蹴鞠の会から数日間、雲母が兵部卿の宮邸から姿を消し、大騒ぎになりました。
 結局、何事もなかったように一人で帰ってきましたが、そのときの雲母は、文を結び付けた桜の枝を咥えていました。
「雲母! こんなに心配させて! 遊びに行くのは構わないけど、ちゃんと夜には戻ってきて」
「みぅ」
「その桜の枝は何? 誰かが落とした文を拾ってきたの?」
 珊瑚は桜に結ばれた文を開けてみます。

  霞立つ春の山辺は遠けれど 吹きくる風は花の香ぞする

「これだけじゃ、誰が誰に宛てたものかも判らないね」
 山といえば北山。
 花といえば深山桜。
 そこを流れる風を思って、珊瑚は物憂げに瞳を伏せました。
 もしこれが、北山の法師さまからの消息だったらどんなに嬉しいことか──
 ただ、その文は流麗な手蹟が本当に見事で、珊瑚はその字をお手本にしようと、捨てずに文箱にしまいました。


「少納言さま、大変でございます!」
 それからしばらくして、女房たちにとって一大事が起こりました。
「どうしたのです。宮家の女房ともあろう者がはしたない」
「これを。姫様にお文が届きました。弥勒の中将さまからです……!」
 少納言の乳母は大きく眼を見張りました。
 実は、誰あろう、この弥勒の君こそ、珊瑚の君と北山で仲のよかった少年・二の宮その人なのです。
 少納言はその文を手に取り、美しい珊瑚色の薄様を開きました。

  面影は身をもはなれず山桜 心のかぎり留めて来しかど
   夜の間の風も、うしろめたくなむ

 少納言ははっとしました。
 弥勒の中将は、もしかして、兵部卿の宮の姫君が珊瑚であるとご存じなのではないでしょうか。
 姫君の名はもちろん公にはされません。けれども、薄様の色が珊瑚色なのも、偶然ではなく、意図的なものだとしたら……
(中将さまは、子供の頃から姫様のことを?)
 北山に戻ることだけを考えている珊瑚も、きっと二の宮になら心を許すでしょう。
 このご縁を逃してはならないと少納言は思いました。
「姫様! 珊瑚の君さま!」
「どうしたの? 騒々しい」
 奥で和琴を奏でていた珊瑚は怪訝そうに顔を上げます。
「とにかくこれをご覧ください」
 少納言が差し出した細長い美しい文箱を見て、それが恋文であることに、珊瑚はすぐに気づきました。
「見たくない。いつもみたいに、適当に返事しといて」
「姫様。これは特別です。弥勒の中将の君さまからですよ」
 鬱陶しそうに、姫はため息を洩らしました。
「おまえまで弥勒の君の信奉者になったの? 相手が誰であれ、読む気はない」
 気のなさそうな珊瑚に少納言は眉をひそめました。
「お文に気が乗らないのでしたら、こちらで代筆いたします。ですが、ぜひとも、物越しにでも中将さまにお会いくださいませ。姫様の気鬱も晴れましょう」
 姫は屹と乳母を睨みました。
「会ってどうしろっていうのさ。話すことなんて何もない」
「ですが、姫様。中将さまは姫様の……」
 怒った珊瑚は無言で立ち上がり、塗籠に閉じこもってしまいました。
 奇妙なことになりました。
 珊瑚の君は弥勒の君が二の宮であることを知らないのです。
 そして少納言も、珊瑚が弥勒と二の宮を別人だと思っていることを、知らないのでした。

