絵姿に恋して −第二話−

 弥勒と珊瑚は、猫又の雲母を伴い、山を下りた。
 とにかく珊瑚に顔がなくては話にならないので、謝礼の件は保留にして、掛け軸の妖気が示す場所へ二人でおもむくことに決めたのだ。
 人里に出るため、珊瑚は面をかぶった上に被衣をかづき、用心深く顔を隠している。
 そのせいで愛用の武器を持参できなかったことが、彼女には心残りだった。
 街道を歩き、二人は大きな町に出た。
「今宵はこの町で宿を取りましょうか」
「まだ、歩けるよ。妖怪の気配はかなり遠いの?」
「珊瑚はせっかちですな。最初から無理をすると、あとが続きませんよ?」
 ねえ、と法師は肩の上の雲母に微笑みかける。
 珊瑚が被衣をかぶっているため、雲母は弥勒の肩に乗っていたが、すっかり彼に打ち解けた様子の猫又に珊瑚はやや不服そうだ。
 宿屋はすぐに見つかった。
「ひと部屋、頼めますか」
 そう宿の者に伝えた法師の袖を珊瑚は思いきり引っ張り、よろけた彼の耳元に、できるだけ声をひそめて叫んだ。
「何でひと部屋なの!」
「え、だってふた部屋も取ったら勿体ないでしょう」
「あたしたちは赤の他人で、あたしは嫁入り前なんだよ」
「だって、おまえの嫁入り先は……」
「まだ決まってない!」
 弥勒は娘をなだめるようにふわりと微笑し、彼女の耳元に口を寄せて、低く甘くささやいた。
「文句があるなら、自分で宿代をお払いなさい」
 珊瑚はぐっと言葉につまる。
 金子の持ち合わせなどない彼女は、路銀は全て法師に頼ることになる。
 それを言われては、おとなしく従うよりほかに仕方がなかった。

 障子を開け放つと夕陽が見えた。
「明日もいい天気になりそうですな。珊瑚、そんなところにいないで、こちらへおいでなさい」
 二人きりで宿の部屋に落ち着いてから、珊瑚はずっと壁際にくっついている。
「別に取って食いやしませんよ。何かあったとしても、おまえには雲母という頼もしい護衛がいるでしょう?」
「そ、そうだね、雲母がいるし」
 少し躊躇い、珊瑚は立ち上がって、窓辺に座る法師のそばまで用心深く移動してきた。
 何日も山に一人で身を潜めて、訪れる人間といえば、数日おきに様子を見に来てくれる弟だけ。人と話すのは久しぶりで嬉しくもあるのだが、法師のほうは、こんな顔のない女を気味悪く思わないのだろうか。
 立ったまま、じっと法師のほうを窺う珊瑚を、彼はちらりと見た。
「なんです?」
「あたしを怖いとか思わないの?」
「どうして?」
「普通、顔がなかったら、それは化け物だろう?」
 弥勒はちょっと微笑んだ。
「おまえは人間でしょう?」
「あたしがそう言ってるだけで、あの掛け軸の絵とあたしが関係してるって証拠は何もないよ」
 弥勒は立ち上がって彼女に近づくと、いきなり、遠慮の欠片もない手つきで彼女の胸に触れた。
「……えっ?」
 硬直する珊瑚にはお構いなく、やわらかさを確かめるように胸のふくらみを両の掌で押さえ、さらに下へ、身体の輪郭をなぞるように掌を滑らせた。
 細い腰を経由し、その手が珊瑚の後ろへ廻り、腰から下の女らしい曲線をこちらも確認するようにひと撫でする。
「なっ、なっ……」
「これは確かに人間のおなごの身体です。それも極上の」

 ぱーんっ!

