二条の邸へ戻った弥勒は、舎人の八衛門に命じ、急ぎ、兵部卿の宮の姫君について調べさせました。
 八衛門は、弥勒が北山にいた少年の頃から仕えている人物で、中将の君が最も信頼する側近の一人です。
 翌々日、八衛門は情報を仕入れて戻ってきました。
 しどけなく直衣を肩にかけ、脇息に寄りかかる弥勒は、あの日、あのまま連れて帰った雲母を膝に乗せて報告を聞きます。
「姫君は珊瑚の君と申されまして、母君は、かつて兵部卿の宮様のご寵愛を受けていらした方だそうです」
「その方は十年以上前に亡くなられているのだろう?」
「はい。それで、残された珊瑚の君を宮様は引き取ろうとされたのですが、北の方様の嫉妬が激しく、結局、姫は母方の祖母である尼君に引き取られたとか」
「その尼君の住まいが、北山だったということだな」
「は」
 八衛門は重々しくうなずきましたが、狸顔で愛嬌があるので、あまり威厳はありません。
「尼君が亡くなったときのことは旦那も覚えておられるでしょう。その後、北の方様のお怒りも解け、珊瑚の君は父宮に引き取られることとなり、兵部卿の宮様のお邸の奥深くでお育ちになりました」
 少年時代から弥勒を知っている八衛門は、昔から、何故だか弥勒を旦那と呼びます。
「兵部卿の宮様は、珊瑚の君を春宮妃に差し出したいご所存のようで。ですが、どうもその……」
「なんだ?」
「宮家では持て余しておられるようですよ。頑なと言いましょうか、猫にしか心を開かない変わり者の姫君とのことで、その猫がまた、行方知れずになったと兵部卿の宮様のお邸では大騒ぎです」
「ああ、その猫ならここにいる」
 あっけらかんと弥勒が膝の上の雲母を撫でると、八衛門は呆れたように主人を見遣りました。
「旦那がその姫のご機嫌を取るおつもりなら、まずは猫を返したほうがいいのではありませんか?」
「解っているさ」
 喉を鳴らす雲母に微笑を向け、弥勒は満足げに答えました。
 庭の桜の枝を八衛門に手折らせ、弥勒は、そこに文を結びます。

  霞立つ春の山辺は遠けれど 吹きくる風は花の香ぞする

 流麗な手蹟でそれだけをしたためたのは、珊瑚を桜に見立て、君のいる場所は遠いけれど……と、その姿を垣間見てしまったことを匂わせたつもりですが、こんな遠回しな仄めかしではきっと珊瑚には伝わらないだろうと、雲母がこの文を届けたときの珊瑚の反応が楽しみでもありました。
「雲母。必ず、珊瑚に渡してくれ」
「みゃう」
 文を結んだ桜の枝を雲母に託すと、それを咥えた雲母は、軽やかに大路を駆けていきました。

* * *

 あれから、文の返事はありません。
 予想はしていたことでもありますし、雲母はときどき弥勒の住む二条院へ遊びに来るようになりましたので、弥勒は正攻法で珊瑚を口説くことにしました。
 とはいえ、変わり者といわれる姫君。
 何度、文を送っても、返ってくるさり気ない返事は、とても珊瑚自身が書いたものとは思えません。
(十中八九、女房の代筆だろうな)
 それでも、脈のありそうな返歌を見る限り、おつきの者たちは姫君の相手として弥勒の中将の君を歓迎しているふうにも思えます。
 弥勒としては、珊瑚が春宮妃に上がってしまうと、もう逢うことはできなくなるのですから、おのずと心は逸ります。
 いつまでも待ってはいられません。
 思いつめたある夜、ついに行動に出ることを決めました。
 たまたま二条院を訪れた雲母に頼み、供もつれず、牛車にも乗らず、変化した猫又にまたがって、驚いたことに中将はたった独りで兵部卿の宮邸へ出かけたのです。
 風に乗って空を駆ける雲母は、あっという間に宮邸に到着しました。
 邸では、わざわざ女房に取り次ぎを頼まずとも、雲母がとことこと姫君の部屋まで弥勒を案内します。
 辺りは朧な月明かりだけがひっそりと闇を照らし、室内はさらに森閑とした射干玉の闇に包まれています。
 雲母の導きで珊瑚の寝所までやってきた弥勒は、そっと中へ身を滑り込ませ、闇に眼を慣らそうとしました。
 と、闇の中で気配が動きました。
「誰? 少納言なの?」
 姫君の声。
 珊瑚は人が入ってきた気配に気づき、臥所に横になっていた身体を起こした様子です。
「中将です。おまえに逢いたくて、辛抱しきれずにこうして忍んでまいりました」
「中将さま? 人違いじゃない?」
「……やはり、私からの文を読んでいないのだな」
 やれやれと、弥勒は小さく吐息を洩らしました。
「どの文?」
「弥勒の中将です、珊瑚の君。文は何人くらいから届くのですか?」
「知らない。みな、女房たちが返事を書いているから。あたしはあんたを知らないし、春宮妃にもならない。恋なんか……しないから」
 姫君のそばへ膝をつき、弥勒は姫のほうへ手を伸ばしました。
「私はおまえに恋をしている。もう、ずっと前から」
「弥勒の君の女人に関する華やかな噂は聞いているけど、そんなありふれた口説き文句で、誰でも自分になびくと思ってるの? 大声を出して人を呼ぶよ」
「構いませんよ。私なら、むしろ歓迎されるでしょう」
 珊瑚の姫君は悔しそうに口をつぐみました。
「……あたしは、恋はしないの。山育ちで、都の生活には馴染めないし、言葉遣いもこんなだし。そのうち北山へ帰って、尼になろうと思っている」
 その刹那、突然、闇の中で強く抱きしめられ、珊瑚は息を呑んで硬直しました。
「だから、中将さまは他の姫を……」
「誰を想っている」
 弥勒の声音が低く、責めるように響きました。
「誰か、他の男を想っているな?」
「中将さま──
 珊瑚は中将の腕から逃れようともがきましたが、抱きしめる腕の力はますます強くなるばかりです。
「北山へは帰さない。あの蹴鞠の日、おまえの姿を見てしまったからには、おまえを他の男に渡すわけにはいかない」
「じゃあ、あの桜の枝につけた文は中将さまが……?」
 そのとき初めて、珊瑚は雲母を外へ出したときに姿を見られていたことに気づきました。
「待って、でも、あたしはあの人を……あの人のこと……だから──!」
「忘れろ。珊瑚はおれのものになればいい」
 男の力になすすべもなく、珊瑚は臥所に倒されました。
 たきしめた香の香り。
 自身のものではなく、男の衣から漂う香りが、ひどく珊瑚を混乱させ、惑わせました。