 先の帝の二の宮として生まれた弥勒は、十二のとき、法師になるべく北山に送られたものの、十四の年に都に戻され、還俗しました。
 弥勒がこの上なく美しい皇子であったこと、また、臣籍に降下してからのご出世などが華々しく、それら一連の出来事は、世間の注目を浴び、人々の口に上らない日はないほどでした。
 数多くの浮き名も流れ、あちこちの姫君たち、若い女房たちは胸をときめかせます。
 それなのに、世間に全く関心がなく、女房たちの噂話も聞き流していた珊瑚は、ほとんど何も知らないのでした。
 一方、珊瑚の君に弥勒の中将から熱心に文が届くことをお知りになった兵部卿の宮は満更でもないご様子です。
 弥勒の君はお若い方々の中でも最も将来を嘱望される方ですし、まだ一人も妻がおられません。人望もあって宮中での評判も良く、帝や春宮からのご信頼も厚いのです。
 弥勒を婿に迎え、御子でも誕生すれば、珊瑚の行く末は安泰です。
 女房たちも口をそろえて、弥勒の文にだけは珊瑚自身が返事を書くようにと勧めました。
 もし──もし、珊瑚が弥勒からの文に目を通していれば、それが、いつだったか雲母が咥えてきた桜の枝に結ばれた文と同じ手蹟であることに気づいたでしょう。

* * *

 ある夜のことです。
 外へ出かけた雲母が夜になっても帰ってこず、珊瑚はずいぶん心配しました。
 それに、夜、雲母がいないと、珊瑚自身も落ち着かなくて眠れないのです。
(もし、女房が文を寄こす誰かを手引きしたら……)
 男君に寝所にまで忍んでこられては、姫になすすべはありません。子供の頃から雲母と一緒に休んでいる姫でしたが、この頃は自らの護衛としても、雲母をそばから離さないのでした。
 ふと、人の気配を感じ、珊瑚は臥所の中で身を起こしました。
「誰? 少納言なの?」
 けれど、闇の中、香ってくるのは少納言の薫き物ではありません。
 床しい香りをまとった影が、すっと姫に近づきました。
「中将です。おまえに逢いたくて、辛抱しきれずにこうして忍んでまいりました」
 知らない男の声です。
 あまりの突然の出来事に、珊瑚は驚き、戸惑いました。
 とっさに相手が何者か解らず、女房の誰かに通ってくる男ではないかと思いました。
「中将さま? 人違いじゃない?」
 混乱しつつも珊瑚が言うと、男君は艶めかしく吐息を洩らします。
「……やはり、私からの文を読んでいないのだな」
 文?
 恋文のことでしょうか。
「どの文?」
「弥勒の中将です、珊瑚の君。文は何人くらいから届くのですか?」
 相手が噂の弥勒の君であることを知り、珊瑚は身構えました。
「知らない。みな、女房たちが返事を書いているから。あたしはあんたを知らないし、春宮妃にもならない」
 そう、珊瑚の心には今も法師さまが住んでいます。
 あの北山の山桜のもとで法師さまに出逢い、そして、その桜が散ったとき、珊瑚の恋は終わったのです。
「恋なんか……しないから」
 姫君のそばへ膝をついた弥勒は、姫のほうへ手を伸ばしました。
「私はおまえに恋をしている。もう、ずっと前から」
 勝気な珊瑚は、あたしのことなど何も知らないくせに、と腹が立ちました。
「弥勒の君の女人に関する華やかな噂は聞いているけど、そんなありふれた口説き文句で、誰でも自分になびくと思ってるの? 大声を出して人を呼ぶよ」
「構いませんよ。私なら、むしろ歓迎されるでしょう」
 常日頃の女房たちの態度からして、そのとおりであることに、珊瑚は悔しげに唇を噛みました。
「あたしは、恋はしないの。山育ちで、都の生活には馴染めないし、言葉遣いもこんなだし……」
 その刹那、突然、闇の中で強く抱きしめられ、珊瑚は息を呑んで硬直しました。
「誰を想っている」
 弥勒の声音が低く、責めるように響きました。
「誰か、他の男を想っているな?」
(……法師さま……)
 珊瑚は中将の腕から逃れようともがきましたが、抱きしめる腕の力はますます強くなるばかりです。
「あの蹴鞠の日、おまえの姿を見てしまったからには、おまえを他の男に渡すわけにはいかない」
 珊瑚は驚愕しました。
 風に誘われ、桜が雪のように花びらを散らしていたあの日、雲母を外に出したあのとき、姿を見られていたのだとしたら。
「じゃあ、あの桜の枝につけた文は中将さまが……?」
 中将が薫きしめている香の香りに包まれ、珊瑚は惑乱しました。
「待って、でも、あたしはあの人を……!」
「忘れろ。珊瑚はおれのものになればいい」
 男の力になすすべもなく、珊瑚は臥所に倒されました。

