深見の里 −其ノ弐−
このところの弥勒さまはどうされたのかしら──
そのような会話が、村の若い娘たちの間でひそひそとささやきかわされている。
珊瑚という名の娘と言葉を交わすようになってから、丘の上で娘たちに囲まれて談笑する法師の姿は見られなくなった。
娘たちが丘で待っていても法師はそこへ現れず、また、彼の庵を訪ねても、不在であることのほうが多い。
まだ旅立っていないことは確かだったが、彼がすでにこの村を発つ準備をしているのではないか──娘たちはそう考え、沈んだ表情を見せるのだった。
弥勒はたいてい森にいた。
この森は、村の者があまり立ち入らないからだ。
「珊瑚、ほら。ここの滝が奇麗でしょう。先ほど渡ったあの川は、ここから流れているんですよ」
この日も昼前から珊瑚を連れて、法師はのんびりと森の中を散策していた。
「へえ、こんなところに滝があるんだ」
黒珠の瞳に躍るような光を湛え、楽しそうに滝壺の水に手を浸す珊瑚の姿を、弥勒は微笑ましげに眼を細めて眺め遣る。
「おまえは近在の者でしょう? 今までこの森へ来ることはなかったのですか?」
「あまり外へ出ないからさ。近くには住んでいるんだけど、この森のことも、村のことも、法師さまのほうが詳しいみたい」
少し照れたような表情で法師に答える珊瑚は、初めて言葉を交わしたあの日に比べ、格段に法師に打ち解けていた。
珊瑚が、人が多く集まる場所に慣れていないと察した弥勒は、午後の日課となりつつあった村娘たちとの戯れをあっさりやめ、代わりに珊瑚を連れ歩き、この付近で自分が見つけた気に入りの場所を毎日彼女に案内しているのだった。
始めのうちは遠慮や警戒もあってか、どこかぎこちなかった珊瑚の態度も、日を追うごとに自然に振る舞えるようになり、今ではほぼ普通に弥勒との会話を楽しむまでになっていた。
弥勒は、そんな珊瑚が愛おしくてしょうがない。
自分だけに向けられるはにかんだような微笑。一見、慎ましやかだが、時折見せる無邪気さ。気の強さ。日々発見する彼女の新しい顔。
知れば知るほど、彼女の無垢で純真な内面が、その容姿の美しさに輝きを添える。
見飽きることがない。
次第に珊瑚に惹かれていく自分を、弥勒ははっきりと自覚した。
「ねえ、法師さま。いいの?」
「何がです?」
その日も珊瑚と二人で森を訪れていた弥勒は、心地よい風が吹き抜ける大樹の根元に腰を落ち着け、とりとめもなく珊瑚と語り合っていた。
「毎日あたしに付き合ってくれるけど、前みたいに、その、あの丘へ行かなくても……」
言いにくそうに口ごもる。
そんな彼女を目に映し、弥勒はやさしく微笑んでみせた。
「構いませんよ。おまえといるほうが楽しい」
「でも──」
「おまえは嫌か? 私とこうして過ごすのが」
珊瑚はぶんぶんと頭を横に振った。
「なら問題ないでしょう。あの丘にいると村人たちの目に留まりやすい。それに、森にいたほうが、人目を忍びやすいですし」
そこで弥勒は意味ありげに珊瑚を見たが、彼女はきょとんと法師を見返すばかりだった。
弥勒がくすりと笑みを洩らす。
「たとえばこんなこととか──」
言いながら、華奢な手を握る。途端にびくりと身体を強張らせる娘の初心さが愛らしかった。そのままもう片方の手で肩を抱き寄せた。
「こんなことを、他の娘たちの前でされるのは嫌でしょう?」
「ほ、法師さま……」
困惑したような声を上げる珊瑚は、なされるままに法師の腕の中に収まっている。速すぎる鼓動が法師に聞こえやしまいかと、珊瑚はそわそわと落ち着かなげに視線を彷徨わせた。
対する弥勒はそのような彼女の様子などどこ吹く風で、艶やかな髪に指を絡めながら、そっと娘の額に唇を寄せた。
甘い香りがする。
まるで花のような──
そろりと珊瑚を窺うと、あでやかに頬を染め上げ、長い睫毛を震わせていた。
そろそろいいだろうか。
彼女にこの想いを伝えても。
もう一度、娘の額に口づけると、さながら壊れやすいものでも扱うように、弥勒は珊瑚を抱く腕にやわらかく力を込めた。
明日。
そう、明日、彼女に告げよう。──
* * *
珊瑚と逢うようになってからも、弥勒は、毎朝の勤行と洞窟の奥の牡丹の苑への来訪を欠かすことはなかった。
その朝も、弥勒は彼だけが知る花苑を訪れ、ひときわ美しい、あの繊麗な花びらを持つ気に入りの牡丹に語りかけた。
「おまえに一番に報告したかった。おまえ以上に心惹かれる存在ができた」
ここに珊瑚を連れてきたら、可憐な娘はどのような顔をするだろうか。
彼女にもこの苑を見せてやりたい。
