昔話をいたしましょう。
 あれは、いつの帝の御代のことでしたでしょうか──

恋すてふ 〜 桜花幻想 〜

 春の北山は、山桜が今を盛りと咲き乱れております。
 その霞むような桜の木々の下を、墨染めをまとった少年が一人、物珍しそうに歩いていきます。
 少年は先の帝の二の宮で、御年、十二歳。
 名を弥勒と申されます。
 先帝のご寵愛を受けた更衣さまの忘れ形見ですが、今は父帝もお隠れになり、その後、腹違いの兄宮が帝に立たれることになり、宮中を追われ、北山の寺へと追いやられてしまったのです。
 現帝の御母堂・弘徽殿の皇太后は、先帝のご寵愛を一身に受けた亡き更衣さまへの憎しみから、若宮までをもひどく疎んじられたのでした。
 先帝より若宮の後見を託された左大臣の必死のとりなしも叶いません。
 なまじ、利発な皇子であるがゆえに、若宮を法師にでもして、一生を宮中から締め出そうとの魂胆です。

 とはいえ、弥勒の宮はまだ十二歳。
 宮中から出て、初めて目にする自然の山々の風景が物珍しく、いくら散策しても、飽きることがありません。
 山寺へ居を移してから、毎日のように、こうして山中を歩き廻っておりました。

 ふと、人の声が聞こえたような気がします。
 そのほうへそっと近寄ってみますと、木立ちの向こうに、小柴垣を巡らせた、簡素ながらも風雅な趣のある庵があります。その庭先で、少年と少女が言い争っていました。
 こんな山の中、同じ年頃の子供に出会うなど予想もしていなかった弥勒は、興味深げに二人に近寄りました。
 と、人の気配に振り向いた少女が、弥勒に気づき、つかつかと彼に歩み寄り、屹と彼を睨みつけ、いきなり訴えます。
「犬君が雀の子を逃がしたんだ! 伏籠に入れて可愛がっていたのに!」
 威勢のいい少女は、十ばかりに見えます。
 山吹襲の柔らかくなった表着を着た少女は、幼いながらも、山桜の花びらのような美しさです。
 怒りのためか、目許が仄かに朱を帯びており、思わずその美しさに見惚れていると、
「あたしに何の断りもなく! ねえ、ひどいと思わない?」
 なおも詰め寄られ、宮中育ちで柔和な弥勒はたじたじとなりました。
「てか、そいつ、誰だよ。珊瑚の新しい友達か?」
 少女と一緒にいた緋色の水干の少年が、疑わしそうに口を挟みます。
 弥勒は眼を見張りました。
 銀の髪に犬の耳。
 妖ではありませんか。
「……あんた、誰?」
 珊瑚と呼ばれた少女が、初めて気づいたように、弥勒に問いかけました。
 我に返ったように、弥勒は答えます。
「私はこの奥の寺で法師となる修行をしている者です」
「法師なら、こいつに言ってやれよ。雀を伏籠なんかに閉じ込めておくのは可哀想だって」
 法衣をまとった弥勒が犬耳の少年に同意すると、しぶしぶといったていではありましたが、珊瑚も納得したようです。
 弥勒は改めて二人を眺めました。
「おまえたちはここに住んでいるのか?」
 少年と少女は顔を見合わせました。
「ここはあたしの家。犬君はもっと向こうにある大きな山荘に住んでいる」
「犬君は妖か?」
「半分な。おれは犬夜叉。犬夜叉の君と呼ばれているけど、珊瑚は縮めて犬君と呼ぶ。こんな山の中で育てられるってのは、いろいろワケありなんだよ。おまえもそうなんだろ?」
 眼を伏せ、弥勒は微かにうなずきました。
 そして、美しい少女を見遣ります。
「姫君は……珊瑚というのか」
 弥勒が遠慮がちに名を確かめると、珊瑚は桜がほころぶような笑顔を見せました。
「法師さまも近くに住んでるなら、また遊びにおいでよ」

 それからというもの、弥勒は、寺でのお勤めを終えてから、毎日のように珊瑚の住む庵へと通いました。
 珊瑚はいつもいましたが、犬夜叉はいるときといないときがありました。
「犬君? あの子は半妖だから。遠くまで一人で行くことができるんだよ。ここに来ないこともしょっちゅうだし」
「珊瑚は一緒に行かないのですか?」
「あたしは女の子だから、遠出しちゃいけないの。だから、法師さまが来てくれて、嬉しい。一人じゃつまらないもん」
 その言葉を聞いた弥勒の胸が、何故か、あたたかく綻びました。
「でね、この子、見て?」
 珊瑚は抱いている小さな猫を嬉しそうに弥勒に見せました。
「犬君が連れてきてくれたんだ。雀を逃がしたお詫びだって」
「唐猫ですか?」
「猫又だよ。居付くなら飼ってやれって。名前もつけたんだ。雲母っていうの」
「雲母。よい名ですな」
 二股の尾の猫又を地に下ろすと、炎をまとって大きな妖獣に変化したので、弥勒は驚きます。
「雲母は飛べるんだ。法師さま、一緒に乗ろう?」
 珊瑚に促されるまま、弥勒は雲母の背に、姫の後ろに跨りました。
「いいよ、雲母」
 ふわりと、身体が持ち上がりました。

