昔話を続けましょう。
あれは、山桜が散り、長雨が続いた頃のことでございました──
花さそふ 〜 落花流水 〜
しとしとと雨が降っています。
ここ、嵯峨野にある大きな邸の庇の間に、美しい少女が一人、ぽつんと座って、雨を眺めておりました。
少女は御年十歳。
名を珊瑚の君と申します。
珊瑚の君は、兵部卿の宮の姫君ですが、早くに母君を亡くし、北山で尼である祖母君に育てられました。
ですが、病に臥せっていたその祖母君が急にお亡くなりになり、父君である兵部卿の宮に引き取られることになったのでした。
この邸は、兵部卿の宮の別荘のひとつです。
「姫様」
奥から声がかかり、一人の女房が姿を見せました。
「まあ。また、このようなところにお一人で」
「一人じゃない。雲母がいる」
姫君の膝には、小さな愛らしい小猫の姿が。
小猫には尾が二つありました。
ただの猫ではありません。雲母は猫又です。
「ここは冷えます。中に入りましょう」
「もう少し、雨を見ていたい」
「姫様は、毎日雨をご覧になっていますね。北山の庵から、この邸へ移ってからずっと」
やさしげな、品のよい女房は、少納言という名の姫君の乳母です。
大好きなお祖母様を亡くしたばかりの珊瑚には、この長雨は、天が泣いているように思えました。
広い庭の樹木も、雨を受けて、悲しみにうなだれているかのようです。
「姫様、御父宮の北の方様から、お見舞いの菓子が届きましたよ。召し上がりますか?」
「今はいい。あとでいただく」
早くに母君を亡くし、育ての親でもある祖母君をも亡くした今、珊瑚が頼れるのは、先日、初めてお顔を拝した父宮だけです。
自らの死を予感した祖母君は、亡くなる前に兵部卿の宮と消息を交わし、ご自身亡きあとの姫のことを頼んでおられました。ゆえに、珊瑚の父君である兵部卿の宮は、迅速に姫を引き取り、嵯峨野にあるこの別荘に住まわせることにしたのでした。
初めて対面した実の父は厳めしい感じのお方でした。
この別荘でしばらく祖母君の喪に服し、宮家の姫君としての礼儀作法を身に付けるようにとのお言葉がありました。
けれど、抜け殻のようになった珊瑚は、何も答えることができませんでした。
珊瑚の君を茫然とさせているのは、祖母君の死だけではありません。
珊瑚には北山に友達がいました。
その友達──二人の少年に、まともな挨拶もできずに居を移さねばならなかったことに戸惑っているのです。
二人には文を書き、それを届けてくれるようにと雲母に頼みました。
そのうちの一人、犬妖怪の血をひく犬君こと犬夜叉の君には、尼君が亡くなり、父の邸へ行くことになったと簡単に説明し、別れを惜しむ文を書きました。
けれど、もう一人の少年──まだ知り合って間もない、法師になる修行をしている少年への文には、何を書いてよいのか判らず、とっさに浮かんだ和歌を一首、書いたのみです。
たゆらきの山の峰の上の桜花 咲かむ春へは君し偲はむ
「法師さま……」
桜咲く時期に出逢い、桜の季節が終わった途端に別れることとなった少年の面影を、珊瑚はいつまでも思い出に変えることができませんでした。
その年の長月頃です。
松虫が細く鳴く、月の美しい夜でした。
嵯峨野の別荘の対の屋で、一人、琴を弾いていた珊瑚の傍らに丸くなっていた雲母がふと立ち上がり、外へ出ようとしました。
「どうした、雲母?」
不審に思った珊瑚も立ち上がって、雲母が意識を向ける御簾をかかげてみました。
すると、階の下にたたずむ影があります。
「誰か?」
凛とした声で問う珊瑚に、人の気配が動きました。
「おれだ、珊瑚。人は呼ぶな」
緋色の水干をまとった犬の耳を持つ少年──その銀の髪を月華が静かに照らしています。
「犬君!」
