絵姿に恋して −第四話−
あるかなきかの風に睡蓮の花びらが揺れている。
そこにふわっと大きな風の流れが訪れた。
(ん? 法師さま?)
違和感を感じた珊瑚がふっと眼を開けると、彼女を抱き寄せていた薬売りの身体がいきなり消え、代わりに弥勒が現れた。
傍らには変化した雲母もいる。
その一瞬の間に、薬売りは弥勒に殴り倒されたらしく、葉の上に伏していた。
「珊瑚、無事か……って、なんです、その姿は!」
娘のほうを見た弥勒は、顔色を変えて彼女の衿元を凝視した。
小袖の衿が大きくはだけられ、白い肌が肩近くまで露出している。
「あっ、これは」
珊瑚はちょっと恥ずかしそうに、はだけた衿元を直した。
「ひどいことをされたな。だが、もう大丈夫だ。こんな奴は成敗してやる」
労わるように珊瑚を見て、弥勒は屹と薬売りを睨みつけた。
「ま、待ってください。破魔の力を使われると、私は消滅してしまう。それに、一度だけなら吸っていいってその人が……」
とんでもない薬売りの言葉に、弥勒はかっとなって相手の胸倉を掴んで叫んだ。
「ふざけんじゃねえ! 珊瑚の唇はきさまが簡単に吸っていいほど安かねえぞ!」
「ち、違……」
「法師さま、唇じゃない、血を吸わせてほしいんだって」
「血?」
珊瑚になだめられ、弥勒はしぶしぶ薬売りから手を離した。
「おまえは吸血妖怪か?」
「妖怪ではありません。妖怪の術にかかって人間の姿にされたのです」
薬売りは悄然とその場に座り直し、肩を落とした。
「せっかく人間になったのだから、少しの間、理想のおなごと一緒に暮らしてみたいと思っただけなのに……ようやく出会えた理想の人には逃げられるし」
はあ、と薬売りはため息をこぼす。
「常に居所を押さえるために顔を奪い、時間をかけてゆっくり口説こうと思ったら、顔を封じた掛け軸は盗まれるし。……あげくに理想の美しい人は、法師を連れて現れるし」
「なんかちょっと気の毒かも」
珊瑚がぽつりとつぶやいた。
当人が妖怪でなくても、妖怪の力で人間の姿になっている以上、強力な破魔の力でその存在は消滅させられるのだという。
「最後は思い余って力ずくで思いを遂げようとしたのですが」
「なんだと?」
愕然とした弥勒が珊瑚のほうを見たが、彼女は平然としていた。
「あたしは平気。接近戦には自信があるって言ったろ?」
薬売りがどんな目に遭ったのかは想像がつく。
「もう人間の世界は懲りました。元の姿に戻ります。それには、理想のおなごの血が必要なのです」
薬売りはさめざめと言った。
「それくらいなら、あたしも協力してやろうと思ってさ」
「事情は解った。だが、珊瑚の顔を返すのが先だろう?」
「ああ、そうでした」
いい男の薬売りは、傍らに置いてあった行李から例の掛け軸を取り出して広げた。
そして、珊瑚の手をそっと持ち上げ、確認する。
「いいですか? あまり痛くはないはずです」
「いいよ」
薬売りはその手の甲に唇を落とした。
唇を離すと、鋭い牙でつけられた小さな傷から、少しだけ血が滲んでいる。
その血液を掛け軸に描かれた顔の部分に付着させると、血はすうっと吸い込まれるように消えていき、絵姿から顔だけがなくなった。
「これで、あなたの顔は元に戻りましたよ」
「よかった!」
珊瑚はほっとしたように表情を緩めた。
「では、約束の血を」
「うん。吸って」
再び衿元をくつろげて、薬売りの腕に身を委ねようとする珊瑚を仏頂面で眺めていた法師が、白い喉元に口づけようとする薬売りの肩を、錫杖で軽くつついた。
「すでに手に血が滲んでいる。そっちを吸ってもらえませんか?」
「……はい」
