絵姿に恋して −第三話−
退治屋の里に病人が出て、薬師を探しに行ったのがきっかけだと珊瑚は言った。
「近辺の村には薬師がいないんだ。ちょうどそのとき、よく効く薬を持っているいい男の薬売りがいるという噂を耳にしてさ」
「その薬売りが妖怪だった?」
被衣の奥で珊瑚はうなずく。
「そう。ようやく探し出してみれば、薬を渡す代わりにあたし自身を要求されて。断ったら、そいつが持っていた掛け軸に、あっという間に顔を吸い取られてしまったんだ」
法師は不機嫌そうにため息を洩らした。
「おなごの弱みにつけ込んで、無体な振る舞いに及ぼうなど、なんと卑劣な」
「法師さまも、あんまり変わらないけどね」
「私は断られたとしても、そんなひどい嫌がらせはしませんよ」
やれやれというふうに、弥勒は珊瑚を見遣った。
「それで、おまえを待っていた病人は大丈夫だったのですか?」
「うん、退治屋の里にあった薬で何とかなった」
珊瑚は悔しそうに言葉を続ける。
「結局、あたしは判断を誤って、自分の手落ちで顔を奪われたんだ。妖怪退治屋のくせに、情けないよね」
「当ててみましょうか」
弥勒はそんな彼女を見てくすりと笑った。
「珊瑚が里を離れて山に身を潜め、一人で問題を解決しようとしたことに、おまえの家族や仲間はさぞかし心配して反対しただろうな」
「そりゃね。反対はされたけど……なに笑ってんの、法師さま」
周りに迷惑を掛けまいと、強がって、何もかも一人で背負い込もうとする娘の姿が目に浮かぶ。
彼女が切羽詰まってしまう前に出逢えて、本当によかった。
珊瑚の顔が取り戻せるなら、たとえ、そのときが自分たちの別れとなっても、それでいいと弥勒は思った。
いつの間にか町の外に出ていた。
街道には木立が多くなり、このまま進めば山道へ入ってしまう。行き交う人の姿もない。
すると不意に、前方から行李を背負った一人の若い男がやってきた。
「あっ!」
そちらを見た珊瑚が叫ぶ。
「いい男の薬売り!」
「えっ?」
弥勒は娘と男を見比べる。
その人物も、珊瑚の姿を認めて叫んでいた。
「あなたは理想の美しい人……!」
それは、きらきらきら、と輝くような美青年だった。
だからどうということはないが、なんとなく弥勒は面白くない。
「ああ! 探していた。こんなところで出会えるなんて」
珊瑚に駆け寄ろうとする薬売りの前に、法師がすっと立ちふさがった。
「こちらもおまえを探していた。さあ、すぐに珊瑚の顔を返してもらいましょう」
弥勒は薬売りに、手にした掛け軸を突き付ける。
「これをどこで! 美しい人、やはり、あなたが私のもとから盗んだのか」
「えっ……?」
驚いて眼を見張った弥勒と珊瑚は、探り合うように互いを見た。
「おまえが盗んだのか?」
「あたしじゃないよ。絵を持っていたのは法師さまじゃないか。……法師さまが盗んだの?」
二人はひそひそと確認する。
「違いますよ、人聞きの悪い。ある屋敷でいただいたんです。そこでは物売りから買ったと言っていました」
「じゃあ、何? 絵は薬売りのもとから盗まれて、そこへ売り払われたってわけ?」
「結構高く売れたようですよ」
薬売りが咳払いをした。
「どちらでもいい、とにかくそれは返していただこう。そして、美しい人、あなたも私とともに」
突然、弥勒の持つ掛け軸が生き物のように跳ね、彼の手から飛んだ。
それはぱしっと薬売りの手に収まり、と同時に、珊瑚の身体も一緒にふわりと浮き上がりそうになったので、弥勒は素早く彼女の腕を掴んで引き寄せた。
法師が懐から取り出した数珠を娘の手首にはめると、彼女の身体の浮遊は収まった。
「……あ、ありがとう、法師さま」
「おとなしく珊瑚の顔を返す気はないようだな」
屹と薬売りを睨んだ弥勒が破魔札を構え、薬売りははっとなる。
「破魔の札──!」
「破魔の力は苦手か。やはり、妖怪」
薬売りはじりじりと後退さった。
「美しい人、顔は預かる。あなたもすぐに私のもとへ来てもらう」
「逃がすか!」
薬売りを捕らえようと、弥勒と珊瑚、そして雲母は前へ走り出しかけたが、彼はいきなり、ふっと空中に消えてしまった。
「みう」
目標を見失って戸惑う弥勒と珊瑚を誘導するように、雲母が小さく鳴いて駆け出した。
二人は雲母のあとについて走り、街道を逸れ、林の中へと入った。
一軒の民家がある。
それは、これ見よがしに二人と一匹の行く手をさえぎるように建っていた。
「……罠かな」
「……どう見ても罠ですな」
林を抜けた、野の中の一軒家であった。
「武器を置いてきたのは、やっぱり悔やまれるな」
悔しげに言う珊瑚を、弥勒は考えるように振り返った。
「珊瑚、おまえはここで待っていなさい」
「どうしてさ!」
「罠だと判っていて、こんな小さな家に二人で踏み込むこともあるまい。おまえの顔は私が必ず取り戻す。珊瑚はその数珠を腕から外さぬようにして、ここで待機していなさい」
「嫌だ。法師さまを巻き込んでしまったけど、これはあたしの問題だ。待機するなら、法師さまがここで待っていて。隠し武器はつけているから、接近戦に持ち込めば、自分で何とかできる自信はある」
