深見の里 −其ノ五−

 琥珀と弥勒を乗せた妖猫は、高く高く、空中を駆けのぼる。雲を抜け、風を切り、そして、あっという間に山の頂上に降り立った。
「ここが……」
「はい。深見の里です」
 そこは、とても険しい山の頂にあるとは思えない、ごく普通の山里の様子を呈していた。
 雲母から降り、錫杖を受け取った弥勒は、改めて琥珀に向き合った。
「おまえのおかげで助かりました。ありがとう」
 恥ずかしそうに琥珀は笑う。
 その様子が誰かを彷彿とさせた。
「それから、おまえもだ。ありがとう、雲母」
 炎をまとう妖獣の姿から愛らしい小猫に変化した猫又の頭を、弥勒は撫でた。
「琥珀」
「あっ、金帝さま」
 法師が顔を上げると、背の高い中年の男がこちらへ歩いてくるところであった。
「その方が、雲母が見つけたという人間かね?」
「はい。……法師さま、こちらはこの里の長の、金帝さまです」
 里長だというその男に、弥勒は丁寧に頭を下げた。
「突然、不躾な訪問をしたこと、お詫びいたします。ですが、どうしてもここに来なければならぬわけがあり──
 里長はうなずいた。
「人間がここを訪れるのは何百年ぶりだろう。我々は、法師どのを歓迎しますぞ」

 弥勒は里長・金帝の屋敷に招かれ、まず、怪我の手当てを受けた。自分では気づいていなかったが、あちこちに裂傷ができている。
「しかし、まあ、それだけの怪我ですんで幸いでした」
 弥勒に茶を勧め、ゆったりと座った金帝が言う。
「ありがとうございます。ですが、私にはあまり時間が……」
「お急ぎのようですな。まあ、お飲みなさい。で、そのわけとやらをお聞かせ願いましょうか」
「はい」
 とりあえず喉を潤そうと、弥勒は茶碗に口をつけた。
「……甘い」
「花の蜜から作る特別な茶です。疲れが取れますよ」
 もう一口それを含み、弥勒はほうっと息をついた。
 甘い香りが、かの娘を思い起こさせる。今こうしている間も、彼女に残された時間はどんどん削られているのだ。
 弥勒は自分がここを訪れた理由を──ひとりの娘を愛し、また、そのためにその娘の生命が消えかかっていることを告げた。そして、この里の霊土を分けてほしいと頭を下げた。
「ふむ」
「お願いです。どうか、私に土を」
「琥珀、連鶴。そこにいるな?」
 すっと弥勒の背後の襖が開き、ばつが悪そうな顔をした少年が二人、姿を見せた。法師をここに連れてきた琥珀と、琥珀と同じくらいの年頃の少年である。
「聞いていたのだろう? だったら話は早い。法師どのに、土を一人分、用意してさしあげなさい」
「……は、はい!」
 少年二人の表情はぱっと明るくなり、彼らはその場から駆け出していった。
「金帝さま──
 まっすぐに自分を見つめる法師の清廉な瞳に、金帝は鷹揚にうなずいてみせた。
「なんとお礼を申したらよいか……」
「法師どののような方にそこまで想われて、その娘も幸せでしょう。ときに、娘の名は?」
「珊瑚、です」
「……珊瑚?」
 ふと、金帝の表情が動いたのを見て、弥勒はわずかに眉を上げた。
「あの、金帝さま?」
「ああ、これは失礼。そうですか、珊瑚が……」
 そう言って、里長は少年たちが駆けていった方角に目を向けた。
「珊瑚は、琥珀の姉なのですよ」