いとも残念そうに薬売りは珊瑚の身体から身を離し、彼女の手を取った。
「さようなら、美しい人」
その手に口づけ、愛しそうに血を吸う。
刹那、疾風が吹き、数多の睡蓮の花びらが散った。
そこは何もない野の真ん中だった。
「う……」
気がつくと、弥勒と珊瑚と雲母は、その野に倒れていた。
身を起こした弥勒は狐につままれたような顔でつぶやく。
「いったい──」
幻術の世界から帰ってきたらしい。
振り返ると、傍らの珊瑚と雲母も、そろそろと起き上がろうとしていた。
「……あれ? いい男の薬売りは? 睡蓮の池は?」
不思議そうに瞳を瞬かせる珊瑚には、ちゃんと美しい顔がある。
落ちている掛け軸に気づき、二人はそれを広げてみた。
「これは……!」
珊瑚が描かれていたはずの掛け軸には、娘の姿ではなく、野に建つ小さな一軒家が描かれている。
薬売りを追って、二人が踏み込んだあの家だ。
「……」
絵の中の幻の世界に迷い込んでいたことを悟り、弥勒と珊瑚は顔を見合わせ、くすりと笑った。途端に手の甲にかゆみを覚えて、珊瑚はしきりにそこを掻く。
「どうしました?」
「かゆいの。まるで、蚊に刺されたように」
そこは薬売りが血を吸った場所だ。
「……蚊?」
弥勒と珊瑚ははっとして、それから同時に噴き出した。
笑い合う二人のそばで、雲母が嬉しそうに二つの尾をゆらゆらと揺らした。
一件落着した解放感で、二人は少しの間、野に寝転がって空を眺めた。
「法師さまは、これからどうするの?」
「そうだな。おまえを退治屋の里まで送っていって、そのあとはまた、一人で気ままに旅でもしますよ」
珊瑚は考えるように沈黙したが、
「報酬の件だけど」
と、唐突に言った。
「報酬?」
「あたしの顔を取り戻してくれた、法師さまへの報酬」
弥勒は軽く眼を見張って、隣の珊瑚へ顔を向ける。
「いいんですか? 嫌なら無理にとは」
「……法師さまが嫌ならいい」
「とんでもない!」
弥勒は身を起こし、寝転んだままの珊瑚の顔を覗き込んだ。
「でも、おまえは初めてなのだから、今すぐここで口づけを交わすのではなく、景色のいい場所で夕暮れ時にとか、月見酒を楽しみながらとか、雰囲気のあるときのほうがいいでしょう」
「そっちじゃない。最初の約束のほう」
恥ずかしそうな珊瑚の声に、弥勒は心底驚いた表情をした。
娘は照れくささを押し隠すようにぶっきらぼうに起き上がって、弥勒から顔を逸らした。
「あたしも、一緒に行っていいかな」
「え?」
「法師さまが、まだ、あたしのこと、嫁にもらってもいいって思ってるなら。ついていきたいんだ。法師さまの旅に」
彼女は彼の顔を見ずに言った。
「珊瑚、あの……それは」
「いいよ」
と、珊瑚はゆっくり答えた。
「あたし、考えてもいいよ。法師さまと一緒になること」
雲母がころんと寝返りを打って、気を利かせるように向こうを向いた。
「あたしたちには、たぶん、もっと互いのことを知る時間が必要だ。だから……」
恐る恐るといったふうに、彼女が法師をちらと窺うと、弥勒は間髪いれずに彼女を力いっぱい抱きしめた。
「きゃっ……」
勢い余って抱き合ったまま、二人は野に転がった。
「一緒にあちこちを旅してもいい。婿入りをしておまえの里に住んでもいい。夫婦になって、二人で生きていこう。おまえが愛しい、愛しくてたまらない」
地に倒れた珊瑚の肢体に覆いかぶさったまま、弥勒はその肩の辺りに顔を埋めた。
「里の父に会ってくれる?」
「もちろんだ。だが、それはさすがに緊張するな」
「法師さまでも緊張するんだ」
「当たり前でしょう」
くす、と笑った娘の肩に、弥勒はさらに頬を押し付けた。
