深見の里 −其ノ四−
しばらくの間、沈黙が空間を支配した。
「……した、ら……」
珊瑚からわずかに身を離した弥勒は、彼女の肩に両手を置いたまま、うつむき、つぶやくような声を発した。
「法、師さま──?」
「今からあの花を苑の土に返したら、おまえは再び根付くことができるか……?」
珊瑚は驚いた顔をし、次にわがままな子供をなだめるように哀しげに微笑んだ。
「無理だよ」
「では、どうすればいい? 何か方法はないのか」
「法師さま……」
「おまえのために何かしたい。私にできることはないか」
珊瑚はわずかに戸惑ったような表情を見せた。
「その……じゃあ、あのさ」
「なんだ?」
「花が枯れるまでの間、ここにいても……いい?」
弥勒は愕然とした。
微笑さえ浮かべる珊瑚の澄み切った瞳に、死を覚悟した者の静けさを見た。
「少しの間でいいんだ。せめて、残された時間を法師さまと一緒に過ごさせて」
「珊瑚!」
肩を掴む指に力が込められ、怒鳴る弥勒の声の厳しさに、珊瑚はびくりと身をすくませた。彼女はこれほど激した弥勒を見たことがない。
「おまえは私に、このままおまえが消えゆくのを黙って見ていろと、そんな残酷なことを言うのか?」
それが珊瑚の望みなのか。これほど残酷な仕打ちをして、一人で消え去ろうというのか。
「だって、あたしははじめから、法師さまの手で折り取られることを望んでいたわけだし」
言葉につまった弥勒は、珊瑚を直視することができなかった。
怒りとも悲しみともつかぬ感情に顔をゆがませ、やりきれない想いで、ただ珊瑚を掻き抱く。
「……解った。おまえが消えたら、枯れた花は私とともに埋めてもらおう」
「えっ?」
「案ずるな。植物とて、魂があるなら冥途への道はともにできよう。三途の川は、私が負ぶって渡ってやる」
珊瑚は唖然とした。
「なに言って……! まさか、法師さま──」
「手立てが何もないなら、いたしかたあるまい」
法師の腕から逃れようと身をよじる珊瑚は、それが敵わぬと知ると、彼の背をどんどんと叩く。
「駄目だ、法師さま。法師さまは生きなくちゃ。あたしのことなんて、きっとすぐに忘れる」
「おまえにおれの何が解る!」
激しい感情を剥き出しにした瞳で見据えられ、珊瑚は全身を硬直させた。
「初めて心の底から愛したものを、己の手で死に追いやるおれの気持ちが!」
「……」
自分の知る法師はこのような人物だっただろうか。
あたかも見知らぬ人間を見るような眼で、珊瑚は呆然と弥勒を眺めた。
「──おまえの望みは叶えてやる。だから、おれの最後の望みも叶えさせてくれ」
低く、甘く、ささやくようにそう告げると、法師は珊瑚に頬をすりよせた。そして、唇を重ねようと彼女の顔を目に映したとき、ふと、怪訝そうな顔つきになる。
「珊瑚……?」
弥勒の腕にからめとられたまま、彼女はおどおどと視線を泳がせていた。
明らかに様子がおかしい。
「どうした、珊瑚?」
「……あの、あるんだ」
「何が」
「ひとつだけ、あたしが消えずにすむ方法」
驚きのあまり、弥勒はすぐには口が利けない。
「何故、それを早く言わん!」
「だって──」
うつむき、口ごもる珊瑚から、弥勒は無理やりその方法とやらを聞き出した。
それは、洞窟の奥の牡丹の苑から、さらに奥へ進んだところに位置する険山の山頂にある「深見の里」へおもむき、その里の霊土を持ち帰ることだった。
その霊土に牡丹を植えれば、再び根付かせることが可能だという。
「あの苑から、そのまま真っ直ぐ進めばよいのだな」
錫杖を手にして立ち上がった弥勒を、慌てて珊瑚は止めにかかった。
「駄目っ! あそこは人間が容易に立ち入れる場所じゃない。行っちゃ駄目だ、法師さま」
「少々の危険は覚悟の上だ」
「あの山の険しさは、人間が登れるような代物じゃないんだよ。きっと怪我だけじゃすまない。里に辿りつくまでに生命の危険さえ」
「では、どうしろと言うんだ!」
袈裟を掴み、すがる珊瑚を顧みる法師の表情からは、先ほどまでの絶望や寂寥、弱々しさは微塵も感じられなかった。再び光を取り戻した弥勒の眼に迷いはない。
「私が行かなければおまえは消える。私がその山で生命を落としたとしても、おまえが消えることに変わりはない」
