絵姿に恋して −第一話−

「ありがとうございました、法師さま」
「いいえ。お役に立てて何よりです」
 弥勒は、正座をして頭を下げる屋敷の主人に向かって、手をついて丁寧にお辞儀を返した。
 立派な屋敷だった。
 この屋敷に雑魚妖怪が巣食っていたので、それを退治し、ついでにお祓いもすませたところだ。
 有り体にいえば、屋敷の外から妖気を感じた法師が勝手に押しかけて、半ば強引に妖怪を退治してお祓いまで執り行ったわけだが、気のよさそうな屋敷の主人は喜んでいる。
(ん……?)
 だが、まだ残る微かな妖気を感じ取り、弥勒は顔を上げた。
「ご主人、あの掛け軸は」
 若い法師の視線に気づき、屋敷の主人は微笑を浮かべた。
「ああ、よい絵でしょう? 描かれた娘の表情がまるで生きているようで」
 部屋に掛けられた掛け軸が弥勒の注意を引いた。
 微弱な妖気を発している。
 しかし、そんなことよりも、彼の心はその掛け軸に描かれた絵そのものに惹きつけられた。
 木々に囲まれた中央にうら若い娘が一人、誘われるようにこちらへ向けて斜めに身をひねっている。足許を顧みるその娘の面差しが、何ともいえず美しかった。
 弥勒は主人に向き直り、穏やかな人好きのする笑顔を浮かべて言った。
「ところで、今回の報酬ですが、あの掛け軸をいただけませんか」
「えっ? いえ、あれは……」
 主人は困ったように口ごもる。
「数日前に買ったばかりで、とても気に入っている品です。お礼は別のものをご用意いたしますので」
「いえ、実は」
 渋る主人に対し、弥勒は厳かな様子で勿体ぶったように話し出した。
「驚かせてはいけないので、黙っていようと思いましたが、あの掛け軸には邪悪な妖怪が取り憑いています」
「ええっ」
 主人が驚きの声を上げると、弥勒は静かに立ち上がり、掛け軸のそばまで歩み寄った。
 そして、懐から破魔札を一枚取り出して、掛け軸の表面に貼り付けた。と、途端に掛け軸は生き物のようにうねり出す。
「この分では、一刻も早く、お祓いをして燃やしたほうがいいでしょう。私にお任せください」
「ですが、この掛け軸には高い金を払ったのですよ。描かれた娘の瑞々しさに、さぞ高名な絵師が描いたものだろうと思いましてな」
「どこから購入なさいました?」
 主人は困ったような身振りをしてみせた。
「見知らぬ物売りです。あっ……ちょっと、法師さま」
 弥勒は主人の見ている前で掛け軸を外し、くるくるときれいに巻くと、封をするように破魔札を貼り付けた。
「これには落款もない。高名な絵師の品でないことは受け合います」
「えっ。で、では、騙された……」
「物は考えよう。あなたは高い買い物をされましたが、その品を代価に屋敷に巣食っていた妖怪が退治され、お祓いまでできたわけです。これも御仏のお導きでしょう」
「は、はい。そう……ですな」
 何やらこちらにも騙されているようではあったが、魅惑的な法師の態度に引き込まれ、屋敷の主人は大きくうなずいた。

* * *

 掛け軸を手に入れた弥勒は、茶屋の床几に腰掛けて、巻いた掛け軸を半分だけ開き、そこに描かれた娘をもう一度眺めた。
 屋敷の主人の言ではないが、本当に生きているようだ。
 もし、この美しい娘が実在するのなら、是が非にでも探し出して、己の妻になってもらいたい。妻になってもらえなくても、せめて子を産んでもらいたい。
 どうせ気ままな一人旅だ。
 駄目で元々、無駄足でも構わなかった。
 掛け軸を巻いて、破魔札で封じると、妖気が法力に反応し、綴じた紐が一定の方向を指し示す。
 それが何を示しているのか、とにかく、その方角に足を伸ばしてみようと弥勒は考えた。
 あの屋敷の主人がこの絵を手放したがらなかったように、自らもまた、この絵の魔力に囚われてしまったようだ。
 弥勒はやや自嘲気味に、しかしどこか楽しげに、苦笑した。