 怒りに任せた平手が法師の頬を打ち、そのあと、珊瑚は法師と口を利かなくなった。


 顔を奪われてからの珊瑚は、腹も減らなければ喉も渇かないのだという。
 不思議なことだが、どちらにせよ、口がないのだから食べられないわけで、これも妖怪がかけた術の影響なのだろう。
 部屋に運ばれた夕餉を雲母と差し向かいで食べる弥勒は、壁にくっついたままこちらに背を向ける娘のほうへ、苦笑まじりの視線を投げた。
 少々やりすぎたと反省はしているが、実際に手を出そうとしたわけではなし、ふざけて身体を触ったくらいであんなに向きになって怒るとは思わなかった。
 気は強いが純情な娘だと、弥勒は彼女を可愛く思った。

 妖気の対象は常に移動しているらしく、なかなか正確な位置が捉えられない。
 二人だけで過ごす日々が、一日、二日と過ぎていった。
 弥勒は珊瑚を人馴れない仔猫のようだと思い、珊瑚は弥勒を掴み所のない面妖な男だと思った。
 そして彼女は、弥勒にとって何の得にもならない妖怪探しを──ふざけた交換条件は別として──どうしてここまで親身になって力を貸してくれるのだろうと、不思議に思うようになっていった。

 そんなある夜のことだった。
 夜半、ふっと眼を覚ました弥勒の隣の夜具に珊瑚の姿がない。
 はっとして身を起こすと、彼女は窓のところに座り、少しだけ障子を開けて、夜空を眺めていた。
「珊瑚」
 珊瑚は面をつけた顔を法師のほうへ向けた。
「起こした? ごめん」
「いえ。おまえこそ、どうしたのです?」
 少し口をつぐみ、彼女は沈んだふうに、窓のほうへと顔を向けた。
「……あたし、どうなるんだろう」
「心配せずとも、妖怪を探す旅の間、おまえには手を出さないと誓いますよ」
「そうじゃなくて。もし、掛け軸の妖気をたどっても、あたしの顔が戻らなかったら、この先、あたしは人として暮らせなくなる」
 弥勒はおもむろに立ち上がり、珊瑚のそばまで近寄った。
「座ってもいいですか?」
 彼女がうなずいたので、彼は静かにそこへ腰を下ろした。
「珊瑚。あまり思いつめないほうがいいと思いますよ」
「法師さまは他人事だから、そんなことが言えるんだよ」
 珊瑚が見上げる静寂が張りつめた夜空へと、弥勒も視線を放った。
 そろそろ空気が冷たくなろうかという季節、空には鮮麗に星が瞬いている。
──では、最悪の事態を想定して」
 あくまでも穏やかに揺るぎなく、弥勒は言った。
「万が一、顔を取り戻せないときは、私がおまえの今後の人生を引き受けよう」
「今後の?」
 驚いて振り返った珊瑚に、弥勒は彼女を安心させるようにうなずいた。
「さすがに顔がなくては人里で暮らすのは難しいでしょう。そのときは、おまえと二人、山奥でひっそり暮らすというのはどうです?」
「法師さま……」
 珊瑚は呆然とつぶやいた。
 あとがないと思いつめる珊瑚に、別の道もあると示し、彼女の肩の力を抜かせようとしてくれているのが痛いほど解る。
「嫌ですか?」
「どうして、知らない女のためにそこまで尽くすことができるの?」
 星明かりの下、じっと彼を見つめる珊瑚の見えない顔を見返して、法師は微かに笑った。
「理屈ではありません。ただ、おまえを守ってやりたい。それだけです」
 そして、彼はいくぶん照れくさそうに、珊瑚から眼を逸らせた。
「自分でも信じられんが、これが一目惚れというやつでしょう。いや、この場合、絵に封じられた珊瑚が私を呼び寄せたのかもしれんが」
「……呼んだ覚えはないよ」
「つれないことを言うな。まあ、基本、私はおなごが好きですから。美女は特に大好きです。尽くすのは何でもありませんよ」
「でも、あたしは……」
「もちろん、顔のある美女のほうがいいですが、顔がなくても美女は美女です」
 ふっと己の手に重なるぬくもりを感じ、珊瑚の心臓が大きく跳ねた。彼女の手に重ねた指に弥勒はそっと力を入れ、小さな手をやわらかく握った。
「最初に惹かれたのは絵姿の顔だ。でも、この数日の間に、どうやらおまえの気性に惚れたようだ」
「……」
 彼女が赫くなったのが気配だけで解った。微笑ましくなり、弥勒の口許に笑みが揺蕩う。
「あ、あたしにだって、選ぶ権利が……」
「無理に夫婦にならなくてもいい。もし、おまえが私のような男に嫁すのがどうしても嫌であれば、そうだな、一度だけ。唇を許してくれますか」
「い、嫌。初めてなのにどうして法師さまなんかと──
 握られている手を意識しつつ、どぎまぎと言い返す珊瑚ははっと口をつぐんだ。
「……初めて?」
 にわかに慌てたようになる珊瑚とは対照的に、弥勒は心底愛しそうにつぶやいた。
「それは嬉しいな」
 娘のほうへにじり寄った弥勒の腕が、ごく自然に彼女の肩を抱く。
「あ、あの」
「おまえが愛しい。だから、嫌われるようなことはしません。それより、顔を奪われてから、あまり眠れていないのでしょう? 人の体温に触れていると、少しは安心して眠れるかもしれませんよ」
 肩を抱き寄せられ、鼓動がうるさかった。
 しかし、それ以上に胸が苦しくて、でも、彼のぬくもりから離れたくなくて、身を固くして、珊瑚は法師の肩に遠慮がちにそっと頭をもたせかけた。

