深見の里 −其ノ壱−
時は室町、戦国の世。
気のおもむくままに各地を巡り、旅を続ける風来の法師がいた。
法師の名を弥勒といった。
目的地を定めず、気に入った土地を見つけると、その村に簡素な庵を結び、逗留する。
再び旅へと気が向くまで、ひとつの村に長く滞在するときもあれば、わずか数日でその地を去ることもあった。
そんな生活を始めてから、もう五年は経つだろうか。
法師と名乗るからには、一応、彼も御仏に仕える身ではあったが、この弥勒法師、肉は食す、酒はたしなむ、女は好む、依頼を受ければ殺生をも──人に害をなす妖怪に限るが──厭わない。
剃髪さえしておらず、人々をして破戒と言わしめるありとあらゆることをやっていながら、それでいて、内面には驚くほどの高潔さを秘めている。
飄々と憎らしいほど自然体で、己が心に逆らうことなく生きる様は、不思議と人を惹きつけた。
彼は、そんな不可思議な魅力を持つ人物であった。
弥勒法師がその村を訪れたのは、つい三日前のことであった。
それほど大きくもないが、小さくもない、ごくありふれた──だが平和な村だった。
名主の家の離れを借り、そこを仮の住まいとした。
この村に心惹かれるものはない。おそらく、すぐに旅立つことになろう。
遊行の身を快く歓待してくれた名主に対しての心ばかりの謝意を込め、その日、彼は村の各家々に邪気祓いの護符を配って廻り、明日はこの村を発とうかと考えていた。
人当たりがよく、話術も巧みな、見目麗しいこの若い法師が明日旅立つと告げると、訪れた家の若い娘たちは、例外なく残念そうな顔を見せた。
その一人一人に弥勒は微笑み、そのうち、またこの村を訪れますから、などと心にもない言葉をやわらかな笑顔とともにすらすらと並べ立てるのだった。
娘たちに引きとめられていたため、村内の各家を廻り終わった頃は、すでに夕刻であった。
(さすがに疲れた……)
大きく伸びをして、法師は最後に村を一周歩いてみようと思い立つ。
日暮れが近かったが、この村で最も気に入った場所──瞑想の場として使っていた森へと、弥勒は足を向けてみた。
(はて……こんなところに洞窟が?)
たった三日の滞在ではあったが、静かで心地のいいこの森を、法師は隅々まで散策したはずだ。
しかし、今、彼が立つ眼の前には、前回ここを訪れたときには確かになかったはずの空洞が、ぽっかりと口を開けている。
(私の記憶違いだろうか)
なんとなく気を惹かれた弥勒は、夜の訪れが近いことも忘れ、手にした錫杖の音を響かせながら、洞窟の中へと足を踏み入れた。
ずいぶん歩いたような気がする。
もしかしたら、ほんのわずかな時間だったかもしれない。
「これは……!」
真っ暗だった洞窟が突然ひらけたと思うと、そこには見渡す限りの花畑が広がっていた。
紅紫咲き乱れる美しい牡丹の苑であった。
不思議なことに、天上からはやわらかな陽光が降りそそぎ、あでやかな大輪の牡丹の花々を、より一層、美しく見せている。
弥勒は感嘆のため息をついた。
「桃源とは、このようなところをいうのか」
あるかなきかの微風に花びらをそよがせる数多の花々を傷つけないよう、慎重に弥勒は苑の中へ歩を進めた。
赤や白や紫や黄色──その花びらの様相も、彼がまだ目にしたことのないような、さまざまな種類が見受けられる。
どの花も、見事なものだ。
弥勒はそっと、傍らの白い牡丹に手を伸ばした。
「人の手が加わった様子はない。野生のものなのか……ならば、花を手折ることを許してもらえるだろうか」
まるで言葉を解する相手にするように、弥勒は白い牡丹に語りかけ、承諾の印のようにその花が花弁を大きく揺らせると、優雅な手つきでそれを手折った。
「ありがとう」
牡丹の花に向かって微笑むと、法師は再び顔を上げて苑全体を見渡した。
「……この村には、今しばらく滞在することになりそうだな」
白い花に口づけた法師が、洞窟の向こうへ戻っていく。
その後ろ姿を見送るように、花たちは風もないのに一斉に花びらを震わせた。
村の名主の許可を得て、弥勒は森に近い場所に小さな庵を結んだ。
村の者でさえ誰も知らないらしいあの牡丹の苑を見つけてから、彼は、毎日欠かさず洞窟を通り抜け、牡丹の花を愛でにおもむいている。
村の年頃の娘たちは、美しい法師が村への滞在期間を延ばしたことを喜んだ。
弥勒は、早朝に勤行を済ませると、朝餉もそこそこに牡丹の苑へおもむく。それが日々の日課となっていた。
しかし、何故これほどまでにあの苑に惹きつけられるのかは、彼自身にも解らなかった。
午後は、未の刻を過ぎた頃になると、家事や畑仕事の合い間を縫って、村の娘たちが毎日のように法師の庵を訪れる。陽気のいい季節なので、たいていは村外れの小高い丘で、娘たちは法師を取り囲み、談笑にふけるのだった。
若い娘たちとの戯れは法師の好むところだったので、法師のほうもまた、娘たちと過ごすこのひとときを楽しんでいた。