 深山桜が霞むように美しく、山を彩っています。
 そんな中を、桜の間を抜け、桜の上を越え、法師と姫君を乗せた雲母はなめらかに飛翔していきました。
 風が頬を叩きます。
「すごいな。犬君はともかく、完全な妖を見たのは初めてだ」
「犬君は妖怪の友達が多いんだ」
「京にそんなに妖が生息しているとは知りませんでした」
「百鬼夜行とか知らない? 犬君の友達は、鞍馬の山奥の天狗や、稲荷山に棲む狐妖怪たち。狐妖怪には善狐も野狐もいるけど、みんな面白い奴らだって」
「珊瑚も、あちこちへ出歩いて、そういった妖と友達になりたいですか?」
「うん。以前は犬君が羨ましかったけれど、でも、今は法師さまが毎日来てくれるから、もう寂しくない」
 風に流れ、扇を広げたようになびく珊瑚の髪を見つめていると、その愛らしさに、我知らず微笑がこぼれました。
「珊瑚は桜みたいだ」
「え? 何て言ったの?」
 不意に珊瑚が振り返って微笑んだので、弥勒はどぎまぎと、顔が熱くなるのを感じました。
 そんな弥勒を見て、珊瑚もたちまち頬を染め、急いで法師から顔を逸らしました。
 風に乗る雲母は、しなやかに旋回して低く飛び、美しい桜の木々の間を駆け抜けます。
「法師さまは、法師になる修行をしてるんだよね」
「はい」
「一人前の法師になったら、そのあとはどうするの?」
「おそらく一生、この地で御仏にお仕えするのだと思います」
「ふうん……」
「珊瑚は?」
「判んない。あたしは父上の顔を知らないし、母上はあたしがまだ小さい頃に亡くなったし、今はお祖母様や乳母の少納言とあの庵で暮らしてる。お祖母様は尼だから、あたしも尼になるのかな」
 ふと、何かを思いついたように珊瑚は勢いよく振り返り、すぐに、はにかんだように顔を前へ戻しました。
 振り返ると互いの顔の位置がとても近く、ともすれば触れてしまいそうな距離になるからです。
「あのさ。あたしが尼になったら、法師さまと一緒に仏様にお仕えする。この山で、ずっと」
「それは無理ですよ。出家した男女が同じ屋根の下に住むなど……」
 そう言いさし、弥勒は口をつぐみました。
 控えめに振り向いた珊瑚の無垢な瞳を間近に見て、いつまでも、この可憐な人とともにありたいと思いました。
「……そうですな。一緒にこの山で、季節とともに勤行できれば」
「約束ね」
 儚いその望みが叶わないことを弥勒は知っていました。
 だからこそ、珊瑚との毎日は、かけがえのない、まぶしいほどのきらめきだったのです。


 桜の季節が終わる頃、長雨が続き、弥勒はしばらく外出ができませんでした。
 この雨の下、珊瑚は、犬夜叉は、雲母はどうしているでしょうか。
 弥勒はひたすら勤行に励んでいましたが、心に浮かぶのはあの愛らしい姫のことばかり。
 数日間降り続いた雨がようやくやんだ夕方、待ちかねたように弥勒は寺の縁側から西の空を眺めました。
 明日は晴れるでしょうか。
 そのとき、背後の障子の向こうで話している僧たちの会話が、聞くともなしに耳に入ってきました。
「長く患っておられたが、こんなに早くお亡くなりになるとはの」
「ご容体が急変されたようで、本当にお気の毒です」
「庵には、お小さい姫君がおられたが」
「尼君のお孫様です。すでに、父君が迎えを寄こされたようですよ。母君ももうおられませんし、今後は父君とお暮らしになるとか」
 弥勒ははっとしました。
 珊瑚と祖母君のことだと、すぐに判ったからです。
(尼君がお亡くなりに? では、珊瑚は見たこともない父君に引き取られるというのか)
 もう夕闇が迫る時刻でしたが、居ても立ってもいられなくなって、弥勒は、急ぎ、そのまま珊瑚の庵へと向かいました。
 庵はすでにがらんとしていました。
 人の気配もありません。
 薄暗い中、呆然と弥勒が立ちすくんでいると、軽い足音が聞こえ、雲母が姿を見せました。
「雲母……」
 雲母は結び文を咥えています。
 差し出されたそれを震える手で受け取って、絶望的な気持ちで文を開けると、涙の染みとともに、珊瑚の手蹟で和歌が一首。
 二人で一緒に手習いをしたときに、お手本にした歌のひとつです。