珊瑚はそっと法師の身体に腕を廻し、遠慮がちにその背に手を添える。
瞳を上げると、どこまでも広がる青空が見えた。
* * *
雲母に乗って、珊瑚が仮住まいをしていた山小屋に戻ると、十歳ばかりの少年が、所在なげにたたずんでいた。
法師と娘を乗せた雲母が地に降り立つと、少年は驚きの表情で二人と一匹に駆け寄ってきた。
「姉上!」
「琥珀、来ていたの?」
琥珀と呼ばれた少年は、雲母から降りた珊瑚に紙切れを突き付け、咎めるように言った。
「“手掛かりを掴んだ 顔を取り戻しに行く”、こんな短い書き置きじゃ、心配するよ」
だが、すぐ嬉しそうな笑顔になって、姉の顔を見つめた。
「顔、無事に取り戻せたんだね、姉上。本当によかった」
珊瑚は微笑してうなずき、背後にいた法師を琥珀に紹介した。
「この人が力を貸してくれたから、あたしは顔を取り戻すことができたんだ」
「弥勒と申します。珊瑚の弟ですな。よくできた弟だと、姉上から話を聞いていますよ」
「は、はじめまして」
姉から法師に視線を移し、琥珀は恥ずかしそうに頭を下げる。
珊瑚はそんな弟にそっと言った。
「法師さまは、おまえの義兄上になるかもしれない人だよ」
琥珀ははっとして、顔を上げた。
珊瑚がもとに戻ったことを、一刻も早く、里の父や仲間たちに知らせたい琥珀は、雲母に乗って、ひと足先に帰ることになった。
珊瑚は山小屋で使っていた物を整理し、ここを閉じてから、明朝、弥勒と徒歩で里に向かう。
空を駆けていく猫又と少年を見送ったあと、弥勒は悪戯っぽく珊瑚のほうを振り返った。
「いいんですか? 早々に夫婦になると告げてしまって。もう、後戻りできませんよ?」
娘はほんのりと頬を染めて、瞳を伏せた。
「法師さまには、裸を見られたし、身体に触られもしたし、責任取ってもらわないと。もう、他の男のところへは嫁にいけないもの」
すると、弥勒は可笑しそうに笑い出した。
「な、何よ」
「珊瑚はよほど大切に育てられたのだな。そんなことくらいで責任を取らなければならないのなら、私は両手の指では足りないくらいの妻を娶らねばなりま……」
はっとして彼女を見遣ると、珊瑚が怖い顔でふるふると震えている。
「──浮気者」
声のトーンが異様に低い。
「お、落ち着け」
「法師さまの馬鹿! あたしを妻に欲しいって言ったくせに……!」
「待ちなさい、珊瑚!」
泣き出しそうになって、家の中へ駆け込もうとする珊瑚の腕を素早く掴んで引き寄せて、弥勒は彼女を己の腕の中に閉じ込めた。
そして、惑う瞳を覗き込むと、桜色の唇に、一瞬だけ、自らの唇を重ね合わせた。
珊瑚は大きく眼を見張る。
「おまえで最後だ。いろんなおなごを見てきたが、私にとって、おまえ以上の娘はいない」
「……」
「私と夫婦になって、私の子を産んでくれ」
「は……はい」
信じられないような面持ちで彼の顔を見つめていた珊瑚は、やがて、恥ずかしそうに法師の胸に額を押し当てた。
「法師さま」
「なんです?」
「あの、しちゃったね」
──初めての口づけ。
「ああ、悪かった。つい。あまり甘い雰囲気ではなかったな」
「ううん。すごくどきどきしてる」
法衣を握りしめる可憐な娘を愛しそうに抱きしめて、弥勒も声をひそめてささやき返した。
「実は私も、どきどきしてるんですよ」
絵姿に恋して、描かれた娘に出逢って、本気の恋に落ちた。
顔を奪われ、顔を封じた絵を持つ青年と出逢い、初めての恋を知った。
宝物のような二人の恋は、ここから始まる。
≪ 第三話 〔了〕
2011.12.4.
呪いのない法師と惨劇に遭遇していない珊瑚が、出逢って、恋に落ちるまで。