珊瑚は驚いて眼を見張ります。
それは、北山でよく一緒に遊んだ、半妖の犬夜叉の君ではありませんか。
「犬君、会えて嬉しい。よく来てくれたね」
「都中捜したぞ? こんな別荘地にいたんだな。貴族は皆、衣に香を薫きしめているから、珊瑚の匂いも判らなかった。辛うじて、雲母の匂いを捜したんだ」
「そうなんだ、ごめん。雲母がいてくれてよかった」
「珊瑚もすっかり、宮家の姫なんだな」
まとうものこそ喪のため鈍色ではありますが、月夜に琴をかき鳴らし、奥ゆかしく香の匂いを漂わせる珊瑚の様子に、犬夜叉は少し寂しそうに言いました。
「とにかく、中へ入って」
「駄目だ。おれは半妖だぞ?」
「知ってる」
犬夜叉はため息をつきます。
「都の人間が妖怪を忌み嫌い、恐れていることも知っているだろう? それに貴族の姫君は、父親以外の男に顔を見せてはいけないはずだ」
「それはそうだけど、犬君は幼馴染みだし」
「それでも駄目だ。万が一見つかれば、大変なことになる」
そこで犬夜叉は表情を改めました。
「おまえに会いに来るのはこれが最初で最後だ。今日は別れを言いに来た」
「別れ?」
珊瑚は階を下り、犬夜叉に近づきます。
「どうして? 北山のあの山荘にずっといるんじゃないの?」
「あそこを出る。実はおふくろが……」
「母上様が?」
「この夏、亡くなった。あまり急だったんで、どうすることもできなかった」
犬夜叉を見つめ、珊瑚は息を呑みました。
「妖怪の血をひくおれは不吉な存在だと思われている。もう、あの山荘にはいられねえ」
「で、でも、犬君には妖怪の友達が……」
「全ての妖怪がおれに好意的なわけじゃねえよ。半妖を毛嫌いする妖怪のほうが多い。力の強い妖怪ほどそうだ。おれの友達だって、大人になれば、半妖をどう思うか……」
「……」
珊瑚には言葉がありません。
己と同じく保護者を亡くした犬夜叉が、己以上に過酷な状況にいることを理解したからです。
「珊瑚、おれは東国へ行く」
「東国……?」
「都から離れたい。東国なら、半妖でも暮らせる場所があるかもしれねえ」
「一人で行くの?」
「いや。稲荷山で知り合った親のない仔狐妖怪が自分も行きたいというんで、連れていくことにした」
「……よかった、一人じゃないんだね」
細々と聞こえる虫の声が、二人をしんみりとさせました。
北山の寺にいる少年も、このような心細い秋の夜を過ごしているのでしょうか。
「法師さまは……どうしてる?」
「会ってねえ」
「えっ?」
「あいつ、珊瑚がいなくなってから、外に出てこなくなったんだ。寺にこもって、ひたすら修行しているらしい」
「……」
珊瑚は涙がこぼれそうになり、ぐっとこらえました。
「法師といえば、あいつが何者か、おまえ、知ってたか?」
「え?」
珊瑚にとって、法師さまは法師さまでした。
「あいつ、二の宮って呼ばれてただろう?」
「うん」
「その意味、考えたことあるか?」
「法師さまの名前じゃないの?」
犬夜叉は首を横に振ります。
「二番目の宮、つまり第二皇子ってことだ」
「皇子……」
「あいつ、先の帝の第二皇子なんだ。つまり、今の帝の腹違いの弟だ」
「!」
そんなに身分の高い人だったなんて……と、珊瑚は驚きました。
「そんな身分の人が、なんで北山なんかで法師になるの?」
親王であるなら、たとえ出家させるにしても、皇族と所縁の深い名のある大きな寺に送られそうなものです。
「さあな。たぶん、今の帝に嫌われて、ていよく宮中から追い出されたんだろう」
「犬君から法師さまに会いに行くことはできないの?」
「あいつのいる寺の僧たちは、半妖のおれを嫌っている。おれを二の宮に近づかせないよう、ひどく警戒してる」