一刻の猶予もないのだ。何もせず、手をこまねいているのは性に合わない。
「ならば、少しでも可能性があるほうに賭けたい。私とて山岳修行の経験くらいある」
その言葉を言い終わらないうちに、弥勒は身を翻して庵を出ようとした。
「行かないで、法師さま!」
慌ててあとを追う珊瑚が庵の外へ出た弥勒の背へ手を伸ばしたとき、ぴしっ、と何かを弾くような音が空気を裂いた。
「つっ……!」
見えない何かに弾かれた珊瑚の白い指先が赤くなり、痺れている。
茫然と己の指を見遣る珊瑚に、弥勒は不敵な笑いを口許に浮かべた。
「気づかなかったか? おまえが人ならぬ者であった場合、二度とおまえを逃がさぬよう、先手を打っておいた。おまえを招き入れたとき、戸口に呪符を貼ったのだ。これを剥がさん限り、おまえは外へは出られんぞ」
「なっ!」
絶句して立ちすくむ珊瑚のもとへ、踵を返した弥勒がすっと近寄る。
そして、言葉を失くしている娘の顎を捉えると、触れるだけのやさしい口づけを与えた。
「必ず戻る」
そのときこそ、おまえに告げよう。──愛していると。
「私が戻るまで、絶対に死ぬな」
真顔で、そんな無茶を言う。
「……死ぬときは、一緒だ」
花は、あと何日もつ?
辺りはすでに闇に支配されていたが、そのようなことを気にしている場合ではなかった。
錫杖の音を響かせ、鬱蒼とした森の中を、弥勒は足早に歩を進めた。
* * *
洞窟を抜け、辿りついた牡丹の苑は、やはり陽の光に包まれていた。
いつもなら、その花々の美しさに顔を綻ばせ、感嘆の吐息とともに一面を見渡すのだが、今の弥勒にそんな余裕はなかった。
ただ、深見の里があるという山を目指し、一心に牡丹の苑の中を進み続けた。
ずいぶん歩いたような気がする。
もしかしたら、ほんのわずかな時間だったかもしれない。
気がつくと、天を突くように尖った山が、目の前に高く、そびえたっていた。
「これが、その山か」
そのあまりの険しさに、覚悟はしていたものの、思わずため息が洩れる。
しかし、これを登る以外に珊瑚の生命を救う方法はないのだ。
深く息をすると、法師は慎重に山を登り始めた。
どれだけの時間が経過したのだろう?
一刻? 二刻? それとも、もっと──?
山は、徐々に険しさを増していく。
道らしき道もなく、獣道とも呼べない木々の間を、弥勒は錫杖で邪魔な草や枝を払いながら分け入っていく。
一刻も早く。
それだけだ。
木立を抜け、崖道になったと思うと、突然、道が途切れ、切り立った岩肌だけが斜面を覆っていた。
さすがの弥勒も息を呑む。
(珊瑚……)
体力も限界に近かった。
しかし、立ち止まるわけにはいかぬ。
その場に錫杖を置くと、足掛かりになるような岩の突起を探しながら、用心深く、法師はなおも足を進めるのだった。
そうして、荒い呼吸を繰り返しながら、彼は山頂を目指した。
はっとした。
足許の小さな岩が、がらりと音を立てた。
「しまった……!」
そう思ったときには遅かった。落下する。──落ちていく。
(すまない……珊瑚)
足場が崩れ、重力になす術もなく引きずられながら、脳裏に浮かぶのは、やはり愛しい娘の花のような笑顔であった。
(だが、どうせおまえが散りゆく定めなら……)
これで本望だ。
ともに、この世から旅立とう。
心を落ち着け、観念して眼を閉じる。
そのときだった。
ふわり
「……!」
妙な浮遊感に襲われ、弥勒は愕然として眼を開いた。
「大丈夫ですか」
最初に見えたのは二股の尾。そして、聞こえてきたのは少年の声だった。
「驚きました。まさか、ここに人間が来るなんて。これ、法師さまのものでしょう?」
声のほうに首を向けると、空を駆ける獣に跨って身をひねった少年が錫杖を手にし、微笑んでいた。弥勒はその妖獣の背に腹這いにかぶさるように乗っている。
少年は十歳ばかりに見えた。
「これは……猫又か?」
「里の守り番で、雲母といいます。こいつが錫杖を見つけて、おれに知らせてくれなければ、法師さまの生命はないところでしたよ」
少年はにっこりと笑って言った。
「おまえは、深見の里の者か?」
「はい。琥珀といいます」
2007.6.8.