 琥珀と連鶴、二人の少年が、麻袋に納めた土を運んできた。
「これが一人分の土です」
 無邪気に微笑む琥珀の顔を、法師は感慨深げにじっと見つめる。
「あの、法師さま?」
「何でもありませんよ。世話になったな、二人とも」
 二人の少年は照れたように顔を見合わせて笑った。
 どこにでもあるような風景。
 家々が点在し、人々が畑を耕し、子供たちがそこらを駆けて遊んでいる。だが、その風景に妙な違和感を覚え、弥勒は首を傾げた。
「どうかされましたかな、法師どの」
 背後から金帝の声がした。
「いえ、ただ子供たちが……」
 弥勒の視線の先を、金帝が追う。
「ああ。男の子ばかりでしょう。女の子は、平地で育てられますからな」
 その瞳を法師に移し、長は穏やかな微笑みを浮かべた。
「男児は十五になると平地への出入りを許され、そこで生涯の伴侶を探す。そして、選んだ娘をこの里へ連れ帰る。この里の、昔からの慣わしです」
「……」
「この土は、そのためのものなのです」

 琥珀は、法師を送るといって聞かなかった。
 法師にしても、この険しい山を降るだけでも骨が折れることは容易に想像できたので、彼の申し出をありがたく受けることにした。
 弥勒は、見送りに出た里長と、その周囲を取り巻く里の人々に厚く礼を述べ、彼を待つ琥珀が跨っている雲母の背に乗った。もちろん、土を入れた袋はしっかりと抱えて。
「行くぞ、雲母」
 琥珀の声とともに、雲母が大空へと舞い上がる。
 ふと、弥勒が空中から深見の里を見下ろすと、そこはすでに人里ではなかった。
 人家があったはずの山の頂は、一面の牡丹の花畑であった。
 無言で風に揺れる色とりどりの花の群れを見つめる法師に、前を向いたままの琥珀が声をかける。
「法師さま」
「なんですか、琥珀?」
「そのひとを、大切にしてあげてくださいね」
 深い色を湛えた瞳で琥珀の背を見つめ、法師は力強くうなずいた。
「ああ。もちろんだ」

 平地の牡丹苑まで琥珀と雲母に送ってもらった弥勒は、そこからは自分の足で洞窟を進んだ。
 不思議と疲れは感じなかった。あの蜜の茶を飲んだせいだろうか。
 逸る気持ちが、自然と歩く速度を上げさせる。
 洞窟を出ると、太陽が天頂からわずかに傾いている様が見て取れた。しかし、不可思議な世界にいたせいか、あれから二日経っているのか、三日経っているのか、まるで解らなかった。
「珊瑚!」
 森から出ると、庵はすぐそこである。
 運ぶ土の重さも忘れ、弥勒は愛しい娘が待っているであろう庵の中に駆け込んだ。
──!」
 目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。その場に錫杖と土の袋を取り落とす。
「珊瑚……!」
 床の上に、意識を失った娘が倒れていた。はっとして牡丹を活けた竹筒に目をやると、萎れた花が繊細な花びらを何枚も床に散らしている。
 弥勒は恐怖に眼を見張り、珊瑚を抱き起こした。
「珊瑚、いま戻った。眼を開けてくれ。もう、おまえは消えずにすむんだ」
 しかし、珊瑚に反応はない。力なく眼を閉じたまま、ぐったりと弥勒の腕に支えられたまま。
 ぎゅっと唇を噛み締めた法師は、珊瑚をそっと床に横たえると、すぐさま庭に降り、錫杖を使って土を掘り返した。
 そこへ、彼女のために持ち帰った土を入れ、枯れかけた牡丹の花を植えなおす。さらに残りの土で茎の周囲を固めると、森の小川で水を汲み、その水をたっぷりと牡丹を植えた土にしみこませた。
 一仕事を終え、額の汗を拭い、珊瑚の様子を窺ってみる。
 しかし、依然として珊瑚は力なく横たわったまま、目覚める気配すらない。
 汗や土や埃にまみれた身を小川から汲んできた水で清め、弥勒は意識のない珊瑚の頭を己の膝にそっと乗せた。
 そろそろ、月が昇る時刻であった。

 弥勒は一睡もしなかった。
 珊瑚の頭を膝に乗せ、彼女の手を握り締めたまま微動だにしない。そんな一夜が過ぎた。

 白々と黎明が訪れても、やはり珊瑚は眼を覚まさなかった。
 まさか、と弥勒は戦慄した。
 もしや、霊土に植えるのが、遅すぎたのか──
 心臓を鷲掴みにされたような息苦しさで、弥勒は珊瑚の蒼白い頬に手を添えた。
 彼女が消えたら、すぐに自分も彼女を追うだろう。一人で逝かせることなど、やはりできない。
 せめて、彼女の最期を見届けるのが己の義務だと思った。
 彼女の生命を摘んでしまった、それが、己の責任。
 その刻が訪れたら、自分は何を想うだろう。最期の口づけくらいは許してくれるか、珊瑚?

