仔狐方士と黒の国
第一章 弥勒の失踪
昔々のこと、これは、はるか遠い彼方の外つ国の物語でございます。
支那のある地方のある王国の姫君・珊瑚は、失くしてしまった大切な指輪を取り戻すため、乳母兄でもある方士の弥勒とともに故国を離れ、西方の国を訪れました。
その国で、無事、指輪を取り戻した二人は、長年に渡って育んできた互いの想いを確かめ合い、結婚を約束したのです。
猫の妖魔の雲母を伴い、そのまま、しばらく各地を旅して楽しんでいた二人ですが、そろそろ珊瑚の父である国王に正式に結婚を許してもらおうと、針路を支那へ向けることにしました。
太陽が沈み始め、大空を翔けていた雲母は眼下に見えたオアシスへと降り立ちました。
そのオアシスには、そう大きくはない建物が建っています。
雲母の背から地に降りた弥勒と珊瑚は、緑が生い茂り、水も豊かなオアシスの町を見渡しました。
もう使われていない古い建物は、すでに廃墟と化していました。
もっと古い時代、隊商の休憩所として使われていたのかもしれません。
「この辺りでひと休みしましょうか」
弥勒の言葉に珊瑚はうなずきました。
「国まで、どれくらいかかるかな」
「雲母なら、明日か明後日には帰れると思いますよ。かなり回り道の旅でしたが」
「あたしは楽しかったよ? 旅が終わるのが残念なくらい」
旅の経験が豊富な弥勒の案内で、彼が巡ったあちこちの土地を旅して廻ることは、珊瑚には珍しく、楽しいことでした。何より、ずっと弥勒と一緒にいられることが、珊瑚は嬉しかったのです。
「ですが、ずっと旅ばかりしていたら、いつまで経っても結婚できませんよ?」
「それは……困る」
二人はオアシスの水で顔や手を洗い、夕食のための水を汲みました。
「正式に結婚して、国王が許してくださるなら、また二人で旅をしてもいい」
弥勒の言葉に、珊瑚はうつむいたまま嬉しそうに小さな微笑を浮かべます。
「そうだね。……結婚してから」
そして、ふと顔をあげたとき、遠くに都市がそびえていることに――黒い城壁に囲まれた都市があることに気づきました。
「方士さま、あれは?」
珊瑚姫が見つめる方向へ、弥勒も視線を向けました。
「あれは黒の国の都です。このオアシスも、この辺りはすでに黒の国の領土ですよ」
「黒の国?」
よく知っているような方士の口ぶりに興味を引かれ、珊瑚は改めて都市に眼をやりました。
「方士さま、詳しいの?」
「二年前、しばらく滞在し、王宮で世話になりました」
「住んだことがあるんだ。方士さまが住んだ町なら、あたしも見たいな。今夜はあの町に泊まらない?」
花がほころぶように弥勒に微笑みかけた珊瑚でしたが、それに対して、弥勒のほうは。
「……」
「……」
「……」
「ちょっと! なんでそんなに躊躇うの?」
「え……その、あそこはあまり治安がよくないんですよ。珊瑚がわざわざ訪れるほどの町ではありません」
「ふうん?」
不思議そうに、ちょっと疑わしそうに自分を見遣る珊瑚姫の視線を、はは、と弥勒は曖昧に笑って受け流します。
「ねえ、もしかして、路銀がもう底をついたんじゃ……」
水を汲んだ皮の水袋を抱きしめ、姫の表情が少し不安げに翳りました。
「路銀ならまだありますよ。いざとなれば、装身具を売ればいいですし」
「あたしの装身具は売らないからね」
いつもは装身具などに執着しない珊瑚の言葉に、え、と思って改めて見遣れば、耳飾りも首飾りも指輪も、珊瑚の装身具は全て、弥勒が贈ったものではありませんか。
「安心しなさい。売るときは私の物を売りますから」
弥勒は少し嬉しそうに、くすり、と笑いました。
弥勒と珊瑚、そして雲母は、廃墟の適当な場所に腰を下ろし、パンと干し肉と干し果物で簡単な夕食を取りました。
食べ終え、雲母が水を飲みに行ったあと、目の前に立派な都があるのに、このような廃墟で夜を過ごさねばならないことを、弥勒は珊瑚に詫びました。
「本当なら、やわらかい寝床に寝かせてやりたいのだが」
「いいよ、方士さまと一緒ならどこだって」
「珊瑚……」
すっと頬に手を添えられ、珊瑚は素直に瞼を閉じました。
花の蕾のような可憐な唇に、弥勒はそっと唇をよせます。
二人で旅に出るまでは、手を触れることすら、罪悪感を感じていたのに、今では当たり前のように口づけを交わしているのです。
そのことに、弥勒は小さな感動を覚えました。
「疲れたでしょう。私が一晩中起きていますから、ゆっくり休みなさい」
「うん。悪いけど、そうさせてもらう」
ひと月以上も旅を続け、さすがに疲れがたまっている珊瑚姫は、自らの大面紗をたたんで枕代わりにして、その場に横になりました。