「じゃあ……あれから犬君も法師さまにずっと会ってないんだ……」
「あいつに迷惑がかからないよう、会わないようにしてたけど、今回だけは寺の小坊主に別れの文を預けてきた」
「そうなの……」
珊瑚は悲しげに瞳を伏せました。
三人で仲よく遊んだあの北山での日々が、遠い幻のように思えます。
「そろそろ行く。元気でな」
「犬君」
「もう犬夜叉の君じゃねえよ。ただの犬夜叉だ」
半妖の少年は、淋しそうに微笑み、階の中ほどにいる雲母の頭を撫でました。
「東国に行ったら、絶対に幸せになってね」
「ああ。珊瑚もな」
降りそそぐ朧な月光が、まるで月が泣いているかに思えます。
ひらりと身を翻し、犬夜叉は闇の奥へと姿を消しました。
少年の気配が消えたあとは、ただ、松虫の声が仄白い月光に浮かぶばかり。
珊瑚は足許の雲母を抱き上げます。
「──大方の秋のわかれも悲しきに 鳴くねな添へそ野辺のまつむし」
犬夜叉が消えていった闇に向かって、珊瑚はそっと歌を詠みました。
それは、無邪気でいられた子供時代への別れでもありました。
* * *
そして季節は巡り、春がやってきました。
桜の咲く頃、十一歳の珊瑚の君は、御父君・兵部卿の宮の本邸に移されました。
北山にいた頃から珊瑚に仕えている女房たちや、嵯峨野で新たに珊瑚づきとなった女房たち、お相手の女童たちも一緒です。
女房たちも女童たちも、皆、姿かたちの美しい者ばかりですが、珊瑚の美しさの前には霞んでしまいます。愁いを帯びてなお、桜の花びらのような珊瑚の君の美しさは際立っておりました。
嵯峨野の別邸も風情のある優雅な御殿でしたが、この本邸は、御殿の造りや調度品、広々とした庭もさらに豪奢な美しさで、珊瑚の住まいはその西の対に用意されました。
父宮への挨拶のため、寝殿へ向かおうと少納言の乳母とともに対の屋から出ますと、手入れの行き届いた庭の風景が目に入りました。
白砂も玉を敷きつめたように輝くようで、大きな池や中島、風雅な木立ちの有り様に、珊瑚は心惹かれた様子です。
「少納言。この邸に住んだら、この庭で遊んでもいいの?」
「まあ、姫様。姫君は庭に出てはなりません。御簾の内からご覧なさいませ」
「眺めるだけ?」
山で自由に育った珊瑚は、外で遊ぶのが好きでした。
嵯峨野では四人の女童たちと雛遊びや偏継ぎなどをして遊びましたが、雲母とこの庭を駆けてみたくもありました。
「なりません、姫様」
それを言うと、少納言は慌てて声をひそめました。
「姫君は室内にいるものです。第一、雲母は珍しい唐猫として飼うことをお許しいただいているのです。妖怪だなどと知れたら、陰陽師を呼ばれてしまいますよ」
「夜、こっそりと雲母に乗って空を翔けるくらいならいい?」
「とんでもありません。百鬼夜行に巻き込まれます。姫様など、すぐに取り殺されてしまいましょう」
「昼ならいい?」
「なお悪うございます。どれだけ目立つとお思いですか」
宮家の姫君という立場に自由はないのだろうかと珊瑚はため息をつきました。
簀子縁を歩いていたそんな姫君の足が、ふと止まりました。庭には見事な枝振りのたくさんの桜が満開に咲いています。
「まあ、何と美しい」
少納言が感嘆の声を上げました。
「姫様は桜がお好きでしたね。北山の山桜を思い出します」
けれど、桜を見つめる珊瑚の表情は沈鬱なものでした。
「今年ばかりは……」
「姫様?」
そのとき、珊瑚の君の心をよぎったのは、法師になると言っていた清らなる少年の面影でした。
深草の野べの桜し心あらば 今年ばかりは墨染に咲け
浮かんだのは古今集の一首。
「今年も来年も再来年も、墨染めに咲けばいいのに」
もう二度と、雲母に乗って、あの少年と山の桜の中を翔けることはできません。