見目よい娘を見つけると、あの苑で牡丹を手折り、そっと贈ることもある。そんなとき、娘は必ずうっとりと頬を染め、弥勒への想いをほのめかすのだった。
ただ彼は、苑へだけは、どんなに美しい娘であろうと伴うことをしなかった。
苑の花たちは、法師の訪れを待っているように見えた。
佳人が微笑むように花びらを震わせ、葉を大きく広げて法師を迎える。そんなとき、花顔、という言葉が脳裏に浮かぶ。
そんな牡丹の群れの中に、ひときわ美しく、弥勒の目を惹く一輪があった。
薄絹のような繊麗な八重の花びらを持つそれは、薄紅と白の濃淡が美事な花であった。
その花を目に留めてからの弥勒は、牡丹の苑を、というより、その一輪の牡丹を愛でるために、苑へ通うようになった。
毎日、その一輪の姿を確かめ、その一輪に微笑みかける。
しかし、どうしてか他の牡丹にするように、摘んで、持ち帰ろうとは思わなかった。手折ることすら、はばかられた。
「何故だろう。私はおまえに恋をしているのだろうか」
そんな自分に、弥勒は苦笑する。
そのような日々が幾日か続いたある午後。
常のように、村娘たちに囲まれ、丘の上で彼女たちの手相を見ていた弥勒は、ふと、視線を感じて、顔を上げた。
村娘たちが集う丘に程近い木立の陰から、こちらを窺う一人の娘の姿があった。
娘は、紅と白に染め抜いた小袖をまとい、緑の褶をつけている。
「……?」
この村にあのような娘がいただろうか。
村内の若い娘の顔なら全て記憶している弥勒は、小首を傾げる。
しかし、何故だか、懐かしい感じがした。
声をかけてみようと口を開きかけると、弥勒と眼が合ったその娘は、驚いたような表情になって、物馴れない仔猫のように身を翻し、その場を去った。
日々は流れる。
未の刻になると、弥勒を慕う娘たちが丘に集うのがすっかり恒例となっていた。
娘たちは各々の仕事をできるだけ早く片付け、少しでも長く、少しでも法師の近くへ寄ろうと場を奪い合う。
そんな物言う花たちに囲まれ、雅やかに微笑む弥勒は、あの日以来、この時刻になると必ずここを訪れる紅白の小袖の娘に気づいていた。
彼女は、決して弥勒の周りの娘たちの輪の中に入ろうとはせず、弥勒と眼が合うと逃げてしまう。弥勒は、彼女に気づかぬ振りを装いながらも、いつも彼女の気配を肌で感じていた。
娘たちの笑い声が絶えない華やかな場にあって、いつしか、弥勒はその娘が訪れるのを心待ちにし、視界の端にその娘の姿を探すようになっていた。
* * *
未の刻であった。
いつものようにいつもの木立の陰から丘のほうを窺うが、そこには人ひとりいない。
「あ、あれ……」
あの法師は遊行の身だと聞く。
すでにどこかへ旅立ってしまったのだろうか。
そろそろと樹の陰から出て、丘の上の様子を確かめようと身を乗り出した娘の肩を、突然、ぽんと叩く手があった。
「きゃっ!」
驚いた娘が振り返る。
「……え? あ、あの──」
娘は絶句する。
すぐ後ろに、やわらかな笑みを湛えた法師が立っていた。
「いつも、ここに来ているな」
戸惑ったような顔を見せる娘が逃げ出してしまわぬよう、できるだけ穏やかに、法師は言葉を紡ぐ。初めて娘の顔を間近で見た弥勒は、ほう、と感嘆のつぶやきを洩らした。
娘はそれほど美しい。
長い垂髪は思わず手を触れたくなるほど艶やかで、額髪がかかる両の頬は羞恥のためか、薄紅に染まっている。
目縁に細く朱を刷いた切れ長の眼は恥ずかしげに伏せられ、凛と咲く花のような容貌の中にあって、迷子の子供を思わせるその様子は思わず手を差し伸べたくなるほど可憐であった。
「大勢の中に入るのは苦手か? 名はなんという?」
「……珊瑚」
上目遣いでちらりと法師を見遣り、娘は小さく答えた。
「ごめん。覗き見するとか、そんなつもりじゃなかったんだけど」
「いや、私こそ騙し討ちのように待ち伏せて、悪かったな」
弥勒はさりげなく娘の手を取ると、いつもの丘へと導いた。
「……珊瑚、か。美しい名だな。私は弥勒だ。一度、おまえと話がしたかった」
「あたしと?」
導かれるまま、珊瑚は法師について丘を登り、促されるまま、いつも法師が村の娘たちと談笑している場所に腰を下ろす。
「そう。おまえと、です。それなのに、おまえはいつも、私と目が合っただけで逃げていく」
「……」
黒曜石のような深みのある瞳に見つめられ、珊瑚は頬を染めてうつむいた。
「責めているのではない。常のように人がいたら、おまえがこちらに来てくれないだろうと。ですから、今日は私用があるので時間が取れないと村の娘たちには遠慮してもらったんですよ?」
え? と珊瑚が顔を上げる。
「だから、今日は一人なの?」
「はい」
にっこりと、法師は微笑んだ。
途端に白磁の肌を耳まで染め上げ、再び珊瑚はうつむいてしまった。
2007.6.4.