 何故、この人はこんなにも切なげに珊瑚に触れるのでしょう。
 そして何故、珊瑚の大切な想い出を叩き壊そうとするのでしょう。
 二の宮への想い。
 それはほんの少女であった頃の淡い恋心だったかもしれませんが、珊瑚にとっては宝玉のようにきららかで、大切なものなのです。たとえ他の男のものになろうとも、二の宮を忘れることなどできません。

 白々とした朝の訪れを感じ、身を起こした弥勒が、珊瑚の額髪をかきあげ、姫の唇に唇を落とします。
 珊瑚の頬には涙の雫が残っていました。
「……もう来ないで」
「今宵、また来る」
 精一杯の珊瑚の拒絶の言葉でしたが、弥勒ははっきり答えました。
 今宵も明日の夜も弥勒が姫のもとへ通ってくれば、結婚が成立します。
 このまま、女房たちの言うとおり、弥勒の妻になるのが己の宿世なのだろうかと、ぼんやり考えていると、横たわっている身を起こされ、抱きしめられました。
「ひとつ訊いていいか?」
 弥勒の君が珊瑚の耳にささやきます。
「おまえが心に秘めている男は誰だ。文を寄こす別の男か?」
 一瞬ためらい、眼を伏せたまま、珊瑚はぽつりと答えました。
「もう会えない人」
 満開の深山桜の下、微笑んでいた清らなる少年──
「あたしが勝手に想っているだけ。その人、法師になっているはずだから、もう、決して会うことはない」
 姫を抱く弥勒の肩が微かに震えたと思ったのは気のせいでしょうか。
「だから、珊瑚も尼になると?」
「子供の頃、北山で一緒に勤行しようと約束したんだ」
 不意に珊瑚を抱きしめる弥勒の力が強くなり、彼の低く甘い声が耳元でささやきました。
「咲かむ春へは、君し偲はむ」
 うつむいていた珊瑚ははっと瞳を上げました。
「中将さま?」
 何故、弥勒はその歌をつぶやいたのでしょう。
「春が来るたび、雲母に乗って一緒に桜の中を駆けた姫君のことを思い出していた。別れてから、ずっと」
「……」
「犬君と三人で遊んだことも覚えている。子供の頃から、ずっと恋していた。珊瑚、おまえに」
 雲母に乗った? 犬君と遊んだ? 子供の……頃?
「法師さま……? まさか、中将さまが?」
 愕然となった珊瑚は、白い絹の肌衣をまとっただけの姿でさっと立ち上がり、手ずから重い格子を上げ、仄白い黎明の光を室内に入れました。
 立烏帽子をかぶり、乱れた白い衣をまとった艶めかしい弥勒の姿が浮かび上がり、珊瑚は驚いて眼を見張ります。女房たちの噂から想像していたよりずっと麗しい青年が、涼しげな瞳で珊瑚を見つめています。
 そして、その面立ちは、珊瑚の知っている面影を確かに強く残していました。
「……似てる。法師さまに。ほんとに……ほんとに、中将さまが法師さまなの……?」
 無垢な黒い瞳にひたと見つめられ、弥勒は微苦笑を洩らします。
「疑り深いな。珊瑚は法師になると言っていた少年の名を知らなかったのか?」
 はっとした珊瑚はこっくりとうなずきます。
 なんと迂闊なことだったでしょう。
「名は弥勒。私だ」
「じゃあ、あたしは法師さまと──
 呆然と弥勒を見つめてたたずむ珊瑚は、頬に熱さを覚えました。
 可憐に恥じらう珊瑚のそばに、ゆるりと立ち上がった肌衣姿の弥勒が近づきました。そして、姫が支える格子を下ろし、その華奢な肢体を抱きしめます。
「逢いたかった、珊瑚。──やっと、逢えた」
「法師さま」
「還俗して今は法師ではない。弥勒と、名で呼んでください」
「弥勒さま──
 桜咲く山で出逢った初恋の人に違いありません。
 珊瑚の瞳からぽろぽろと涙がこぼれます。
「歌だけを残して、珊瑚が突然姿を消したとき、おまえの父君をお恨み申し上げた」
「あたしも。法師さまにお別れさえ言えなくて……」
 あとからあとから想いがあふれ、とても言葉にならず、なされるままに、珊瑚は愛しい君からの口づけを受けました。
 弥勒はこのまま一緒に、彼の住まいである二条院に行こうと言いました。
「男の衣をここに残しておけば、何があったのか、だいたい察してもらえるだろう」
 雲母、と弥勒が呼ぶと、どこに隠れていたのか、忠実な猫又はすぐに二人のもとへ姿を現しました。
 雲母が邸の中にいたことに珊瑚は驚き、やさしく小猫を抱き上げました。
「雲母。おまえ、法師さまだったから手引きしてくれたんだね」
 白い肌衣姿のままの珊瑚に、そこにある紋の浮いた葡萄染めの小袿を拾い上げ、弥勒は姫の細い肩に羽織らせました。
 そして、薄藍色の自身の直衣をふわりと抜け殻のように臥所に残し、軽々と珊瑚を抱き上げます。
「さあ、夜が明けてしまわないうちに行きましょう」
 それから先の出来事は、珊瑚には夢のように思われました。