祖母君の死への悲しみはもちろんのこと、墨染めをまとっていた少年・二の宮のことを想い、この先ずっと、大好きな桜が墨染めに咲けば少しは心がなぐさめられるだろうにと、姫は思うのでした。
兵部卿の宮は、かくも美しく聡明な珊瑚の君にたいそうご満足でした。
父宮は珊瑚を春宮妃にとお考えです。
この姫ならば、将来の中宮、さらには帝の母となることも夢ではないと思わせられるご器量なのです。宮の北の方も、姫の母君を憎くお思いだったことを忘れ、愛らしく可憐な姫の成長を楽しみに思われます。
「春宮様がどんな方か、少納言は知ってる?」
ある日、珊瑚は乳母の少納言に尋ねました。
父上や義母上には丁寧な物言いをする珊瑚も、女房たちの前では北山にいた頃からのくだけた口調になります。
「まあ、畏れ多いこと。存じ上げませんわ。けれど確か、姫様と同じくらいのお年頃であらせられます」
「今上の皇子様なの?」
「いいえ。先の帝の第三皇子です。主上の御腹違いの弟宮でございますよ」
「先の帝の……」
珊瑚の表情がふと揺れました。
それはつまり、あの法師になる少年・二の宮の弟君でもあるということです。
(法師さまに似ているのだろうか。もし、似ていたら……ううん、似ていなくても、そばにいれば、きっと毎日、法師さまを思い出してしまう)
「そうそう。春宮様は絵がお好きと聞いておりますよ。姫様も物語絵がお好きでしょう? お話は合うと思いますわ」
「……らない」
「何かおっしゃいましたか?」
「あたし、春宮妃にはならないから」
「姫様?」
「父上にそう申し上げる。無理やり宮中に入れられても、春宮様のご機嫌取りなんか、一切しない」
「何を仰せになります!」
少納言は慌てました。
いずれ帝になる春宮のご寵愛を得る気がないのなら、珊瑚はそれでよくても、政治的に何のための妃か解りません。父宮がお許しにならないでしょう。
それに少納言は、一人の女人として、珊瑚には母君や祖母君の分も幸せになってほしいのです。
「宮家の姫君として、好き勝手をおっしゃってはなりません。春宮妃にならないのであれば、姫様はどうされるおつもりなのです」
「北山へ帰る」
姫君は即座に答えました。
「お祖母様のように、北山で尼になる」
「何故、そのような……」
きっぱりと言う珊瑚の頑固な気性を思い、少納言は途方に暮れるのでした。
* * *
珊瑚が父宮に引き取られてから六年の月日が経ちました。
十六になった珊瑚の君はますます麗しく、花なら桜、月ならば満月のよう。和歌や楽、教養も申し分なく、美と才を兼ね備えた姫君になりました。父宮の目から見てもまばゆいほどです。
けれど、美しい姫が頑として春宮妃になることを拒むその様子には皆が呆れ、兵部卿の宮邸ではすっかり変わり者扱いです。
女房たちの宮中の噂話にも無関心な姫は、ただ雲母にのみ心を許し、写経をしたり、琴を弾いて暮らしています。
父君の兵部卿の宮も匙を投げられて、姫を春宮妃に差し出すことはお諦めになったようです。けれど入内しないなら、姫には相応しい婿君を選ばなくてはなりません。
兵部卿の宮邸に花のように美しい姫がいるという噂が流されました。
その噂を聞きつけて、あちこちの貴公子から姫に恋文が届くようになり、麗らかな弥生のある日、兵部卿の宮は大々的に自邸で蹴鞠の会を催しました。
婿君候補の品定めをするのです。
日頃から兵部卿の宮の姫君に憧れている若公達が大勢集まります。
珊瑚づきの女房たちも、文を送ってくる男君たちの姿を見ようと、華やぎました。
「姫様、あの弥勒の君さまもお出でになっているらしゅうございますよ」
若い女房の一人が言います。