 気がつくとすっかり陽は昇っていた。
 障子越しの明るい光を見て、慌てて身を起こすと、彼女は自分が弥勒の夜具の中で眠っていたことに気づき、ひどく狼狽えた。
 夜通し抱きしめていてくれたのだろう。
 激しい動悸を抑えようとしていると、部屋の襖が開いた。
「おはようございます、珊瑚。よく眠れましたか?」
「お……おはよう。おかげさまで」
 どんな反応をすればいいのか解らなくて、そっけなく答える。
 弥勒は彼女が顔を洗うための水を盥に入れて運んできてくれた。これは、彼女が人前で面を外さなくてもいいようにとの気遣いだった。
 彼はいつも、そういったそつない気配りをしてくれる。
 その沁み入るような思いやりに、珊瑚はそっと感謝した。

 身支度をして、雲母を連れ、弥勒と珊瑚は宿の勘定を払って外へ出た。
 珊瑚はちらちらと法師の様子を窺う。
 夕べ、あったことは夢だったのだろうか。
(おまえが愛しい)
 彼は確かにそう言ったのに。
 陽の光のもとで見る弥勒は、昨日となんら変わることなく、淡々と掛け軸の妖気が示す方向を確認している。
 珊瑚は、深くかぶった被衣を両手で握りしめ、夕べのことを確かめたい気持ちと、そんなことを確かめようとするのが恥ずかしい気持ちの間で揺れていた。
「そういえば、珊瑚。おまえはその、顔を盗んだという妖怪の姿を見ているんですよね?」
「ああ。姿は人間だよ。だから、外見的特徴からは探しにくい」
「どんな風体でした?」
「いい男」
「……は?」
 どんなときでも穏やかだった弥勒の眉が、思いきりひそめられた。
「いい男の薬売り。その外見を手掛かりに、すぐ弟や仲間たちに妖怪を探してもらったけど、人間の中に紛れ込まれたらしくて、どうしても足取りを掴めなくて……どうしたの?」
「もう顔はあきらめて、私と山奥で隠遁しませんか?」
「なんでさ! 気楽にいけばいいって法師さまが励ましてくれたの、つい、夕べのことじゃないか」
 言い合う二人の間でじっと掛け軸の紐を見つめていた雲母が、鋭く鳴いた。
 弥勒と珊瑚もはっとしてそちらを見る。
「珊瑚、妖気の反応が強い。そのいい男はこの近くにいるかもしれんぞ」
「うん」
 珊瑚もうなずき、二人は妖気が示す方向へと歩き始めた。

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2011.11.20.