  たゆらきの山の峰の上の桜花 咲かむ春へは君し偲はむ

 別れの歌。
 弥勒の頬を涙が伝いました。
 その場にしゃがみ、文を握りしめ、弥勒は胸の痛みと嗚咽をこらえます。
 こぼれる涙は、はらはらと散る桜の花びらにも似て。
 幼いその感情にもまた、名がありました。
 “恋す”、という──

* * *

 それから、幾度も桜の季節が訪れ、六年の月日が流れました。
 弥勒の宮は、北山に送られてから二年後、十四の年に、還俗して都へ戻されました。
 帝である兄君が眼をお患いになられ、また、弘徽殿の皇太后も重い病にかかられたのです。
 これらを、亡き父帝のご遺言を無視して弥勒の宮を宮中より追い出した罪によるものとお考えになった帝が、弘徽殿の皇太后を説き伏せ、異母弟の弥勒を都に呼び戻したのでした。
 左大臣の庇護のもと、弥勒は、今は亡き母の遺産である二条の邸に住んでいます。
 還俗に際し、臣籍に降下した弥勒も十八になり、現在の官位は三位の中将です。
 容姿端麗で学問にも楽にも秀で、教養高い貴公子として、弥勒は若い姫君たちや女房たちの憧れの的でした。
 そんな華やかな生活の中でも、思い出されるのは北山で出逢った桜の姫君・珊瑚のこと。
 さぞかし美しい姫君になっていることでしょう。
 珊瑚以上の姫君を探し、否、珊瑚自身の面影を求め、弥勒はあちこちの姫と浮き名を流し、いつしか恋の手練れとなっていました。
 けれど、心が満たされることはありません。
 胸に想うは、かの姫君のみ。
 逢いたいと──
 弥勒は切なく想いを募らせます。

 そんなある日のことです。
 兵部卿の宮邸で、大勢の公達とともに蹴鞠に興じていた弥勒は、一息つくために、そっと鞠壺から離れました。
 近頃、兵部卿の宮の邸には、妙齢の美しい姫君がいるとの噂です。
 その姫の姿を垣間見ることができないものかと、弥勒は、ひとり、庭を歩いていました。
 桜の直衣をまとい、ゆるゆると歩を進める様は清げであり、ため息がこぼれるような貴公子ぶりです。
 弥勒はふと足をとめ、広い庭の桜の木を見上げました。
 庭の、見事な枝振りの桜の木々が花びらを雪のように散らしており、いやが上にも北山の山桜を思い出させます。
 きざはしに座って、舞い散る桜を眺めようと思った弥勒は、ふと、階に面した御簾が、不自然に揺らめいていることに気づきました。
 とっさに階の陰に身を隠すと、御簾の下から猫の姿が見えました。
 庭に出ようとしているのですが、打紐が躯に絡まって外へ出られないようです。
 なんとなく弥勒がその様子を眺めていますと、御簾の中からすっと差し出された手が見えました。
 袖口から、紅梅重ねの匂いの色彩がこぼれています。
「……!」
 これが噂の姫君でしょうか。
 弥勒は息をつめて、姫君の様子を見守りました。
 打紐から逃れようとする猫の躯を押さえ、紐を解いてやる手は白く小さく、その持ち主の美しさを期待させます。
 御簾が大きく揺れ、紐から解放された猫が庭へ走り出たとき、一瞬でしたが、猫を見送る姫の横顔がちらりと見えました。
「!」
 思わず息を呑んだ弥勒は、信じられない思いで眼を見張りました。
(珊瑚──?)
 すぐに御簾の内へ戻ってしまった姫君は、弥勒が想い続けていたあの桜の姫君の面影にそっくりだったのです。
(まさか──しかし)
 弥勒は振り返り、庭に出た猫の行方を捜しました。
 猫はすぐに見つかりました。
 桜の木に登ろうとしていた猫は、尾が二つ。
「雲母? まさか、雲母、か……?」
 雲母は耳をぴくりとさせて振り返り、弥勒の姿を認めると、みう、と嬉しそうに鳴いて飛びついてきました。
「やはり、雲母」
 小さな猫又を抱きしめ、弥勒は雲母に頬をすり寄せました。
 姫君の移り香でしょうか。よい香りがします。
 想いがあふれ出しそうになり、言葉になりません。
 雲母がいるなら、あの姫は、やはり珊瑚に違いないのです。

後篇 ≫ 

2017.3.5.