紅梅重ねの袿をまとう珊瑚は無反応ですが、部屋にいた女房たちが一斉にざわめきました。
「弥勒の君さまが……?」
弥勒の中将の君。
類まれな美男と称される弥勒の君は、その美しさに加え、歌や舞、楽などの才能、そして数多くの恋の噂が何かと世間を騒がせている貴公子です。
位は三位の中将。
都中の女人たちの憧れの的なのです。
「姫様、参りましょう。わたくしたち、弥勒の君さまを見てみとうございます」
「興味ない。おまえたちだけで見に行けば?」
弥勒の中将に興味のないことがまるで罪であるように、女房たちは眉をひそめました。
「まあ、姫様。気のないおっしゃりよう。光るようにお美しいという中将さまのお姿をぜひ拝したいですわ。ご一緒に」
「今日、来られたということは、中将さまも姫様に思し召しがあるのではありません?」
「素敵ですわ。こちらに通われることになれば、間近にお目にかかることができるかも」
女房たちはますます高揚します。
「去年の賀茂の祭での車争いのことを覚えていらっしゃる?」
「すごい噂でしたわね。中将さまのご正室候補と名高いお二人の女君の供人たちがお車の場所のことで喧嘩になって……」
「あら、わたくしはそれよりも、秋に青海波を舞われたときの評判を思い出しますわ。中将さまを嫌っておいでの皇太后様までが目を奪われたとか」
珊瑚はため息をついて、雲母を抱き上げました。
「あたしはいいから、皆で見ておいで。他にも姿を見たい方々がいるんだろう?」
普段、姫に届くたくさんの恋文の返事を代筆している女房たちは、その文の主たちの姿を垣間見られるということで、朝からそわそわしているのです。
「ですが、姫様をお一人にするわけには……」
「もうすぐ少納言が来ると思うから、気にしないで。あたしは雲母と遊んでる」
しばらくもじもじしていた女房たちでしたが、好奇心には勝てず、連れ立って、蹴鞠をする公達の見物に行ってしまいました。
一人残された珊瑚は長い打紐を取り出し、上から垂らして雲母にじゃれつかせたり、綱引きをしたり、雲母の首にかけて総角を結んだりしていましたが、ふと雲母を抱いて立ち上がりました。
「雲母、桜を観ようか」
庇の間に出ると、思いの外、外は静かに感じられました。賑わいは遠くに聞こえます。
鞠の懸りは、寝殿の東面の、遣り水の流れなどが行き合っている辺りの趣のある場所、珊瑚のいる西の対からは遠いのです。邸の人々の関心も、みな、弥勒の君をはじめとする若公達へと向いているようです。
「桜が……」
御簾の中から、桜の木々が見えました。
「風が桜を散らしてる……」
庭の、見事な枝振りの桜の木々が花びらを雪のように散らしており、いやが上にも北山の山桜を思い出させます。
(法師さま)
思わず立ちつくし、心の内でつぶやくのは、かの人のこと。
(法師さまも、北山で桜を見てる……?)
そして、子供の頃に一緒に遊んだ少女のことを思い出してくれているでしょうか。
珊瑚の腕から床に飛び降りた雲母が、総角結びを首から下げたまま、庭へ出ようとします。
けれど、小さな猫には大きな総角が邪魔で、うまく歩けません。
転びそうになりながら御簾の隙間を抜けようとする雲母の振る舞いが愛らしくて、珊瑚は思わず微笑みます。
「ちょっと待って」
御簾に挟まれるようになっている雲母の小さな躯を押さえると、珊瑚は打紐を解いてやりました。
風が花を誘います。
打紐から逃れ、雲母が庭へ飛び出したとき、ひときわ強く吹いた風が、御簾を大きく揺らしました。
美しい夕映えにはらはらと散る数多の花びら──
その夢のような光景に心が痛み、姫はすぐに室内に引き返しました。
しかし、これが運命の一瞬だったことに、珊瑚はまだ気づいていませんでした。
2019.3.5.