だがその前に、この美事な牡丹を捧げ、驚かせてみたかった。花とともに求愛の言葉を口にしたら、娘はどんな反応を示すだろう。
さぞ驚くであろう珊瑚を想い、弥勒の口許にやさしい笑みが揺蕩う。そして、彼は瞳を牡丹の花に向けた。
「私の大切なその娘に、美しいおまえを捧げたい」
花を手折ろうと弥勒の手が茎に触れたとき、はらりと涙をこぼすように、繊細な花弁からひとしずくの露が落ちた。
弥勒はそれに気づかなかった。
珊瑚はいつも、森の入り口で法師を待つ。
午の刻前後、おそくとも未の刻までには必ず姿を現す。
しかし、法師がその花を手折った日、珊瑚は姿を現さなかった。
「珊瑚……」
森の入り口で彼女の姿を探しながら、弥勒は手にした牡丹に視線を落とした。
昨日、初めて珊瑚に口づけた。
──怒っているのだろうか。戯れなどではないのに。
端整な顔を愁眉に曇らせ、弥勒は牡丹の花弁に口づける。──珊瑚の代わりに。どこか彼女を思わせる甘い香りが、切なさを募らせた。
逢魔が時になっても、珊瑚は姿を見せなかった。
次の日も、珊瑚は来ない。
いつもの時刻、いつもの場所で待ち続けたが、無駄だった。
花は水に活けてある。枯れないうちに、彼女に告げたい。
弥勒は顔を上げ、森を離れて村へ向かった。
「──え、なんですって?」
名主の家を訪ね、弥勒は思わず言葉を失う。
「ええ、そうです、法師さま。珊瑚などという娘は、この村にはおりません」
名主の言葉に絶句した。
「いえ、確かにいるはずです。この村の者ではないかもしれない。ですが、名主さまなら近辺の村々のこともよくご存知では?」
「ここから一番近い隣の村まで、旅慣れた者の足で少なくとも半日はかかります。法師さまがおっしゃるような、そんな時間帯に毎日ここまでやって来られるような娘はおりますまい」
「年のころ十六、七の、美しい娘です。誰もが目を奪われるような……牡丹の花色衣を着た──」
そこで、弥勒ははっとなった。
名主は困ったように曖昧な笑みを浮かべた。
「法師さま、法師さまがその娘を見たとおっしゃる森は、妖しの森として、村の者は誰一人として近づきません。何か、妖の術に掛かられたのでは……」
黒曜の瞳を大きく見開いた弥勒は、黙したまま一礼すると、名主の家をあとにした。
あまりの精神的疲労と絶望に、弥勒はふらりと彷徨うように庵への道を辿っていた。
あれから、村の家を一軒一軒訪ねてみたが、珊瑚本人はもちろんのこと、珊瑚らしき娘を知る者さえ、一人として見つけることはできなかった。
──もう二度と逢うことはできないのだろうか……
立ち止まり、掌で両目を覆った。
森に近づき、庵が視界に入ったとき、ふと、信じられない思いで弥勒は眼を見張った。
「──珊瑚!」
庵の前で所在無げにたたずんでいたのは、紛れもない、探し求めていた愛しい娘の姿であった。
法師に気づき、顔を上げる珊瑚に夢中で駆け寄ると、弥勒はその華奢な肩を掴み、激情のままに荒々しく揺さぶった。
「捜したぞ、珊瑚! おまえ、今までどこにいた」
揺すられるまま、珊瑚は寂しげに微笑んだ。
「村の誰に訊いても、珊瑚などという娘は知らぬ、この村の者ではないと言われました」
「……うん」
翳のある表情でうつむく珊瑚を見て、冷静さを取り戻した弥勒は、彼女を庵にいざなった。
「法師の侘住まいだ。おなごをもてなすようなものは何もないが」
「ううん、法師さま。何もいらない。逢ってくれただけで」
庵へ上がり、うつむいたまま座す珊瑚の言葉に、弥勒は訝しげに眉をひそめる。
逢おうとしなかったのは珊瑚のほうではないか。
部屋の隅には、竹筒に挿した艶やかな牡丹がある。
珊瑚の瞳がそれに向けられているのを認め、弥勒はゆっくりと口を開いた。
「昨日から、どれだけおまえを捜したか。あの花が萎れる前に、おまえに伝えたいことが」
「……うん。解ってる」
弥勒はわずかに眉を上げ、怪訝な表情を見せた。
彼女は何を解っているというのか。
「もう逢わない。……ううん、逢えないよね」
「珊瑚……?」
珊瑚は弱々しい視線を花から法師に移し、霞むような笑みを見せた。
「さようなら、って。それだけ、言いに来たんだ」
弥勒は呆然とした。
「おまえ……いったい何を言っているんです?」
「あたしなら大丈夫だから。だから、法師さまは、法師さまの大切なひとと幸せになって」
「……どういう、意味だ?」
押し殺したような低い声音に、珊瑚は澄んだ瞳を瞬かせた。
「だって──大切なひとができたって……」
「は?」
思わず頓狂な声で問い返してしまった。
2007.6.6.