようと身を翻しました。
──待て」
 扉の向こうへ消えようとしていた弥勒が足を止め、振り返ります。
「姫の名を。……それだけでよい。教えてくれ」
 無表情に蔭刀を見つめる弥勒は、ゆっくりと深いため息をつきました。そして、
「葡萄姫」
 そう、ひと言だけ告げると、さっとその場を立ち去るのでした。

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2007.6.20.