* * *

 珊瑚の君は、正式に弥勒の君の北の方となり、二条院に弥勒とともに住むことになりました。
 世間の人々は、弥勒の君の突然のご結婚、そして北の方を迎えた中将が、北の方以外の女君に目を向けなくなったことに驚きました。
 中将の北の方は、まるで春の曙に咲き乱れる樺桜のように気高く美しい方だというので、いつしか、珊瑚の上は桜の御方と呼ばれるようになりました。
 そして、二条院に乳母の少納言や側近の女房たちを移し、珊瑚がここでの生活に慣れてきた頃、兵部卿の宮の姫君宛ての文が、ご実家から二条の邸へと送られてきました。
「あたし宛て……?」
 その文を開いた珊瑚はあっと声を上げました。
「弥勒さま、これを……!」
 珊瑚の様子にただならぬものを感じ、受け取った文へ弥勒は急いで目を通しました。
「珊瑚、これは──
 東国からです。
 それは、あの犬夜叉からの手紙でした。
 あちこちを旅していたが、今は東国のある村の巫女の家に仔狐妖怪と一緒に厄介になっていると、そう書かれているのです。
 弥勒と珊瑚は懐かしげに顔を見合わせました。
「巫女が半妖や妖怪の世話をするなど、都では考えられませんな」
「きっと、幸せなんだよ。文章で判る」
 傍らにいる雲母の背を撫で、珊瑚は美しく微笑みます。
「珊瑚は、幸せですか?」
「そんなの言わなくても解ってるくせに」
 仲睦まじいお二人に、女房たちは気を利かせて席を外しています。
「こんな日が来るなんて……」
「ああ、本当に」
 愛しげに珊瑚の肩を抱き寄せる弥勒の君に、上もなよやかに寄り添います。
「……むらさきの色に心はあらねども 深くぞ人を思ひそめつる」
 ささやく弥勒の艶めかしさに、珊瑚は頬を染めました。
 可憐に微笑む珊瑚が何か答えようとするより先に、花びらのようなその唇に、弥勒はそっと唇を重ねました。
 背の君からの口づけは限りなく甘く、珊瑚の上を酔わせます。

 御殿の広々と美しい庭を眺め、寄り添うお二人の姿は、まるで物語絵から切り取ったようなお美しさです。たとえばこれが物語ですと、めでたしめでたし、というように終章を迎えるのでしょうか。
 けれど、お二人の物語はまだ終わりません。
 弥勒の君と珊瑚の上のお幸せな様はこれから先も続いていくと、そう、昔語りに伝えられているのでございます。

≪ 前篇 〔了〕

2019.3.6.

「源氏物語」をベースにした平安パラレル。
『恋すてふ』の姉妹編です。
文中の和歌は、万葉集、源氏物語の賢木、古今和歌集、源氏物語の若紫、新古今和歌集からそれぞれ引用しました。