月が昇りました。
明るい夜です。
辺りは静かですが、姫の身に何かあっては一大事と、弥勒は賢者の杖を持ち、寝ずの番を務めます。
雲母は仔猫の姿になって、珊瑚に寄り添って眠っていました。
どこかで鋭い鳥の啼き声が聞こえました。
天上の月を仰ぎ、ふと、傍らに視線を落とした弥勒は、白く輝くようなものが地面に落ちていることに気づきました。
手に取ってみると、それは珊瑚の真珠の耳飾りです。
何かの拍子に耳から外れてしまったのでしょう。
いくつもの真珠を美しく意匠を凝らして連ねた耳飾りは、今、珊瑚がつけている首飾りとそろいのもので、この旅に出る直前、弥勒が珊瑚に贈った品です。
これらの品を選んだとき、まさか珊瑚が自分の妻になろうとは、考えもしなかったことを弥勒は思い返しました。
賢者と称される彼も、己の恋路だけは予見できなかったようです。
朝が訪れたら彼女に返そうと、耳飾りを懐にしまおうとして、ふっと、月光に濡れるようなその宝玉の美しさに珊瑚の美貌が重なって見えました。
誘われるように月にかざした、そのときです。
どこからか、突然現れた怪鳥が、白く光る耳飾りを鋭い爪で奪い去ったのです。
「……っ!」
あっという間の出来事に、弥勒は呆然となりました。
上を見上げると、鳥は彼の頭上を旋回しています。
ふつうの鳥ではありません。明らかに妖魔の類です。
鴉と同じような収集癖があるのでしょうか。
(まずい。珊瑚に怒られる……)
一番最初に、方士の頭にそんなことが浮かびました。
もとを辿れば、珊瑚の大切にしていた指輪を捜して、このような遠くまで旅してきたのです。
またしても珊瑚の大切な耳飾りを奪われてしまっては、彼女は再びそれを捜しに行くと言い出しかねません。
「くそっ」
けれど、相手が翼を持つ鳥となると、人間の弥勒は手も足も出ません。
彼をあざけるように、怪鳥は、ぐるぐると旋回を続けながら気味の悪い声で啼きました。
手段を思い巡らせていると、気配を察したのか、廃墟の中から変化した雲母が飛び出してきました。
「雲母……! 助かった」
雲母に乗って怪鳥を追おうとした弥勒は、一瞬、躊躇し、珊瑚の眠る廃墟のほうを振り返りました。
起こして事情を説明する暇はありません。
とっさに自らの指にはめた印章指輪を抜き取ると、建物の中に入って珊瑚のそばまで行き、彼はそれを彼女の指にはめました。
すぐ戻ってくるつもりですが、万が一、自分のいない間に彼女が目覚めても、安心して待っているようにという意味を込めて――
それから慌ただしく外に出た弥勒は、鳥がどこかへ飛んでいこうとしているのを見て、慌てて雲母を急きたて、妖猫に乗って夜空へと舞い上がりました。
そして、そのまま戻ってきませんでした。
気の毒なのは珊瑚姫。
オアシスの廃墟の中に、一人、取り残されてしまいました。
* * *
朝が訪れました。
眼が覚めた珊瑚姫は、辺りがしんとして、人の気配がないことに驚きました。
「方士さま……? 雲母?」
起き上がって、二人の姿を捜しながら、珊瑚は昔の水汲み場らしい場所へ顔を洗いに行きました。
けれど、やはり廃墟は森閑としています。
静けさを不気味に思いながら、ふと、己の指の指輪が増えていることに彼女は気づきました。
「これ、なんで方士さまのが」
その印章指輪は確かに弥勒のものです。
「方士さまの身に、何か……」
指輪を珊瑚の指にはめる余裕があったのですから、切羽詰まったものではないにしろ、何らかの異変が彼の身に降りかかったことは事実のようです。そして、
「雲母……? 雲母!」
愛らしい妖猫もともに姿を消しているということは、彼らは一緒にいるのでしょう。
仮に何かあったのだとしても、二人が一緒だということに、珊瑚は少し安堵しました。
建物の中へ戻ると、食料やその他の荷物は全部ここにあります。
この場で、方士と雲母を待てばいいのでしょうか。
心細さを紛らわせるようにパンを取り出し、食べ始めましたが、一人で食べる食事はとても味気なく感じました。
いつの間にか耳飾りが片方、なくなっているのと同様に、弥勒と雲母がいない現実は世界が安定を失ったようで、珊瑚姫の心を大きな不安が襲いました。
「……方士さまも雲母も、早く帰ってきて」
硬い床の上に、独りぽつんと座っているのがたまらなく淋しくなり、弥勒の帰りをアラーに祈ろうとしたそのとき、不意にあどけない声がかけられました。
「おぬしはあのときの姫ではないか」
「えっ?」
驚いた珊瑚が顔を上げると、いつ、そこに現れたのでしょう、青いターバンの、ふわふわした尻尾を持った小さな男の子が立っていました。
2010.6.18.