「駄目です。おまえから目を離すわけにはいかん」
矛盾した彼の言葉に、面の下で小さく珊瑚が笑ったようだ。
「じゃあ、一緒に踏み込もうよ、法師さま」
「……おまえには敵いませんな」
珊瑚はその場で被衣を取り、二人は一緒に民家の扉を開けた。
探るように一歩、家の中に足を踏み入れ、すると、
「うわっ……!」
「きゃああっ!」
そこは崖だった。
家の中とか玄関とか、そのような大前提は無視された出来事に、二人は足を踏み外し、雲母も二人に巻き込まれ、問答無用でまっさかさまに崖から落ちた。
何かに引っ掛かり、珊瑚の手首の数珠の糸が切れ、数珠玉がばらばらと辺りに散らばった。
「いた……」
崖の底には何かの蔓が一面にはびこっていたので、落下の衝撃はかなり和らげられた。
それでも全身を打ち、痛いことには変わりなく、身を起こした珊瑚は眉をひそめて手首を見た。
「ごめん、法師さま。せっかくはめてくれた数珠が……」
弥勒のほうを見遣れば、彼は大きく眼を見張って彼女を見ている。
「珊瑚──おまえ……」
「え?」
彼の視線をたどって自分の顔に触れた珊瑚は、自分が面をつけていないことに気づいた。
そればかりか、眼も、鼻も、口もある。
「あ、あたし──!」
顔がある。
驚き、信じられず、微かに顔を綻ばせて法師のほうへ目をやると、彼は、怖いほど真剣に珊瑚を見つめていた。
「法師さま、あたし、顔が……」
躊躇いがちに声をかけると、我に返った弥勒は、まぶしそうに微笑した。
「本当に美しいですよ、珊瑚」
想像以上の美しさだ。
絵姿の顔よりも、それを珊瑚の顔のない部分に当てはめて想像した姿よりも、実際の彼女の清楚で可憐な美しさは沁み入るように心に訴えかけるものがある。
だが、民家の扉を開けると崖の底に出たという奇妙な事実から、彼女の顔が戻ったのもまた、一時的なまやかしの可能性が高い。
「幻術ですな」
と、弥勒は言った。
「掛け軸を手に入れた薬売りが、素直におまえの顔だけを返すとは思えません。奴はどうにかして、おまえの身を奪おうとするだろう」
「あたしたちは掛け軸だけを取り戻しても駄目ってことだね。どうすれば本当にあたしの顔が戻るのか、それを薬売りから聞き出さないと」
「ああ。薬売りを捜そう」
二人は立ち上がろうとしたが、そのとき、足許の無数の蔓がうねり出した。
雲母が変化して二人を空中に運ぶ暇もなかった。
うねる蔓の束がまるで十重二十重の波のように、二人の身体を持ち上げ、移動を始めた。
「珊瑚!」
「法師さま……!」
蔓の波に流される弥勒と珊瑚は、互いを気遣いながら、そこから逃れるべく、辺りに視線を走らせた。
大きな木がある。
「珊瑚、あの木へ移るぞ」
「解った」
まず、弥勒が足許の蔓を蹴った。
身軽に樹上へ身を移し、珊瑚へ向かって錫杖を差し伸べた。
「掴まれ!」
雲母を肩に乗せた珊瑚も、手を伸ばしてしっかりと錫杖を掴むと、流れる蔓の束を蹴って、枝の上の法師のもとへと軽々飛び移ってきた。
木の上へ逃れた二人は、無言で地上の蔓の氾濫を見守っていたが、ふと、視線を感じた珊瑚が法師を顧みると、彼女を見ていたらしい弥勒がふっと笑った。
同じ太い枝に腰掛けて、少し手を伸ばすだけで触れる距離にいる。
珊瑚は鼓動が走り出すのを感じた。
「法師、さま……」
呼びかける声がかすれてしまう。
不意に弥勒の手に腕を掴まれ、ぐいと引き寄せられ、息がつまった。
漆黒の深い瞳に見つめられ、まっすぐに見据えられ、それを見返す珊瑚は、彼がかなり美しい顔立ちをしていることに初めて気づいた。
見惚れていると、少しだけ身を乗り出した弥勒が、ゆっくり顔を近づけてきた。
(……!)
刹那、心臓が止まりそうだった。
たとえば、今ここで、顔を背けても、彼の手を振り払っても、弥勒は決して怒らないはずだ。
だが、この場合、眼を閉じるのが一番ふさわしい動作であるように思われて、珊瑚はそっと瞼を閉じた。
彼女の唇に触れようとする、彼の唇の気配を感じた、そのとき。
「みゃあ!」
鋭い雲母の警告の声も虚しく、二人は空中に放り出された。
地上をうねる蔓が勢いを増し、木の上までその手を伸ばしてきたのだ。
変化した雲母が上手く拾えたのは、弥勒一人だった。
蔓の波に攫われた珊瑚はどんどん遠くへ流されていく。
「法師さまー!」
「珊瑚!」
珊瑚の姿はあっという間に見えなくなってしまった。
このまま薬売りのもとまで運ばれるのだろう。
「珊瑚、すぐに行くからな」
法師を背に乗せた雲母は、娘の気配を追い、滑るように空中を駆けた。
しばらく飛行を続けると、景色が変わった。
大きな池が広がり、その池の上に、巨大な睡蓮の葉がいくつも浮かんでいる。
無事でいてくれと祈るような思いで彼女の姿を捜していると、ところどころ睡蓮の花が咲く中、前方の大きな葉の上にうずくまる二つの影が弥勒の目に飛び込んできた。
「珊瑚──!」
全身の血が逆流するかと思った。
弥勒が見たのは、薬売りが珊瑚を抱き寄せ、その首筋に顔を埋めようとしている光景だった。
2011.11.27.