 ずいぶんと歩いた。
 妖気が指し示す方角へ歩き続けて三日が経った。
 これも絵の中の美女に逢うためだと思えば苦にもならないが、気のせいか、道はどんどん山奥に入っていく。
「美女ではなくて、妖怪に出くわしそうだな」
 ため息まじりにこぼす法師は繁みをさらにかき分ける。
 すると、突然、木立が切れて、前方に大きな湖が姿を現した。
 彼が手にした掛け軸、その綴じた紐の反応が強くなる。
(近いのか)
 我知らず胸がざわめき、弥勒は鼓動を抑えて辺りに人影を探した。
 不意に、湖から水音が起こり、弥勒はそちらを向いた。
 ぱしゃん。──また。
 あまり深くはない湖なのだろう。
 薄く霧がかかった湖の中ほどに立つ人の姿が見えた。
(……!)
 女。
 全裸だ。
 水浴びをしているのだろうか。
「……」
 鼓動が速くなり、弥勒は息をつめて湖のほうへと足を進めた。
 霧のため、女の姿は朧にしか見えない。
 弥勒は瞳を凝らした。
 しなやかな肢体の優美な曲線。豊かな胸乳とほっそりとした華奢な腰。そして、丸みを帯びた誘惑的な臀部からその下へすんなりと伸びた足。
 霧に透けて見えるそれらは、男を魅了せずにはおかない、蠱惑に満ちたものだった。
(顔……顔が見えない)
 それが本当に探している女なのか、確かめようと弥勒の気が逸った。
 掛け軸の妖気はまっすぐその人物を指している。十中八九、彼女だ。
 そのとき、疾風が駆けた。
 弥勒の視界が反転し、何か大きなものに強い力で四肢を地面に押さえ付けられ、自由を奪われた。
「なっ、これは……!」
 妖怪。
 二股の尾を持ち、焔をまとった赤い眼の大きな妖獣が、彼に覆いかぶさるようにして、弥勒の動きを封じていた。
 喉笛を噛み切られると覚悟した、そのとき、
「雲母!」
 凛とした艶のある声が響き、その声に反応した妖怪がわずかに力を抜いた。その一瞬の隙に、弥勒は錫杖を相手の躯に押し当て、強い念を送った。
 ぱしっと静電気のような火花が跳ね、苦しむ妖獣は、たちまちのうちに小さな猫へと姿を変えた。
「猫又か」
 息をついた弥勒が、はっと湖へ視線を向けると、こちらを見ていたらしい娘が素早く身を翻し、岸へ上がろうとした。
「……!」
 弥勒は娘を追いかけた。
「待て! 私は怪しい者ではない。妖をけしかける必要はない」
 娘は衣類が置かれた場所まで走り、その場に膝をついて叫んだ。
「来るな!」
 すぐ後ろまで追いついた法師のほうを振り返ることなく、娘は顔を伏せて衣類の下に置いたものを取り出そうとする。
 武器かもしれないと思った弥勒は、さっと身を乗り出し、娘の手を押さえた。
「おまえをどうこうしようというのではない。まずは話を聞いてください」
「……あたしを見るな」
 娘は裸のまま、身を強張らせ、威嚇するように低い声で言った。
「あたしの顔を見たら、生きては帰さないよ」
「これは物騒だな」
 弥勒は穏やかに言葉を返した。
「おまえの顔を見るためにここまで来たのです。目的を果たせば、あとは成り行きに任せますよ」
 娘は頑なに顔をうつむかせたままだったが、弥勒は彼女の頬に手をかけて、少しだけ顔をこちらへ向かせた。
 その顔を覗き込み、そして、絶句した。
「おまえ──
 顔がない。
 娘が法師の視線から逃れるように強引に顔を背けたので、くせのない長い髪が、さら、と肩から滑り落ちた。
 弥勒ははっとした。
 彼女は未だ一糸まとわぬ姿だ。
 見知らぬ男に肌をさらし、どんなに恥ずかしいことだろう。
 そんな状況で、彼女は身体を隠すより先に、顔を隠そうとした。自分はその顔を強引に見てしまったのだ。