 西の空が紅く染まり始め、夕星ゆうづつがその姿を現したとき、そろそろ覚悟を決めなければと、法師はやるせなく珊瑚を見つめた。
「珊瑚。おまえだけを愛している。来世で必ずおまえを見つける。そのときこそ一緒になろう」
 なめらかな頬をなぞり、その指で唇の輪郭を辿った。──別れの口づけを。
 そのとき、弥勒はふと気づいた。
 色を失っていた珊瑚のやわらかな唇が、仄かな桜色を帯びている。
 はっとして顔を上げると、開け放した窓の向こう、庭に植えた牡丹の花が、少しずつ、精彩を取り戻しているではないか。
 まさか。──まさか、まさか!
 苦しいほどの鼓動が己の耳にうるさい。
 手で触れている娘の顔を見遣ると、長い睫毛が微かに瞬くのがはっきりと眼に映った。
「……珊瑚」
 つぶやく法師の声に応えるように、そろそろと見開かれる黒い瞳。
「ほう……し、さま──
 土、持ってきてくれたんだね、と弱々しく微笑みながらささやく吐息のような珊瑚の声。
 諦めかけていただけに、弥勒にはその現実が己を嘲笑う幻のようにすら思えた。
 だが、確かに珊瑚はそこにいて、彼の膝に頭を乗せ、彼を見上げて弱々しく微笑んでいる。
 未だ信じられぬ面持ちの弥勒は、そっと珊瑚の上体を抱き起こし、涙をこらえて、華奢な肢体を抱きしめた。
 そして、彼女の意識が戻ったら真っ先に言おうと決めていた言の葉を、震える声で紡ぎ出す。
「愛している」
 と。
 まだ身体に力の入らぬ様子の珊瑚は、儚げな、それでもこの上なく幸福そうな微笑を口許に揺蕩わせ、やさしい眼差しで愛しいひとを見つめていた。
「おまえの身体が回復したら、私とともに生きると誓ってくれるか……?」
 蒼白なほど白かった珊瑚の頬が、微かに桜色を帯びた。
 真摯に見つめてくる弥勒の双眸を見つめ返す珊瑚は、はにかむように微笑み、小さく、だが承諾を伝えるために、はっきりとうなずいてみせた。
「珊瑚……ありがとう……」
 もう、彼女が消えてしまうのではないかと怯えずともよい。
 これからは、彼女の生命はここにあり、彼女は弥勒の妻として生きるのだから。
 弥勒がゆっくり顔を近づけると、頬をますます紅潮させながらも、珊瑚はそっと眼を閉じた。
 触れた唇は温かさを取り戻していた。
 ようやく、珊瑚が己の腕の中で生きていることを実感した弥勒は、珊瑚に負担をかけないように自重しつつも、すぐに彼女から唇を離す気にはなれなかった。
 あの苑の陽の光のようにやわらかく、あの苑のそよ風のようにやさしく、浅い口づけを果てしなく繰り返す。

 ── もう、二度とおまえを離しはせん ──
 ── うん、あたしだって離れないよ、法師さま ──

 幸せに満ちた二人の姿を、もとの清かな美しさを取り戻した庭の牡丹が、夕風に揺れ、静かに見守っていた。

≪ 其ノ四 〔了〕

2007.6.9.

牡丹の花の精と人間の若者との恋物語。
日本の民話と、『聊斎志異』の中の菊の精の話がベースになっています。
ちなみに、「金帝」、「連鶴」は牡丹の品種の名前です。