 珊瑚の姫君との待ち焦がれた逢瀬。
 けれど、姫の心は、すでに誰かに傾いている様子。
 言い知れぬ悔しさと哀しさに、珊瑚に対する弥勒の抱擁は、我知らず荒々しいものとなります。
 短い一夜は珊瑚にとっても苦痛でしかありませんでした。
 想い続ける人への罪悪感に、その苦痛が大きければ大きいほど、これは自分への罰だと感じ、姫はただひたすら耐えるのでした。

 白々とした朝の訪れを感じ、身を起こした弥勒は、珊瑚の額髪をかきあげ、姫の唇に唇を落とします。
 珊瑚の頬には涙の雫が残っていました。
「……もう来ないで」
「今宵、また来る」
 離れがたく、弥勒は珊瑚を抱きしめます。
「ひとつ訊いていいか?」
「……なに?」
「おまえが心に秘めている男は誰だ。文を寄こす別の男か?」
 一瞬ためらい、眼を伏せたまま、珊瑚はぽつりと答えました。
「もう会えない人」
「都の公達ではないのか?」
「あたしが勝手に想っているだけ。その人、法師になっているはずだから、もう、決して会うことはない」
「……」
 それは弥勒自身のことではないでしょうか。
「だから、珊瑚も尼になると?」
「子供の頃、北山で一緒に勤行しようと約束したんだ」
 変化した雲母に乗って、二人で山桜の中を駆けた子供時代の思い出が鮮やかによみがえります。
 それは、決して色褪せてはいませんでした。
 不意に愛しさがこみ上げ、弥勒は珊瑚を抱く腕に力を込めて、姫の耳にそっと唇をよせました。
「咲かむ春へは、君し偲はむ」
 弥勒がつぶやくと、うつむいていた珊瑚がはっと瞳を上げました。
「中将さま?」
「春が来るたび、雲母に乗って一緒に桜の中を駆けた姫君のことを思い出していた。別れてから、ずっと」
「……」
「犬君と三人で遊んだことも覚えている。子供の頃から、ずっと恋していた。珊瑚、おまえに」
「法師さま……? まさか、中将さまが?」
 珊瑚はさっと立ち上がり、手ずから格子を上げ、仄白い黎明の光を室内に入れました。
 立烏帽子をかぶり、乱れた白い衣をまとった艶めかしい弥勒の姿が浮かび上がり、珊瑚は驚いて眼を見張ります。
「……似てる。法師さまに。ほんとに……ほんとに、中将さまが法師さまなの……?」
 無垢な黒い瞳にひたと見つめられ、弥勒は微苦笑を洩らします。
「疑り深いな。珊瑚は法師になると言っていた少年の名を知らなかったのか?」
 はっとした珊瑚がこっくりとうなずきます。
「お祖母様も少納言も、法師さまのことは二の宮様って呼んでたから」
「名は弥勒。私だ」
 珊瑚は大きく眼を見張り、秀麗な弥勒の顔をじっと見つめました。
 弥勒も珊瑚を見つめます。
 少女の頃よりさらに美しく、桜の蕾が花開いたような、初々しく可憐な姫がそこにいました。
 その頬がたちまち朱に染まり、珊瑚は耳まで赫くなりました。
「じゃあ、あたしは法師さまと──
 契りを交わした相手が互いの初恋の人だったことを知って、珊瑚は呆然とたたずみます。
 ゆるりと立ち上がった弥勒は、そんな姫に歩み寄り、その華奢な肢体を抱きしめました。
「逢いたかった、珊瑚。──やっと、逢えた」
「法師さま」
「還俗して今は法師ではない。弥勒と、名で呼んでください」
「弥勒さま──
 桜咲く山で出逢った初恋の人に違いありません。
 珊瑚の瞳からぽろぽろと涙がこぼれます。
「歌だけを残して、珊瑚が突然姿を消したとき、おまえの父君をお恨み申し上げた」