「すみません──おまえを辱めるつもりでは……」
 立ち上がった弥勒は、そこにあった紅白の小袖を手に取って広げ、うずくまる裸形の娘の身体を包んだ。
「私の話を聞いてください。そして、どうしておまえに顔がないのか、その話も聞かせてください」
 娘は黙って小袖に腕を通し、たたんだ褶の下から取り出した面をつけて、顔を隠した。
「話すことはできますか?」
「……ああ」
 小さくうなずいた娘の足許に、意識を取り戻した猫又が駆けてきた。娘の手が小猫を抱き上げ、愛しげに小さな頭を撫でる。
「私は弥勒といいます。おまえの名は?」
「もし、おかしな真似をしたら、雲母にあんたを襲わせる。今度は手加減しないからね」
「ああ、解った。で、おまえの名を教えてくれますか?」
──珊瑚」
「こんな山奥に住んでいるのか?」
「身を隠している。この有様だから」
 弥勒は改めて珊瑚と名乗った娘を眺めた。
 潤沢な黒髪にすらりとした肢体。
 面で隠している顔の部分に、あの掛け軸に描かれていた花顔を当てはめると、さぞかし美しい娘になることだろう。
 しげしげと彼女を見つめる法師の視線に不信を感じたのか、珊瑚はぶっきら棒に言った。
「言っておくけど、あたしは妖怪じゃないよ。妖怪退治屋だ。不覚を取って、顔を奪われてしまったんだ」
「顔を奪われた?」
「そう。妖しげな紙に顔を吸い取られたんだ。だけど、退治屋の里の長の娘が、妖怪の術にかかったなんて聞こえが悪いから、一人で山に身を隠している」
「なるほど」
「信じられないならそれでもいい。ただし、あんたがここで見たことを言いふらされては困るから、あたしの顔が戻るまで、あんたはここにいてもらうよ」
「それは構いません。しかし、山にこもっているだけでは事態は進展しないのでは」
「解ってるさ! だけど、手掛かりを探そうにも、こんな顔じゃ迂闊に歩き廻ることもできないし」
「これが役に立ちますかな」
 弥勒が巻いた掛け軸に視線を落とすと、珊瑚は「あっ」と言って、彼の手からそれをひったくった。
「これ……どこで!」
 そして、紐をほどいて掛け軸を広げると、面を外し、描かれている娘の顔に自分の顔をそっと当てた。
 弥勒は彼女を見守っている。
「……」
「どうです?」
「……戻らない」
 悔しそうに娘はつぶやく。
 弥勒は無言で掛け軸を巻きなおし、そこに再び破魔札を貼った。
 すると、その顔の主に触れたためか、妖気の波動に変化が見られた。
「珊瑚。破魔札に反応する妖気の指す方向が変わった。今まではおまえの位置を示していたのが、今度は別の何かを指し示しているようだ」
 面をつけた珊瑚もはっとする。
「あたしに術をかけた妖怪がいる場所……!」
「行ってみる価値はありますな。行きますか?」
「もちろん」
 法師は微笑し、うなずいた。
「では、取り引きをしましょう」
「取り引き?」
「そうです」
 彼は諭すように、娘にゆっくりと言い聞かせた。
「私はおまえの顔を取り戻すのに力を貸す。顔を取り戻せたら、おまえは私の妻になる」
「はあ?」
 娘の返事が一瞬遅れた。
「……嫌だって言ったら?」
「この掛け軸、貸してあげませんよ?」
 珊瑚は唖然として、法師に食って掛かった。
「あんた、法師だろ? ただで人助けしたってばちは当たらないよ」
「そこは助け合いですよ」
 にっこりと笑む青年法師の言動に、珊瑚は呆れて言葉がなかった。

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2011.11.13.