「あたしも。法師さまにお別れさえ言えなくて……」
 あとからあとから想いがあふれ、とても言葉にならず、二人は心からの口づけを交わしました。
「そうだ」
 突然、悪戯を思いついたように、弥勒は珊瑚の瞳を覗き込みます。
「今度は私が珊瑚を攫ってしまおう。今からすぐに、私の住まいの二条院に行こう」
「無理だよ、そんなの」
「兵部卿の宮様へのせめてもの意趣返しです。男の衣をここに残しておけば、何があったのか、だいたい察してもらえるだろう」
 雲母、と弥勒が呼ぶと、どこに隠れていたのか、忠実な猫又はすぐに二人のもとへ姿を現しました。
 珊瑚が雲母を抱き上げ、やさしく頭を撫でてやります。
「雲母。おまえ、法師さまだったから手引きしてくれたんだね」
 白い肌衣姿のままの珊瑚に、そこにある紋の浮いた葡萄染めの小袿を拾い上げ、弥勒は姫の細い肩に羽織らせました。
 弥勒のほうは薄藍色の直衣をふわりと抜け殻のように臥所に残し、軽々と珊瑚を抱き上げます。
 とん、と床に下りた雲母が炎をまとって変化しました。
「さあ、夜が明けてしまわないうちに行きましょう」
「本当にあたしを攫うつもりなの? みなに心配をかけてしまう」
「乳母の少納言だけは、今日中に二条院から迎えをやりましょう。御父君には三日夜のあとでお知らせする。所顕しの儀は二条院で行いたい」
「二条院で? そんなことできるの?」
「一緒に住みたくはないか?」
「……」
 雲母の背に乗り、己の前に横向きに座らせた姫をしっかり抱いて支えてやると、珊瑚はなよやかに弥勒に身を預けました。
 雲母がふわりと宙へ浮かびます。
「兵部卿の宮様は私が説き伏せてみせます。珊瑚はどう考えても春宮妃には向かないでしょう。となれば、私の北の方にという申し出は、宮様にとっても悪くない話だと思いますよ」
「北の、方……」
 長年、恋い慕ってきた人の正室になるのです。
 珊瑚は信じられないように胸を押さえました。
「それから、珊瑚。夕べはすまなかった。その……あんなふうに無理やり……」
「いいよ。お互い誤解があったんだから」
「今宵は、うんとやさしくしてあげますから」
「そういうこと、朝っぱらから言わないで!」
 途端に真っ赤になった珊瑚は声を荒げて下を向きました。
 そんな姫を愛しげに見遣り、弥勒は低く甘くささやきます。
「いくかへり露けき春を過ぐしきて 花のひもとく折にあふらむ」
「……」
「後朝の歌です。早いほうがいいかと」
「……弥勒さま、なんか子供の頃と雰囲気変わったね」
 色恋に手慣れた様子の弥勒に、珊瑚は恥ずかしそうにしていましたが、思いがけず愛しい人に巡り逢えた嬉しさは隠しきれず、飛行する雲母の背中で全身に風を受けながら、背の君となる弥勒の胸へ、そっと頬を寄せるのでした。
 京のあけぼのに染まる町が、美しく眼下に広がります。


 後年、弥勒の君の御一族は太政大臣にまで上られ、花のようにお栄えになったとのことでございます。
 珊瑚の姫君は二条院へ移り、無事、中将の北の方となられ、それからの弥勒の君は、他の女君たちのもとへ通われることはなくなりました。
 お二人はたいへん仲睦まじく、いくつもの季節をともに過ごされ、たくさんの御子に恵まれ──そんなお幸せな様が、昔語りに伝えられております。

≪ 前篇 〔了〕

2017.3.6.

「源氏物語」をベースにした平安パラレル。
文中の和歌は、万葉集と古今和歌集、源氏物語の藤裏葉から引用しました。